紙一重 1 - 5
(1)
部屋に入るなり社はアキラを後ろから抱き締めた。
身体に似合わず、蚊の泣くような声で囁くようにアキラの耳元で声を出す。
「塔矢・・好きや・・お前が好きなんや!」
アキラより背の高い社は、抱き締めるというより抱え込む感じで、アキラの頭に頬擦りして
黒髪の中に顔を埋めた。
あの人と顔を合わせてしまった事以外は予定通りだ、とアキラは思った。
昨夜社から電話があって、今日時間があれば会いたいと言われた時は、すぐに断るつもりで
いたが、話をしているうちに、いつの間にか社を利用することを思いついた。
北斗杯以降は殆ど顔を合わせる事は無かったが、社は上京する用事があったからと言って、
市ヶ谷の日本棋院に3回ほど顔を出していた。
関西棋院と日本棋院は組織が全然違うので、社が訪ねて来る事自体異例なのだが、来る時は
必ずアキラと顔を合わせている。
2回目までは偶然だろうと思っていたアキラだったが、3回目には社が自分に会うために
来ている事がはっきり分かった。それは数日前に急に予定変更になった手合いがあったにも
拘らず週刊囲碁にも載っていないアキラの予定を社が知っていたからである。
社のアキラを見る目は明らかに普通の棋士仲間を見る目では無かった。
小さい頃から色々な視線に晒されて来たアキラは、他人の視線に敏感な所がある。
視線の意味を敏感に感じたからといって、その視線に敏感に反応するわけでは決して無い。
どんな視線にも揺るがない強い意志をアキラは持っていた。
社の視線からは、自分よりも碁が強い者への憧れと尊敬が素直に見て取れる。そしてそれだけ
では無く、いつもアキラを熱い眼差しで見詰めている事も十分感じていた。
今までは棋院で顔を合わせても雑談するだけで、それ以上誘いをかけてくることは無かったため、
昨夜電話があった時には、とうとう来たな、とアキラは思った。
断るつもりだったのに社と会う気になったのは、社がアキラと碁を打つ事を強く希望したのが
大きく影響していた。アキラも社と一度ちゃんと対局してみたかったので、取りあえず
碁を打って、そこから先は碁の内容と社の出方次第で考えることにした。
(2)
社はずっとアキラと個人的に会いたいと思っていた。北斗杯予選の場で初めて顔を合わせた時は、
噂を聞いて想像していた「塔矢アキラ」とは随分違う印象を受けて、たいしたこと無いのでは?
と思っていた。だが、初めて合宿で碁を打つアキラを見て、その印象が全く違う事に驚くと共に
アキラの強さに激しく惹かれていた。容姿や物腰とは全くかけ離れた力強い碁はとても同じ年
とは思えない棋力だった。
いつかはアキラに追いつきたい、という想いが社の棋士生活を張りのあるものにしていたが、
ある日、暇さえあればアキラの事を考えている自分を発見して愕然とした。
一度気付けば離れているだけに想いは募るばかりで、口実を作って上京して日本棋院に何回か
会いに行ったが、アキラは「北斗杯を一緒に戦った仲間」以上の姿勢を崩してこなかった。
今回は東京での仕事の前日が丁度オフだったので、思い切ってアキラに電話して誘ってみる
事にした。少しの時間だけでも二人だけで会いたかった。
ただ会いたいと言っても良い返事が無い事は分かっていたので、碁を打ってもらえるように
頼むことにした。幸いアキラも特に仕事が入っている様子は無かったが、自分に会うことに
積極的に応じる様子も無かった。社はひたすら碁を打ちたいという事を強調すると、次第に
アキラもその気になって来たようであった。嬉しさの余り、電話を切ると「よっしゃー!」と
ガッツポーズを取ってはしゃいだ社だった。
昼過ぎに東京に着くと、駅のすぐ側のホテルにチェックインを済ませ、待ち合わせの八重洲
囲碁センターに向かった。アキラはすでに来ており、センターの人と雑談していた。
今日のアキラは明らかにいつもと違っていた。社を見つけると、にこやかに近付き自分から
声をかけた。
「やあ、久し振りだね。今センターの人に頼んで場所を確保してもらっているから」
───な、なんや?この笑顔は!いい感じやないか!
「おう、すまんな。・・・・・塔矢、今日はいつまで時間あいてるんや?」
「キミとゆっくり打つために、ずっと空けてあるよ」
「ホンマか!?悪いな、俺のために」
「キミのためだけじゃないさ・・・・・」
「へ?」
「キミと碁を打ちたいのは僕も同じだって事だよ」
(3)
社はアキラの言葉に有頂天になり、思わず顔が緩んで背中が丸くなる。
アキラはそんな社の様子に内心満足していた。
いざ対局が始まると、アキラも社も一人のプロ棋士の顔になり、真剣な打ち合いが続いた。
二人が早碁以外で真剣に対局するのは始めてであり、社が長い間望んでいた願いが実現した
事になる。
正面に座って真剣に碁盤を見詰めるアキラの眼差しは、想像以上に迫力があり、一歩も
引かない気迫が伝わって来て社をぞくぞくとさせた。身体は細くて社よりも小さいが、
対局中は体の周りにオーラが漂っており、触れれば大怪我をしてしまいそうな妖しい空気が
アキラを包んでいた。そして、しなやかで美しい指先から繰り出される厳しい一手は、
一人の棋士としても、アキラを想う人間としても社を心底酔わせた。
盤面が進んで厳しい局面に立たされる程、社は気分が高揚して、アキラに対する自分の
想いがこの場でさらに幾重にも重なっていくのを感じていた。
───いつかはこいつを越えて、俺の事をはっきり意識させたる。その余裕ある端正な顔を
歪めさせたる。自分の手によって乱したる!!
社のアキラに対する想いは、憧れでもあり尊敬でもあるが、また同時にアキラの全てを
征服したいという、性的欲望にも通じていた。
久し振りに打つ社の碁は、以前と違って読みが深くなっておりバランスの取れた囲碁に
なっていた。アキラが打つ甘い手を見逃さずに攻めてくる力強さも備わって、かなりの
成長を窺わせる。想像以上の手応えにアキラは興奮していた。
二度目の対局を終えるとアキラは顔を上げて社を正面から見据えた。その視線は満足出来る
勝負をした者にだけ向けられる賛辞の眼差しでもある。
社はアキラに真っ直ぐに見詰められて心臓の高鳴りを押さえる事が出来なかった。
その眼差しは、今まで社に向けられた事が無い、凛とした輝く瞳で社を驚かせた。
もしかしたら、自分の事を評価してくれたのかも知れないと思うと、顔が紅潮して体の芯が
疼き、理性と欲望がせめぎ合っているのを感じていた。
(4)
碁石を片付けながら、社は沈黙を作りたくなくて、やたらとアキラに話しかけた。
学校の事を話題にするとアキラも興味深そうに聞いて来る。
「どんな勉強をしているの?」
一言アキラが質問すれば、社はそれに付随するあらゆる事柄を身振り手振りで説明して
アキラを飽きさせなかった。
───もしかしたらイケるかもしれへん!
多少気が大きくなった社はダメ元でアキラを食事に誘ってみると、アキラは呆気なく応じてきた。
───どないしょ!何処に行けばええんや?・・・そや!ホテルのレストランにしよ。
二人は連れ立って囲碁センターの出口に向った。
センターの人に挨拶をする間は黙っていた社だったが、すぐにまた話し始める。
古文の禿先生の駄洒落を披露されて、アキラはその下らなさと、社の自分に対するけなげさに
思わず声を出して笑ってしまった。その瞬間背中から声がした。
「随分楽しそうじゃないか、アキラ君」
アキラは余りの驚きに笑顔がたちまち硬直する。だが振り返る一瞬の間に気持ちを立て直した。
「緒方さん。こんな所で何をしているのですか?」
「ハッハッハ、こんな所とはご挨拶だね。ちょっと野暮用があってね」
───緒方?あの二冠棋士の緒方かいな?ホンマに白いスーツなんや!
「そうですか。ボクはこれから用がありますのでお先に失礼します」
アキラはそう言って軽く頭を下げるとさっさと出口に向かって歩いて行く。
社は呆気に取られていたが、緒方に会釈するとアキラの後を追った。
緒方は社には目もくれずに、アキラの後姿に纏わり付くような視線を投げかけて声をかけた。
「あ、そうだアキラ君!遅くなったけど、誕生日のプレゼントありがとうな」
アキラは一瞬足を止め、顔だけで振り返ると僅かに唇を上げて微笑みながら、緒方を刺すような
視線で見て、
「いいえ。・・・捨ててくれてかまいません」
そう言うとさっさと歩き出した。社も慌てて後を追う。
───あきらくん?プレゼント?捨てる?なんやソレ!・・・・確か同門やったはずやけど、ごつい
痛い雰囲気やったな。そやけど緒方はスカしたヤツで虫が好かん。
(5)
食事中も特にアキラの様子に変化は無かったので、社は緒方の事はすっかり忘れて、また話に
夢中になりつつ、アキラの様子を探っていた。
社は話に夢中になることで自分の下心を見透かされまいと必死だった。
アキラの自分に対する想像以上の親しげな態度とアキラの容姿に、体の奥底の欲望が沸々と
湧き上がって来るのを抑えられなかったからだ。
アキラの美しさはレストランの薄暗い照明の中でも一際目立っていた。
アキラはVネックのセーターにカジュアルジャケット、ズボンは伸縮性のある素材で出来て
いるチノパンを身に着けており、細い身体にぴったりフィットしていた。さらさらの髪は
食べ物を口に運ぶたびに、笑うたびに揺れて、すぐにでも手を伸ばして触れてみたくなる。
時々社を見詰める瞳は底光りがしており、社は身も心も強烈に惹き付けられた。
───このまま帰しとうない。この雰囲気やし、もしかしたらもっとイケるかも知れへん!
調子に乗った社は、もう一局自分の部屋のマグネット囲碁盤で打たないか?と誘ってみた。
一瞬社の目を鋭く覗き込んだアキラだったが、すぐに応じてきた。
社の申し出はアキラが誘いをかけて導いたと言ってもおかしくなかった。
碁を打つ事以外では、このためにアキラは笑顔を作り、たわいのない話に声を出して笑って
食事を一緒にしたのである。
エレベーターに乗ると、さすがの社も緊張のためか黙ってしまった。
───碁を打つだけや・・・・
そう思おうとしても社にはもう無理だった。頭の片隅ではすでにアキラを抱き締めており、
ベッドに押し倒して唇を奪っていた。
───がっついたらいかん!・・・・そやけど、塔矢は涼しい顔してどういうつもりなんやろ?
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