傘 1 - 5
(1)
―――――水色の傘を選んだのは、大切な思い出があるからだ。
雨の匂いに気づいたのは、検討を始めた頃だった。
対局室の中は、いやな湿気と埃混じりの生臭い匂いが幽かに充満していた。
雨そのものには、水分特有の甘い匂いがあるけれど、室内にこもっているときは余り気持ちのいいものではない。
今朝、家を出るとき、快晴とまでは言わないけれど、雨の気配は感じられなかった。
いつ降りだしたのだろう。
そんなことを考えながら、碁笥に石を戻す。
「ありがとうございました」と挨拶を交わし、僕は出版部に顔を出すため、対局室を後にした。
外部から依頼されたインタビュー原稿のゲラチェックがあったのだ。
「失礼します」と、声を掛けると、去年の秋の人事異動で、出版部全体を統括する立場になった天野さんが「待ってたよ」と笑顔で迎えてくれた。
「今日は?」大き目の封筒と赤いボールペンを手に、天野さんが尋ねてくる。
「おかげさまで勝ちました」
「いや……」くっくっと天野さんが喉の奥で笑った。
「僕はなにもしてないんだけどね。でも、随分時間がかかったんじゃない? 相手は?」
「白川先生です」
「そりゃ、時間がかかって当たり前か……、えっと、こっちの会議室でいいかな」
僕は会議室へと案内してくれる天野さんの背中に、聞こえないようにため息を零した。
穏やかな雰囲気のせいで誤解されがちだが、白川先生は強い。
基本に忠実で堅く攻めてくるパランスの良いタイプだ。意外性には乏しいが、攻守ともに優れているから、気を抜くといつのまにか負けている。そんな相手だ。
その上、最近の白川先生は、変容の時期にあるようで、序盤に良い形ができると、面白い手を見せる。
棋譜を整理しているとき、それに気づき僕はかなり興味を持った。
そして、気がついたのだ。白川先生が、進藤の兄弟子であることに。
前に、少し聞いたことがある。進藤が白川先生の囲碁教室にやってきたときの話を。
本当にずぶの素人で、五つのルールさえ知らない進藤に、石取りゲームを教えたそうだ。
それがいつ頃のことだったか尋ねたら、どうやら僕と初めて対局した前後らしい。
今更のように、そんな彼に負けたのかと、僕は落ち込んでしまった。
(2)
まあ、それは横においておくとして、自分が教えた後輩からも貪欲に学ぼうとする白川先生の向上心とそれを受け入れ自分を変えていく柔軟性に、僕は心から感嘆する。
白川先生は、僕や進藤のように勝つことそのものに強い執着はないかもしれない。だが、碁を愛することにかけては人後に落ちないし、道を極めようとする点においては、凄まじい執着があるのだろう。
その執着の先に待っているのは勝利だ。
辿る道は違っていても、到達する地平は一つ。
落伍する者もいれば、停滞する者もいる。望んでも届かない者もいれば、端からあきらめている者もいる。
一言で棋士といっても、人それぞれ。
変容の途上にある白川先生は、やはり恐ろしい相手だと僕は思う。
それを、わかるのは同じ碁打ちでも極一握りで、天野さんもそこそこ打つとは聞いているが、やはり見ているものが違うからだろう。無意識に、白川先生を侮るようなことを言う。
僕は、それがなぜだか悔しく思えるんだ。
今日、僕はやっとの思いで勝ちを拾った。
中央の黒が良い形で繋がったと息をついた、そのすぐあとで白川先生は温厚な仮面を脱ぎ捨て、牙を剥いてきた。
思いがけない方向から下辺を荒らされ、それに対応している間に、せっかく繋げた中央を崩された。
僕は何度も歯を食い縛った。
うまく凌ぐことができたのは、以前進藤がこれによく似た手を並べてくれたことがあったのを、思い出せたからに他ならない。
(3)
父の経営する碁会所に、進藤が足繁く通ってくれたのは、去年までのことだ。
北斗杯の予選を控えた頃、代表に選ばれるまで、ここにはこないと彼は宣言した。
先月、北斗杯は終わったが、だからといって以前のように通ってきてはくれなかった。
4ヶ月の間に、進藤には新しい生活のパターンができていた。
高校に進学しなかった彼は、和谷という同門同期の棋士のアパートで、やはり若手の棋士たちと対局するのが日課となってしまったそうだ。
それに、父の碁会所は進藤にとって、あまり居心地がよいとは思えない。
僕のライバルと目されるだけに、くだらないことで口を挟んでくるギャラリーが多すぎるんだ。
先週、進藤は一度も碁会所に顔を出さなかった。
今日は久しぶりに会えるかと思っていたけれど、終わったときには彼はもう帰った後だった。
7段が相手だったのに、中押しで勝ったらしい。
北斗杯をきっかけに、進藤の実力はようやく正当に評価されるようになってきた。
それは喜ばしいことだけど、少しだけ寂しく思うのは、僕の我侭なんだろう。
「アキラ君、先客がいるんだけど、かまわないかな?」
天野さんの言葉で、僕は現実に引き戻される。
「あ、勿論です」
「じゃ、すまないけど、よろしくね」
天野さんが、会議室のドアを開けた。
「すみません」
中の人物に天野さんが話しかける。
「もう一つの会議室、ふさがってるんで、相席お願いできるかな」
「あ、OKですよ」
返ってきた明るい答え。
「なんだ、塔矢じゃん」
会議室にいたのは、進藤だった。
(4)
「久しぶりだね」
「あ、ホント、なんか久しぶり」
「中押し勝ちだったんだってね」
「うん、ちょっと奇策を試したら、早々とやる気なくしちゃったみたいでさ」
「奇策を試す? 君は高段者との対局で、そんなことをしてるのか?」
「何、おっかない顔してんだよ」
「君が不真面目だから」
「不真面目? 聞き捨てならねーな。確かに試したけどさ、新しい手を思いついたんだ。試さないでどうする? そもそも何の為に新手を研究するんだよ、勝つためじゃないのか? 俺には勝算があった。だから思いついたばかりの手を打った。それのどこが不真面目なんだ?」
畳み掛けるように返ってきた答えに、間違った点はなかった。
僕が気になったのは、言葉の選び方の不備にしか過ぎなかった。
不真面目? 彼がこの道を行くと宣言してから今日まで、碁盤を前にして不真面目だったことがあるだろうか。
ない。少なくとも、僕は不真面目な彼を見たことがない。
「すまなかった。僕が言いすぎた」
素直に頭を下げると、進藤は頭をかきながら、チッと舌打ちをした。
「そんなに潔く頭を下げないでくれよ、若先生。向きになった俺が馬鹿みてーじゃん」
少しだけ、ドキッとした。
悪意はないのだろうが、彼の口から若先生という言葉を聞きたくなかった。
それは、父の碁会所の常連たちが、好んで使う呼称だった。
一部の人たちは”若先生”と進藤ヒカルを常に比較する。
僕の気持ちなんてお構い無しだ。
父と比較し、進藤と比較し、応援という形で僕を息苦しくさせる。
僕は、ただ碁を打ちたいだけだ。
満足のいく碁を。
神の一手を極めるために、碁を打ちつづけていきたいだけだ。
なのに、下らない思惑や価値観で、僕を計ろうとする。
僕や進藤を計ろうとする。
仕方のないことだとわかっていても、時折滅入ることはある。
(5)
僕は………、恐る恐る尋ねていた。
「その奇策…、見てみたいな。帰り、碁会所に行かないか?」
ルーペで写真のネガをチェックしている進藤は、俯いたままで答えた。
「悪りぃ、今日は森下先生んちに寄る約束なんだ。また誘ってよ」
胸が痛んだ。
―――――また、誘ってよ。
僕が誘わなければ、彼にくる意思はないのだ。
僕は、らしくもなく拗ねてしまった。
「また誘ってもいいのか?」
「え?」
「断るのは手間だろう。それならそうと言ってくれたほうがいい」
進藤が顔を上げた、驚いたように見開いた瞳が、僕を凝視している。
その瞳に、僕は含羞を覚えた。
高校生にもなって、なぜ僕は甘えた口を聞いてしまったのだろう。
そう思うと、進藤の顔を見ていることができなかった。
視線を外す。慌てて、ゲラに目を通すふりをする。
そんな僕の耳に、進藤のため息が聞こえてきた。
「正直……、俺きついんだ」
僕は息が止まるような気がした。
「おまえんとこの碁会所、やっぱ居心地悪いんだよ。塔矢が悪いわけじゃないよ。でも、あそこに行くと余計なことに気が回って、煩わしくなる。俺はただ、塔矢と打ちたいだけなのにな」
「進藤」
顔を上げることができたのは、進藤の声が優しかったからだと思う。
「碁を打つだけなら、誰よりもおまえと打つのが勉強になる。でも、棋戦が始まって、外野に煩わされたくないからさ、自然足が遠のくのも事実なんだよな。俺、学校も行ってないし」
「学校?」思いがけない言葉に、鸚鵡返しになっていた。
「和谷のとことか行くと、若い連中で馬鹿話もできるしさ」
|