無題 第1部 1 - 5
(1)
「ッツ」
痛む頬を押さえながら、緒方は居間のソファに乱暴に座り込んだ。
「いい加減にした方がいいんじゃないですか?緒方さん」
後ろからついてきたアキラが、呆れたような声で言う。
この坊ちゃんに見られたのは少しまずかったか、そう思う。
それにしてもあの女、あんなに狂暴だとは思わなかった。
何度か寝ただけで恋人気取りで勝手に家までやってきて、玄関払いしてやろう
としたらいきなりの平手打ち。まあ、それくらいは対した事ではなかったのだが、
そこに丁度、忘れ物を届けに来たアキラが居合わせたのがまずかった。
修羅場というほどのものではないが、やはり中学生には理解できないだろう。
「聞いてますよ。緒方さんは女性に対して不誠実だって。」
子供のくせに、きいたような口をきく。どうせ芦原あたりがたれこんだんだろう。
人畜無害な顔をして、おせっかいな野郎だ。
むっとして黙り込んでしまったが、すぐに思い直す。
こんな子供相手に八つ当たりも大人げ無い。済まなかった、と言おうとした所へ、
頬へ触れるものがあった。
丁寧にアイロンがかけられた白いハンカチがそっと、押し当てられる。
「血が、出てますよ。」
心配そうな目で、アキラが覗き込んでいる。
思いがけない至近距離で覗き込まれて、一瞬、その顔を凝視してしまった。
が、次の瞬間に、アキラは可笑しそうに小さく笑い、
「ほっぺたに引っ掻き傷なんて作っちゃって…」
そう言って視線を外す。
「冷した方が良さそうですね。」
と、勝手知ったる足取りで、洗面所に消えて行った。
(2)
どうかしている。
心配そうな眼差しに、そしてその後の微笑みに、一瞬、見惚れて動けなくなったなんて。
そりゃあ、アイツは整ったキレイな顔をしているが…。
「そんなキズ跡つけたまま、明日の手合いになんて行けないでしょう?」
そう言いながらアキラが戻ってきて、濡らしたハンカチを緒方の頬に当てた。
ひんやりと心地良い感触だ。
「一体、何をそんな、ひっぱたかれるような事をしたんですか?」
覗き込んだアキラの顔をまじまじと、だが無言で見詰める。
キメの細かい、白い肌。切れ長の涼しげな眼に、艶やかでクセのない髪がかかっている。
知らなければ、一瞬、美少女と見間違うような容貌だが、意志の強そうな眉と目の光が、
見た目以上に彼が激しい気性の少年である事を物語っている。
だが、アキラは緒方の沈黙を誤解したらしい。
「ゴメンなさい…ボク、無神経な事言っちゃって…」
しゅんとして目を落とすと、突然幼く見える。対局中の厳しい表情からは窺い知れない
子供っぽい顔が妙に可愛らしく思えて、つい、何の気なしにその顔を引き寄せて、
小さな唇にかるくキスした。
(3)
顔を離すと、目を丸くさせて固まってしまっているアキラがそこにいた。
手慣れた女達とは違うその反応が新鮮で、つい、からかってやろうという気になったの
かもしれない。手を引き寄せると、簡単に倒れ込んだアキラの身体を、そのままソファに
押し倒し、まだ、何が起きているかわからない、という表情で大きな目を見開いている
アキラに今度はゆっくりと深くくちづけする。
化粧の雑味の無い柔らかな唇を丹念に味わううちに、緒方はいつしか夢中になっていった。
さらさらと滑る黒髪の感触を右手で楽しみながら、左手でシャツのボタンを外し、胸元に
手を滑り込ませた所で、突然我にかえって身を起こした。
(4)
一体、俺は今、何をしていたんだ?
子供相手に、しかも相手は師匠の息子だ。
男相手に、一体、何をするつもりだったんだ、俺は。
冗談じゃない。そんな趣味はなかった筈だ。
見下ろすと、初めて与えられた快感にアキラは茫然自失している。
軽く頬を叩いてやると、そこで初めて意識が戻ったようだ。
キッと緒方を睨み付けながら、アキラが身を起こす。
なんだかその睨み方が可笑しくて、つい、小さく笑いが漏れてしまった。
カァッと、アキラの頬が朱に染まる。
緒方に背を向けて立ち上がろうとしたアキラの口から小さく息が漏れる。
(5)
膝からくず折れそうになったアキラの腕をとっさに掴んで支えようとした。
が、それを咎めるようにアキラは振り向く。強く歯を食いしばり、緒方を睨み付ける
目に、涙が滲んでくる。無言の抵抗を込めた凝視の後、アキラは支えていた手を
払いのけ、緒方に背を向けると、震える手でシャツのボタンを直そうとした。
「キスも知らないようなガキのくせに、大人の事に口出しするからだ。」
緒方は、怠惰にソファにもたれかけたまま、気まずさをごまかすように、アキラの背
にそんな言葉を投げかける。
が、アキラは無言のまま落ちていた鞄を拾うと、震えを押さえようと必死の足取りで
玄関に向かい、そして、乱暴なドアの音を残して出ていった。
しんとした部屋に響き渡るその残響を聞きながら、緒方は、足元に落ちている白い
ハンカチをぼんやりと見ていた。
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