無題 第2部 1 - 5


(1)
タクシーを使って家に帰り、気力を振り絞って自分の部屋へ辿り着くと、アキラはそこへばったりと
倒れ込んだ。
家に帰りつくまで、両親がいない事を忘れていた。
誰もいない真っ暗な家についてはじめて、誰もいない事に気付き、アキラは絶望的な気分になった。
それでも、今日ここに両親がいないのは良かったのだろう、と理性では思う。心身ともにぼろぼろの
自分を、何と説明したら良いのかわからないし、優しい母を心配させたくはなかったから。
けれどやはり、誰もいないことが不安で、寂しくて、心細かった。
誰かに、そばにいて、安心させて欲しいと、心底思った。
けれどそんな人は誰もいない。
今までだったら―尤もこんな不安な気持ちになった事は今までにほとんどないけれど―父の門下
生でもアキラと親しい人物が頭に浮かんだかもしれない。けれど今日、アキラを打ちのめしている
のは他でもない彼なのだ。
―芦原さん…
もう一人の人物が頭に浮かんだ。彼に頼ろうか。
けれど、もう一方で、本当に彼が信用できるのだろうか、という疑いが頭の隅をかすめる。
―あの人だって…あんな事をする人だなんて思わなかったのに…
一旦失われた信頼は、他の人への信頼も危うくさせた。
それに、芦原にだって自分のこの状態をどう説明すれば良いのかわからない。
床に倒れ伏した状態で、薄れようとする意識を必死で繋ぎ止めようとする。
―このままじゃ駄目だ。着替えて、布団をしいて、それから…
必死の思いで上着だけ脱いで、掛け布団を引っ張り出してそれからアキラは意識を失った。


(2)
だが眠りの中でも悪夢がアキラを苛んだ。

「オマエとはもう打たないぜ」
自分を拒否する背中を必死で追う。
やっと追いついて、肩を掴もうとした瞬間、自分の肩が掴まれる。
嫌だ、放せ、と叫ぶアキラを聞きもせず、その手はアキラの身体を抱きすくめる。
手の中からやっと掴まえた肩が逃げていく。遠くで笑いながらこんな風にアキラに告げる。
「…さん達と…囲碁部で、やってくんだ。オマエとはもう打たない。」
その声を追いかけたいのに、闇の中から大きな手が彼を捕らえて放さない。
明るい光の中で、彼は笑っている。
笑っている。沢山の人に囲まれて楽しげに、アキラの苦しみなど違う世界の事のように、笑っている。
目は光を求めているのに、身体は闇に絡め取られ、外から、内から、彼の感覚を揺さぶる。
闇の仲から荒い息と掠れた声が彼の名を呼ぶ。
その声に、アキラは、違う、あなたじゃない、と必死に叫ぶのに、そう叫ぶ自分とは別に、自分に与えら
れた刺激に溺れ、更に貪欲にもっと多くの刺激を求める自分がいる。
いやだ、やめろ、と誰に向かってか―自分に向かってか―叫ぶ声が闇に吸い込まれる。
闇の中で精神と肉体が引き裂かれ、引き裂かれながらも落ちていく自分を感じる。
天上の光が彼を嘲笑うかのように輝いている。どんなに手を伸ばしても、その光には手が届かない。


(3)
目覚めると、べっとりと汗をかいていた。
身体のあちこちが痛い。畳の上に直接寝ていたためだろうと、アキラは思った。
起き上がろうとすると、激しい頭痛がし、息が切れる。
多分、発熱しているのだろうと、アキラは感じた。
ノドが焼けるように渇いている。
衣服が汗で身体にまとわりついて気持ちが悪い。

それでも、幾分寝たためか、昨日よりは動けるようになっていた。
ふらつく足取りで台所へ向かい、買っておいたペットボトルのお茶を飲む。コップに注いだ一杯を
一気に飲み干し、大きく息をついた。
― お母さんはこういうのは好きじゃなかったけど、買っておいてよかったな。
自分でお茶を煎れるだけの気力はなかったし、水道の水は不味い。もしかしたらスポーツドリンクの
ようなものが良いのかもしれないが、それは買い置きはなかった。
何かを胃に入れなければ、と思い、何かすぐに食べられそうなものを探してあたりを見回した。

飲み物とコップ、それと果物をいくつか選び、お盆に載せて、アキラは自室に戻った。
熱のせいか、あまり味を感じなかった。りんご1個を食べきるのがやっとでそれ以上は食べたくない。
それから薬を飲み下し、今度はちゃんと布団を敷いて、夜着に着替えて、床についた。


(4)
―あれは、いつの事だったろう…
布団の中で、幾分薬が効いて来たのか、ぼんやりとした頭で、思い出す。
ずっと昔、幼い頃、熱を出して、両親が不在の日、あの人が来て、看病してくれた。
ボクの好物だったプリンを買ってきてくれて、すごく嬉しかったのを覚えている。
それから、器用な手付きでリンゴをうさぎの形に切ってくれた。ボクはあの人の膝の上で甘えて、
りんごを食べさせてもらった。しゃくしゃくとしたりんごの舌触りを、覚えているような気がする。
あれ?でもそれは別の時のことだったかな。それでも、あの人はいつも優しくて、自分はそれに
甘えて随分とわがままを言ってしまっていたたような気がする。
あれは、いつの頃だったろう。
あの人はいつも優しくて、ボクはあの人が大好きだった…大好きだったのに。

突然、アキラの身体がブルッと震えた。暗い部屋の中で、更にきつく目を閉じる。
思い出しちゃ、いけない。
嫌な事は、思い出しちゃいけない。忘れてしまえば、なかった事にできる。
忘れろ。忘れてしまえ。
そして、何も知らなくて、幸せだった頃の事だけ、思い出していたい。
せめて今日だけでも。好きなものだけ数えて、嫌な事は全て忘れて。
ボクの好きなもの。冷たいプリン。うさぎのりんご。
庭につもったわずかな雪でつくった小さな雪だるまと雪うさぎ。
縁日ですくってきた赤い金魚。金魚鉢のなかでひらひら泳いでた。
夏になるといつも冷たい麦茶をおかあさんが用意してくれていた。ほんのりと甘かった。
それから、縁側で団扇で扇いでくれたおとうさん。大きくがっしりした、頼もしい手。
それから…それから…ひんやりとした感触の白と黒の石…、しんとした室内に響く音…。


(5)
門はかたく閉ざされていた。
彼の知る限りでは、こういう事は今まで無かった。都内とは思えない、広い純和風の屋敷
には、来客も多く、その門はいつも開放されていた。
誰かしら門下生が来ており、賑やか、というのとは少し違うが、それでも活気のある家だった。
その家が、しんと静まり返り、門も閉ざされている。
彼は不安になった。家の主がこの家を離れて海外にいる事は知っている。その留守を預かっ
ている筈の少年が、病気であるらしいと聞いて、見舞いに来たのだ。
彼が手合いを休むくらいだから、かなりひどいのではないか、そうは思っていたが、この家の
様子は彼を更に不安にさせた。
そして、可哀相に、と思った。こんな広い屋敷に独りで、病に伏しているであろう少年を想像する
と心が痛んだ。もっと早く連絡してくれれば、来てやったのに。
門のベルには応答が無い。
寝ているのだろうか。そうだとしても、独りでいる筈の少年を放っては置けない。そう思ってベル
を鳴らし続けた。
何度か鳴らし続けた末に、やっと、屋敷の奥で応えがあった。
「どなたですか…?」
若干、不機嫌そうな声が遠くで尋ねる。
「…アキラか?大丈夫か?様子を見にきたんだけど…」



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