無題・番外 1 - 5


(1)
「久しぶりに飲みに行きませんか?」
と先に声をかけたのは芦原の方だった。
帰っても誰が待っているわけでもない。こんな鬱々とした気分を少しでも晴らしてくれるものが
あるとしたらアルコールくらいなのかもしれない。そう思って、緒方は芦原の誘いに応じた。
だが、早々に、緒方のグラスを開けるペースに、芦原が口を挟んだ。
「ちょっとちょっと、緒方さん、ピッチ早すぎませんか…?」
「うるさい、人の事に口出しするな。おまえは黙って自分のペースで飲んでればいいだろ。」
「人が心配して言ってあげてるのに…。
でも、緒方さん、ちょっとやつれたみたいだし、何かったんですか?ちょっと心配してたんですよ。
まさか失恋したとか…?アハハ、そんなはず無いですよね。」
そう笑いながら緒方の方を見て、芦原はギクリとして笑いを止めた。
「まさか…マジなんですか?」
「なんだ?芦原。オレが失恋してたら可笑しいのか?」
険のある目つきで芦原を睨んで緒方が言った。
「ウソでしょう…?緒方さんが…?」
芦原は目を丸くして大いに驚いた。
緒方にはその驚き振りが気に障ったのだが、芦原はそれには気付かずにこう続けた。
「わかりましたよ、失恋にはヤケ酒が一番。今日は幾らでもお付き合いしますよ。」
「ほう…?幾らでも?貴様が慰めてくれるとでも言うのか?」
しょうがないなあ、という目で芦原は緒方に笑いかけて言った。
「ええ、オレでよかったら。失恋だったらオレの方が先輩ですからね。
ハハハ、こんなの自慢になりませんけど。」
そう言って、芦原はカチッと音を立てて、自分のグラスを緒方のグラスにあわせた。
こいつ、人の言っている意味がわかってないな、と緒方は苦笑した。
まあ、そこらへんの天然さが芦原の良い所ではあるのだけれど。


(2)
「それにしても、緒方さんを失恋させるようなひとって、どんな人なんですかぁ?
興味あるなあ。」
グラスを片手にそう問い掛けた芦原を緒方はギロリと睨んだ。
「人の事なんかどうでもいいだろ。おまえはどうしたんだ。
この間女連れで歩いてたって聞いたぞ。」
「ああ…あれね。」
「なんだ、またふられたのか。」
「また…って、緒方さん…や、どうせその通りですけどね。」
芦原はグラスを揺すりながら空を見て言った。
「プロ棋士って、ナニそれ?囲碁なんてわかんなぁい、他に話すことないのぉ、ってね。
どーせ、囲碁バカで何も知らないし、学生の世界の事なんてわかんないですしね。」
「なんだ、そんなつまらない女、こっちから振ってやれ。」
「まぁね…どっちからでも大した違いはないですけどね…、
結局、友達の紹介してくれた娘と付き合ってみても、みんなそんな感じなんですよね…。
世界が違うって言われちゃね。どっちにしてもあんまりピンとくる娘でも無かったけど。」
芦原は軽く溜息をついて、グラスの残りを飲み干し、緒方の方を見た。
「そんな事より、緒方さんの失恋した相手って、どんな人なんですか、教えて下さいよ。」
「どんな、って言われてもなぁ…」
アキラだよ、とは言えまい。
「まず、緒方さんが本気になるってのが信じられないんだよなぁ。
やっぱ、キレイなひとなんですか?」
「キレイ?ああ、キレイだとも。極上だよ。街を歩けば誰もが振り返るような上玉さ。」
肩を竦めてそう言って、緒方はグラスの中身をすすった。


(3)
「だが、オレが惚れたのはアイツのお綺麗な外見と言うよりは…」
意志の強い瞳の光や、真剣さとひたむきさ。その裏の意外な脆さ。一見、素直で育ちのよい少年に
見えるが、その実、わがままで自分の意志や欲望にも素直で忠実で貪欲な所。
グラスの中の液体を見詰めながら、そんな言葉を緒方は心の中で浮かべた。
「ほんとに惚れてたんですねえ…」
感傷に浸っている様子の緒方の様子を見て、感慨深く、芦原が言った。
「それにしても、緒方さんをふっちゃうなんて、たいしたひとですよねぇ」
「そうさ、たいしたヤツさ、アイツは。
このオレを良いように手玉にとって涼しい顔をしてやがるんだからな。
しかも、オレときたら、物分かり良く、そうかわかった、ガンバレよ、ときたもんだ。」
「ふうん、さすが大人ですねぇ」
「大人なもんか。やせ我慢さ。
バカなプライドなんかのために、引き止める事もできない小心者だよ、オレは。」
引き止めるどころか、自分から手放した。
バカな事をしたのかもしれない、今頃、そう思った。
結局の所、アキラにとってオレは何だったんだろう。
緒方は最後に聞いたアキラの声を思い出そうとした。彼は何と言っていたろう。


(4)
あの翌日、アキラが来た。
インターフォンが鳴り、受話器の向こうにアキラの声を聞いて、モニターに映ったアキラの
姿を見て、オレは最初何も言う事が出来なかった。
何をしに来た。
映像のアキラに向かって、オレはそう言った。
オレでなく進藤を選んだおまえが、今更オレに何の用があるのかと。
何をしに来た、とは言ってもそれくらいはわかりきった事だった。
妙な所に律義なアキラの事だ。あのままオレとの事を終わらせられないとでも思ったのだろう。
最後の挨拶にでも来たつもりだったのか。(最後の挨拶?選挙運動かよ、ハッ!)
アイツは、自分がどんなに残酷な事をしているのか、まるでわかっちゃいなかった。
オレの事など気にかけず、さっさと忘れてくれた方がずっといい。
何をしに来た、と言ったオレに、アキラはどう答えたのだったろう。
受話器の向こうで、アキラが何と言っていたのか、もう、よく覚えていない。
ただ、何度か、ごめんなさい、と繰り返していたように思う。
だが。
謝罪なんか、そんな言葉なんか要らなかった。
おまえが、おまえ自身がオレのもとに帰ってくるのでなければ何も要らない。
言葉なんか要らない。欲しいのはおまえだけだ。
だが、そんな事を言う事さえ出来なかった。
何か必死に言い募るアキラの、言葉の意味など聞いていなかった。
ただ、アキラの声を聞いていた。
最後に何と言って受話器を置いたのかも覚えていない。
つまらない見栄を張って、物分かりの言い振りをして、泣きそうになっているアイツを
なだめてやったような気がする。バカか?オレは。


(5)
「バカだよ、オレは。物分かりのいいふりをして、さっさと手放して。
折角モノにした相手を自分から手放すなんてな。」
だがオレの腕の中で他の男の名を呼ぶ奴を、引き止めておいてどうする。虚しいだけだ。
そしてその相手も、同じように真剣にアキラを思っているのでなければ、渡したりなんかしなかった。

緒方はアキラの事を問い詰めに来た進藤ヒカルの、幼さの残る、だが真剣な眼差しを思い出した。
なぜかその眼差しはアキラを思い起こさせた。外見的には似た所なんてどこにもない筈なのに。
同じような顔をして、同じように相手のことをオレに聞いて。
まるでお互いの事しか見えていないように。
同等の強さで惹かれ合っているような二人を、横から見ていたオレはなんだ。まるで道化だ。
最初っから、オレの部屋に来たのもオレのためじゃなく、アイツのためだったのに。
最初っから、オレではなく、アイツしか見ていなかったのに。オレはそれを知っていた筈なのに。
けしかけたのはオレの方で、わざわざアイツをこの世界に呼んだのもオレだ。

オレは、バカだ。
進藤なんか構わずに、放っておけば良かったんだ。
名人に引き合わせ、院生試験の口添えをしてやり、わざわざその事をアキラに報告してやり、
まるでオレが仲立ちしてやったようなもんじゃないか?
オレさえそんな事をしなければ、進藤が棋界に入ってくることも、オレとアキラの間に入って
くることもなかったかもしれないのに。
そして近い将来、アキラを奪っただけでは飽き足らず、オレのタイトルも奪いにくるのだろう。
それともアキラの方が早いか。
二人が競り合いながら、トップまで駆け登っていく様が見えるようだ、と緒方は思った。
せめてオレの出来る事はできる限りのタイトルを保持して、頂点で彼らを待ち受ける事だけ。
彼らがそこにやってくるその日まで。だが今度は、今度こそは簡単に渡してやりはしない。



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