Pastorale 1 - 5
(1)
ぎいっと軋んで電車が止まり、うたた寝しかけていたアキラははっと目を開けて、外を見た。
見たことのない駅名に慌てるが、次いで流れた車内アナウンスにほっとした。
目的の駅はどうやら次らしい。
よかった。そう思って隣を見ると、こちらは気持ちよさそうに眠っていた。
走る電車の揺れが心地良いようで、深くリクライニングした背もたれに身を預けて、膝の上に乗せた
リュックを抱えて、妙にお行儀良くヒカルは眠っていた。
どうせ寝るんだったらボクに凭れてくれたっていいじゃないか、などというつまらない考えが湧いて
きそうになるのをアキラは無理矢理押し込めた。
それにしても、「今日はオレにまかせろ!」なんて言ってたくせに、最初っからこれかい?ボクが目を
覚まさなかったら二人して乗り過ごしてたよ?目を覚まして、ここはどこだ、うわ、行き過ぎちゃった
じゃねぇか、なんて大慌てして。それはそれで楽しいかもしれないけどね。
こんな風に電車に揺られて遠出するのなんて久しぶりだな。
出張で新幹線に乗ったりする事はあっても、「仕事」じゃそれは単なる移動にすぎないし。
考えてみれば二人で遠出するのなんて始めてだ。
日帰りっていうのがちょっと残念だけどね。
今日は天気も良いし、楽しく過ごせそうだ。
電車の中は軽く冷房がきいていて窓が開かないから、外の空気は良くわからないけど、窓の外に
目をやると、新緑は目に眩しいし、色んな花も咲いてたりして、とても気持ちいい。
でもね、進藤。
すごく気持ちよさそうに寝てるから、起こすのは本当に悪いけど、もうじき着くよ。
(2)
あんまりよく寝てて起きそうもないから鼻でもつまんでやろうかとアキラが思っていたら、ヒカルが
ぱちっと目を開けた。
「そろそろ着くか〜。」
ふわあ、と軽く欠伸をして、ヒカルは言った。
さっきまであんなにぐっすり寝てたくせに、こんなにタイミング良く目を覚ますなんて、もしかして狸
寝入りでもしてたのか、とアキラは軽く疑ったが、ヒカルはそんなアキラの疑念には気付きもせず、
「さ、行こうぜ。」とリュックを背負いながら立ち上がった。
「あ〜あ、よく寝た!」
電車を降りると、ヒカルは長時間座っていたために固まってしまった身体を解きほぐすように、大きく
伸びをした。
「で?今日はこれからどうするんだ?」と、アキラがそんなヒカルに問いかける。
「こっからちょっと先に湖があるんだ。軽くピクニックがてら歩いて、ボートとか乗ろうかなって。
どう?」
いいね、とアキラは応え、二人で改札を通り抜けて駅の外に出た。
「あ、ソフトクリーム売ってる!」
駅を出た脇の小さな土産物屋にソフトクリームの看板が出てるのをヒカルは目聡く見つけて声を
あげた。
「巨峰ソフトだって〜珍しいよな。」
「そう言えばここら辺は葡萄の産地だからね。」
店の中に入り、ぐるりと土産物屋の中を見回して、ヒカルがにやっと笑った。
これは何か良からぬ事を考え付いた時の顔だ。
「おい、進藤、何を…」
「お姉さん、オレさ〜お土産にワイン買ってこいって頼まれたんだけど、どれがお勧め?」
咎めようとしたアキラを遮るようにヒカルが言った。
(3)
何がお土産だ。見え透いた嘘をついて。大体キミは弱いくせにどうしてそんなに飲みたがるんだ。
アキラは呆れながらも店番の女性と話をしているヒカルを眺めていた。
どうやら「お土産を頼んだ人」の好みは「あんまり渋くなくって〜飲みやすくって〜お手頃な値段の」
なんだそうだ。呆れる。単に自分が飲みたいだけじゃないか。どうせキミは味なんかわからないん
だから、そこの冷蔵庫に入ってる葡萄ジュースでも飲んでればいい。どうせならボクに選ばせろ。
とアキラは言いたかったのだが、実の所、ヒカルのようにいけしゃあしゃあと嘘をつけるような体質
でもなかったので、やむを得ずワイン選びはヒカルにお任せする事にした。
どちらにしても、飲んでみたいのは自分も同じなのだし。
結局ヒカルは赤ワインを1本選んで、(どういう言い訳を使ったんだかコルク抜きまでせしめて、)
更に巨峰ソフトを買って店を出た。
「ちめたっ!でもウマ〜い。オマエも味見する?」
と言って突き出されたソフトクリームを、アキラもペロッと舐めてみた。葡萄味のソフトクリームは甘く
て冷たくて中々美味しい、と思った。
「うん、美味しい。」
「もう一つ買えばよかったかな?」
ヒカルが軽く後ろを振り向こうとしたのに、アキラは笑って応えた。
「ボクはそんなに沢山はいらないし、」
それに、と、今度は耳元で囁く。
二人で一つのを食べてる方が余計に美味しく感じないか?
耳元にかかる息がソフトクリームのせいで冷たくて、でも甘い息が届くような気がして、ヒカルは
顔を真っ赤にさせた。
その様子にアキラはクスクス笑いながらソフトクリームを持っているヒカルの手を掴まえて、顔を
伸ばしてもう一度ペロリとソフトを舐めとった。
(4)
「歩いて40分くらいって書いてあるんだけど、大丈夫?
バスも出てるんだけどさ、たまには歩いてみるのもいいかな、と思ってるんだけど。」
「ずっとこの道を?」
「いや、ちょっと行くとピクニックコースみたいのがあるみたい。」
「じゃあ、そっちを歩いて行こうよ。折角天気もいいし、普段運動不足なんだから、そのくらい歩いた
方がいいだろう。」
と、アキラは軽く空を見上げてからヒカルに笑いかけた。
「こっちこっち、」
と、小さな看板を見つけてヒカルが小道に入る。
さっきまで歩いていた道路もさして車が通っていたわけではないが、こちらの道に入るとやはり空気が
変わった気がする。
少し歩くと道路から外れて車の音も聞こえなくなった。風がさやさやと木々の枝を揺らし、時折、鳥の
声が聞こえる。木漏れ日を縫うように蝶がひらひらと舞っていた。
「気持ちがいいね。」
「うん、天気が良くてよかった。」
「こんな風に歩くのって久しぶりだな。小学校の遠足以来かも。」
「あはは、オレもそうかもしんない。」
「ホントに、普段は碁盤の前に座りっぱなしだからね。」
遠足ってどこに行った?とか、その公園ならオレも行ったことある、もしかしてすれ違ったりしてたかな、
とか、その時の思い出話とか、とりとめもない事を話しながら歩き続け、ゆるく曲がった小道を抜けると、
ふっと目の前の風景が開けて、湖面が広がっていた。
思わず二人は立ち止まって湖を眺めた。
湖面を渡る風がさあっと頬を通り抜けていき、アキラの白い首筋が半歩後ろに立っていたヒカルの目に
入って、ヒカルは眩しそうに目を瞬かせた。
(5)
偶然二人の休みが重なって、いつものように碁を打って過ごすのもいいかもしれないけど、たまには
二人で出かけてみたい、そう思ってアキラを誘ってみて、本当に良かった。
こんなに良い天気なのもいつもの行いがいいからだよな、とヒカルは思った。
初夏の日差しをうけて、湖面はキラキラと輝いている。湖の向こう端には岸辺の木々が湖面に映り
込んでいる。その風景をアキラは眩しげに目を細めて眺めている。
ヒカルは一歩下がって、アキラを含めたその光景を眺めていた。
頭上すぐ近くで、いきなり高く唱う鳥の声が聞こえて二人が顔を上げると、軽い羽音を立ててその鳥
は飛び立って行ったようだった。
しばしその後を追うように空を見上げていたアキラが、ふと振り返ってヒカルに笑いかけた。
「行こうか。」
逆光が、アキラの笑顔が眩しくて、まばたきしながらヒカルもアキラに笑みを返した。
「うん。」
そしてどちらからともなく手が伸び、軽く手を繋ぎながら、湖畔を歩き始めた。
少し汗ばんだ手も、並んで歩く時に微かに届く汗の匂いも、不快どころかなんて心地良いんだろう。
そう思って隣を歩く少年の顔を見ると、相手も同じように思っている事がわかって、本当に嬉しくなっ
て、お互いに顔を見合わせて笑みを交わした。
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