Shangri-La第2章 1 - 5
(1)
「なにこれ…」
ヒカルは手を止めて呟くと、アキラから身体を離した。
あるはずだったヒカルの身体が離れ、代わりに空気がさらりと尻を撫でる。
熱を持った身体ではそれは殊更に冷たくて、身震いしながら
アキラはうつ伏せでシーツに埋めていた顔をずらし、ほんの少し振り返った。
「え……、進藤?」
ヒカルは無言で、もう下着を着けていた。アキラは慌てて身体を起こした。
「進藤、なに?どうしたんだ?」
ヒカルはむっとした表情でアキラを避けるように顔を背け、服を着終えた。
「ちょっ…、何で途中で止める?進藤?」
答えようともせず玄関へと向かったヒカルを、アキラは何も着けないまま
慌てて追いかけ、玄関で靴を履くところで捕まえた。
「進藤?何も言わなきゃ分からないじゃないか?どうしたんだ?」
ヒカルはやっと振り返った。
「じゃぁその背中は何なんだよ!信じらんねぇ。もう二度と来ねェよ!」
――え?背中…???
アキラが逡巡している間に、ヒカルは塔矢邸を飛び出していた。
訳も分からぬまま、アキラはヒカルの言葉の真意を確かめようと、母の鏡台へ向かった。
三面鏡を開いて、見たものは――――新雪に滴り落ちた血の雫。
あるいは、白い薄絹の上にむしり散らされた寒椿の花弁――
(2)
アキラは言葉を失ったまま、ただその赤さだけを見ていた。
昨晩の出来事がまざまざと甦った。
―――そう、そんなつもりじゃ、なかったんだ…
(3)
最近のヒカルはとみに忙しくしていて(母親の治療代稼ぎとアキラは聞いていた)
アキラは碁会所に居る時間が長くなっており、必然的に緒方と打つ機会は増えていた。
その日は長考が多く、少し時間がかかってしまい、
市河を先に帰して二人で戸締まりをした。
「アキラ君、食事でもどうだ?どうせ家に一人なんだろう?」
という緒方の言葉に誘われ、アキラは遠慮なく食事につきあった。
緒方が家まで送ると言ったが、アキラは海が見たいとドライブをせがんだ。
理由は何でも良かった。ただ、一人になりたくなかった。
このところ、ヒカルとは電話では毎日のように話したが、
直接顔を合わせることは手合日以外では全くなくなっていた。
ヒカルにはヒカルの事情がある。仕方ないのだと分かっていたつもりだったが
それも期間が長くなるにつけ、どこか納得しきれないものになっていた。
やり場のない気持ちがアキラの中で渦を巻き、出口を求めて荒れ狂う。
そして、アキラ自身の外面の良さが、その嵐に拍車をかけた。
外で穏やかに見せれば見せるほど、激情は増幅されていく。
自宅で一人、迎える夜がイヤだった。宵闇は、感情の制御を失わせる。
時に、雨戸を閉め切り布団をかぶって金切り声をあげ続け
その行為で辛うじて『何か』を吐きだしていたが、全てを出し切ることはできず
本当にどうしようもない『何か』がアキラの中に鬱積していた。
(4)
緒方とは何も話さなかった。ただ二人黙って暗い海を見ていた。
隣に誰かがいる。それだけでアキラには十分だった。
だから、帰ろうという緒方の言葉にどう反応していいか分からなかった。
ならば場所を変えよう、と促され、結局アキラは緒方の部屋に上がった。
緒方が出してきた、過去に飲みつけたミネラルウォーターのボトルを
アキラは黙って受け取った。
「緒方さん、ちょっと肩を貸して貰えますか」
返事を待たずにアキラは緒方の隣に座り、ボトルの蓋を開けて
半分くらいを勢い良く喉奥に流し込んでから、ゆっくり緒方に凭れ掛かった。
緒方の膝に手を置くと、ほどなくして緒方の手がアキラの頭に乗せられた。
その手の温かさと重みに安心して、アキラは目を閉じた。
(5)
―――誘われている。
緒方は、はっきりそう感じていた。
海が見たいと言われて何となくそう思った。
部屋へ連れてきて、それが確信へと変わった。
緒方はそっとアキラの頭に手を乗せた。
安全かつ確実にアキラを落ち着ける方法は、これしか知らない。
最近のヒカルの噂は聞いている。
もともと、他人に関する噂とか情報の類には興味が薄いこともあって、
かなり疎いと自覚していた。そんな緒方ですら耳に入る位だから、
かなりメジャーな話に違いない。
大方、ヒカルはアキラを放っておいてそちらに夢中になっているのだろう。
そしてアキラはアキラで、空いた身体を持て余している…
とまぁ、そんな所だろうか。
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