白と黒の宴2 1 - 5
(1)
北斗杯の選手が、今日決まる。
洗面台の前に立ち、身支度を整えながらアキラは鏡の中の自分の顔を見つめる。
うっすらと目の下に隈が出来ている。顔色が悪い。ひどい顔だと思った。
緒方とはあの日以来会っていない。電話すらない。
冷たいようだがどこかでホッとしている自分がいる。
いや、そもそも本気で相手にされていたはずがないのだ。彼は自分より遥かに大人なのだ。
あいつが、社が東京に来ている。
フッと笑みがこぼれた。皮肉なもんだと思った。
社から守って欲しくて、庇護を望んで緒方と何度も関係を持ったのに直前にその
肝心のボディーガードに去られてしまったのだから。
ヒカルと二人で会っていた事で、自分が本当に好きな相手は他にいながら目的のために
体を差し出したのだと緒方に知られてしまった。
どんなに軽蔑されても仕方がない。それだけの仕打ちを自分は彼にした。
エサを与えるようにして彼に抱かれたのだ。
そしてそういう意識がありながら彼の体の下で自分自身も何度も喘ぎ、悶え、到達した。
両手を縛られて緒方に支配され責め抜かれた時のあの、自分の体が溶けて無くなるのでは
ないかと思えた程の快感が忘れられない。
恐らくもう緒方以外の者にはあれ以上の感覚を自分に与える事は出来ないだろうと思いつつ、
いつかまた自分の体がそれを強く求め始めるかもしれない。
時と相手を選ばずに。ぞくり、と体が震えた。
そうなった時に自分の意志で自分を抑える自信が、アキラにはなかった。
(2)
社に会う事は出来る限り避けたかったが、一方で少しでも早く結果を知りたいのも本心だった。
棋院から渡されていた対戦表を見つめる。最初これを見た時血が騒ぐのを感じた。
あの組み合わせでは選手になれるのはヒカルか社、絶対どちらか片方でしかない。
北斗杯の期間中は代表選手同士で昼夜を共にすることになる。無意識のうちに呟く。
「…進藤、勝ってくれ。必ず…!。」
ただ、自分が本心からそう言っているのかどうかはわからなかった。
選考会がほぼ終了する頃を見計らって出向いたつもりだった。
先日碁会所で手合わせした社の碁は変わっていて面白いとは思ったが、
ヒカルはその上を行くと確信していた。
自分が緒方に破れた時、ヒカルも森下九段に打ち負けたのは知っている。
だがあくまでそれは実践経験の差であり同じ初段の社がヒカルの敵となるとは思えない。
だが棋院会館に足を踏み入れたアキラの目の前で繰り広げられた光景は予想を上回るものであった。
社とヒカル、二人の碁を見守る周囲の人達の様子でそれは瞬時に感じられた。
何かが起こっている。
注目すべき盤面を見る事が棋士にとって何よりも優先する。
気がつくとアキラは対峙するヒカルと社の対局の場に立っていた。
と同時にその局面に目が引き付けられた。
ちらりと一瞬だけ社がこちらを見たような気がする。だがそれだけで、彼もまた今は
プロ棋士として全神経をヒカルに対し次に打つべき一手に集中させていた。
(3)
ヒカルは全くこちらに気がついていなかった。ヒカルが他の棋士と何かが違うとしたら、
その徹底した集中力の差だろう。
一度自分が打つ碁の世界に入り込んだら恐らく周囲を火に囲まれても動かないかもしれない。
アキラは安堵した。盤面から読み取れるのはヒカルの勝利だ。この先にまだ必要な
複雑な手順もヒカルの頭の中ではすでに構築済みだろう。
もう一度社を見た。
彼もまた全身から炎のようなオーラを放って全力でヒカルと戦っている。
その時、嫉妬に近いものがアキラの中に沸き起こった。それが社に対してなのか
ヒカルに対してなのか、アキラ本人にも判らなかった。
アキラや周囲の者達の分析通りに程なく社が投了した。
別室で検討会に入る中でアキラは相反する二つの思いを抱えていた。
社は負けた。その事にホッとしながらも彼がヒカルと生み出した棋譜があまりに魅力的だったからだ。
彼ではなく越智が選手となる事が最適だとはとても思えない。越智には申し訳ないが。
その場に居た者全員とで対局場に戻った。
一瞬また社と目が合った。だが社はアキラに何の関心も示さない様子だった。
「…?」
そう言えば、てっきり上京早々にでも何か連絡なり碁会所に現れるなりする可能性を
考えていたが結局社から何のアプローチもなかった。
かえって社のその態度がアキラの中に不安を募らせた。社の考えが読めなかった。
(4)
ただやはり今回負けて代表落ちしたことは社には相当こたえただろう。
組み合わせの不備とは言え、アキラは若干社が気の毒に思えた。
その時、越智が社との対戦を申し出た。彼のプライドの高さからしてその心情は容易に想像する事が出来た。
少なからず混乱が生じるかと思われたが、とりあえず棋院側と北斗杯関係者らで越智の主張を
受け入れるかの検討がされ、明日に対局が行われる事になった。
越智や社の今回の代表戦に対する意気込みがなみなみならぬものであったためだ。
人々が対局場から引き上げる中でアキラはいつの間にか社が周囲に居ない事に気付いた。
見回すとヒカルの姿もない。
まさか、と直感的なものを感じてアキラも慌ててそこを出て、二人を探した。
対局場から離れた廊下の奥で二人を見つけた。アキラは顔色を変えた。
社がヒカルを壁際に追い詰めるように立ち、ヒカルの顎を手で掬いあげ顔を寄せていたからだ。
「何をしているんだ!」
思わず叫んでいた。社が何かヒカルに因縁をつけているかと思った。
「あれ、塔矢。」
社の体の脇からひょっこりヒカルが顔を出した。社はちらりとこちらを見ただけだった。
「ほら、動いたらあかんて。」
そう言って社はヒカルの顔をぐいと自分に向かし直し、指でそおっと、ヒカルの目のところ触れる。
「んん…」
ヒカルも目を閉じて無防備に社に顔を預けている。アキラは呆然とそれを見つめる。
「とれた。しかしお前、ホント睫毛長いなあ。男にしとくの勿体無いわ。」
(5)
社は片手でポケットからハンカチを取り出してもう一度ヒカルの片目を拭った。
その様子はまるで弟の面倒を見る兄のようだった。ヒカルは自分の手で目を擦りながら
「ありがと。何かチクチクしていると思ったんだ。」
と社にお礼を言う。どうやら心配するような状況ではない事をアキラは理解して
体から力を抜いた。そんなアキラの気持ちを他所にヒカルが屈託のない笑顔で話し掛けて来る。
「見ていただろ、塔矢、オレ達の対局。こいつすげー強いよな。」
「あ、…ああ。善い戦いだったよ。」
「今日の結果に関わらず、機会があったらまた手合わせしようって約束したんだ。」
「そう…。」
「進藤、」
その時社がそう呼び掛けてヒカルの肩に手をかける。アキラはドキリとした。
「さっきは越智があのままでは納得できへんと思ってオレも対局を強く望んでいるように
ああ言ったけど、…やはりたとえ勝ったからと言ってオレは選手にはならん方がええんと違うかな。」
「えっ!?」
社の言葉にヒカルが驚いて声を上げ、アキラも社を見つめた。
「なんや、関西棋院から一人も出られん事に主催者側が気イ使うたような感じやったし…
オレだけにチャンスが与えられて、ええんやろうか…。」
あの社が神妙な面持ちをしている。アキラは社の意外な一面を見た思いがした。
囲碁に対しては彼なりに純粋な思いがあるのかもしれない。
「そんなのやっぱり越智が納得しないよ!…っていうか、まだ判らないけど、
勝った者が…より強い者が選手になるべきだと思うよ。塔矢もそう思うだろ?」
ヒカルにそう言われてアキラは返事をしようとし、反応に詰まった。
社がこちらを見つめて来たからだ。
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