白と黒の宴4 1 - 5
(1)
ホテルの大広間は正装した大勢の人らで賑わっている。
ここしばらくの囲碁のイベントにはない華やかさだった。
日韓中共同開催の北斗杯のレセプションは滞りなく進み、
「さ、今度はあっちの御夫婦方だ。」
と倉田に間髪なく引率されヒカルと社はもう何人名前も知らない大人達に頭を下げ
挨拶させられたかわからなかった。その様子をいちいち写真に撮られる。
アキラだけは流石に場慣れしていてにこやかに卒なく相手と短く会話を取り交わし、
団長の倉田の面目を保っている。
もっとも会場入りの際に胸に花をつける順番で中国の団長を押し退けるという一番
大人らしからぬ行動にでたのが倉田であったが、時おり入る主催者側との細かな打ち合わせや
記者や挨拶相手の質問にも端的に答えて頭の回転の早さを見せる。
(ただの大飯食らいとちゃうんやなあ、この兄ちゃん…)
慣れない服装と人酔い状態でのぼせそうな頭で社は感心する。
相手側も、アキラを除いて選抜されたとはいえまだタイトル戦には程遠い初段棋士の
ヒカルや社の事などまるで知らないだろう。
北斗通信社自体のスポンサー関係者であれば囲碁自体をどれ程わかっているのかすら疑わしい。
「あらまあ、学校のお勉強とプロのお仕事と両立させているの。それは大変でしょう、それで
こういう大会に選ばれて来れて、さぞかし御両親もお喜びでしょうね。」
挨拶相手の奥方にしきりにそう感心されて社は心の中で苦笑いした。
(2)
アキラやヒカルと、自分との差が、24時間囲碁に専念出来るかどうかという差以上なのは
社自身にもわかっている。
現に自分より碁を始めたのが遅く正式な師匠さえもいなかったというヒカルが
歴然の差を持って上にいるのだ。
そしてそのヒカルをここまで引き上げてきたのは、間違いなく塔矢アキラの存在だ。
自分ももっと早く塔矢アキラと出会っていたら、ヒカルよりも先に、そうすれば
あの視線を他の誰にも向け差せないくらいに強くなれていたかもしれない。
その自信はある。なぜもっと―
グルルルと盛大に腹の虫音が響き社は我にかえった。
その場にいた全員が社に注目し、社は顔を赤くさせて頭を下げた。
「…なんだか、考えてもしゃあない事を考えるようになったなア、オレ…」
ようやく一通り挨拶を済ませて食事にありつき、社は溜め息をつきながら皿に料理を乗せていく。
空腹だし、ホテルのそれなりの料理が並んでいる。だが立食というのは思ったより食が
進まないものだと感じた。
「焼ソバとかそういうのが食いてえなあ、なあ進藤…」
ふと横を向くとヒカルは空の取り皿を手にしたまま人垣の向こうを睨み据えていた。
ヒカルの視線の先に居るのは人垣が絶えない韓国チームだった。
その中心に長身の白いスーツの青年がいる。高永夏だ。
今この会場内で碁の事を知っている者の関心は誰よりも彼に集中していた。
(3)
団体戦としては経験や選手の実力のバランスから中国が優勝するだろうという大方の予測の中で、
これが個人戦であれば間違いなく彼がアジアの若手のトップだと注目されているのだ。
会場内で漏れ聞こえた評判で、さすがに社もいかに日本がいろんな意味で国際大会では
まだまだなのだと実感する。そんな日本がどれだけ他国に食らい付いていけるか、という部分を
見られるのだ。
「まあヘボな事はできんな、とにかくがんばらんと」
ヒカルに話し掛けたつもりだったが返事はない。社は溜め息をついてもそもそと食べ物を口に運ぶ。
ヒカルの心境は社やその周囲の者らとはかなり違ったものだろう。日本がどうとかそういう意識は
念頭になく、あるのは高永夏個人に対する敵対心のみだ。
(進藤の奴、ずっとこの調子や。せやけどそんなに敵意剥き出しやとええ結果出せんとちゃうか…)
社は助けを求めるようにアキラを見るが、その時アキラもまた、ほとんど料理に手をつけず
ヒカル以上に他者を寄せつけない緊張感を醸し出していた。
何故かヒカルに視線すら合わそうとせず一言も話し掛けようとしない。
社は更に大きく溜め息をついた。
合宿の間に多少チームとしてのまとまりが出て来たような気がした瞬間もあったのだ。だが結局
社にはこの2人の関係が良くわからなかった。ヒカルが非常にマイペースな人間だということは
理解できるが、アキラもまた評判で聞いていたほどには礼儀正しく人当たりが良い人間という
わけでもなさそうだ。
(ホンマにこいつ、目上や大人に対しての時とオレらに対する時の態度が違うんやなあ…)
食べ物を頬張りながらアキラを見てそう考える。
(4)
(まあ、そんだけ同年代のオレらの前ではこいつなりに素直になっているんやろな。そう思おとこ)
もちろん、どんな相手に対しても同じ調子のヒカルのほうが好感が持てる。何かと危なっかしくて
ついフォローしたくなる。
それとは全く別の感覚でアキラも放っておけない。アキラもある意味危ういバランスの人種だ。
(えらいチームに入り込んでしまったもんや。…ある意味精神修行や…。)
社はヤケ食いのように胃に食べ物を押し込んでいった。
(…そやけど…)
今まで関西棋院の棋士の中で社自身多少浮いた存在だった。ヒカルやアキラのようなタイプは
社の周囲に居なかった。
この2人と行動を共にする事は社なりに悪くないと感じていた。時々変な行動や発言で
呆れる事はあるが、ずっと以前からの友人のような気安さがあった。
しばらくしてステージの上にはそれぞれの国の選手の代表が並び立った。
(あれが高永夏か。何や無駄に存在感のある派手な兄ちゃんやな…)
ヒカルの強い視線に倣うようにして社もステージ上のその青年を見つめた。
その視線の中に同時に日本選手代表として並ぶアキラの姿も捉える。
(…だが、オレの目標は…とりあえずあいつや…)
社はアキラを見つめた。
ステージ上の照明のせいか、いつもと比べてアキラの顔は青白く見える。
それでも決して隣の高永夏に見劣りすることなく凛とした存在感を放っていた。
(5)
「…国際棋戦は初めてですが、皆さんの期待を裏切らない戦いをすることをお約束します。」
本心の一つではあるが、どこか空々しく表面を取り繕ったような挨拶をアキラは壇上で述べた。
自分が団体戦の大将だとか、国の代表だとかという実感は本当のところあまりない。
今後はこういったアジアという広域を対象としたイベントが増えて行くのは確実だ。
実際自分の父親がそれを日本棋院にけしかけている向きがある。
日本国内だけの王者などどれほどの価値があるというのだろう。それを塔矢行洋は
行動で示そうとしている。
そんな父親が羨ましいと思う。プロを引退して海外で活動しようとしている父親は自分より遥かに
自由で、柔軟で、そして逞しい。
だからこそ今回のこの大会をアキラなりに大切に考え、ヒカルと供に何かを学ぼうと言う気構えが
あったのだ。だが…。
アキラの意識は隣に並び立つ韓国のリーダー、高永夏に向かっていた。
それは会場に居るヒカルの意識が彼に集中しているからだ。
ヒカルのギラギラした大きな瞳が高永夏を捕らえて離さない。
元々ヒカルは激嵩しやすい単純な人間だが、どういう話がどういったかたちでヒカルに伝わり、
ここまでヒカルの中に高永夏という人物像が巣食ったのかはアキラにはわからなかった。
その高永夏もまた壇上からヒカルの方を見ている。
今はまだ、ヒカルの視線を受けての反応程度でしかないかもしれない。
だがもしも彼もまたヒカルが持つ潜在的能力に気付いて関心を持ったとしたら。
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