吸魔〈すいま〉 1 - 5


(1)
―君の血が欲しいのですが。
上品な物腰で道を尋ねるかのようにその男は言った。
アキラは最初、冗談だと思った。

雨の日にもいろいろあるが、とりわけその日は薄暗い雲が低く下がり湿り気の多い大気が
体に纏わリ着く嫌な天気だった。
こんな日は市河の機嫌も悪い。はた目からは良く分からないのだが、「お肌がくすんで見える」
のだそうだ。それに暫く忙しくて碁会所に顔を出していなかった。
先方の都合で仕事のキャンセルがあってようやく体が空き、ある意味市河の御機嫌取りのために
塔矢アキラはその場所に向った。

「いらっしゃい!アキラ先生!お久しぶりですね!!」
「こ、こんにちは、市河さん。」
アキラを見る以前からそうであったらしい満面の笑顔で出迎えられて一瞬アキラは戸惑った。
飲み物を注文するお客にも「ハアーイ」と普段よりワンランク上の明るさで応える。
「アレだよ、アレ。」
広瀬がアキラに目配せして部屋の奥を指し示した。
明らかに碁会所の客層とは異なる、紳士風の男性が座っていた。
「最近ここに来るようになった人なんだよ。市河さんは“黒緒方さん”って呼んでる。」
「“黒緒方さん”…」
確かにそんな雰囲気だった。歳も身長も緒方と同じくらいで、ダーク色のスーツを着て
特に何も付けていないような、さらさらの黒髪で、黒い縁の眼鏡をかけている。
本を片手に詰め碁をしているらしく、何人かの常連客にアドバイスを受けながら奮闘していた。
「なんでも取り引き先相手が囲碁好きらしくて、決意したらしい。企業戦士は大変だ。」
その男は、アキラの視線に気がつくと笑顔で軽く会釈してきた。
アキラは失礼を恥じて赤くなって頭を下げた。


(2)
その男は常連客から何か耳打ちされると、ハッとしたような表情になって立ち上がり、
アキラの方に向って歩いて来た。
「塔矢元名人の御子息ですか、…突然すみません、実は僕、塔矢名人のファンだったもので…、
いえ、正確には仕事先の知り合いがファンで、話をよく聞かされているうちに…あの人の
打つ碁は、人を惹き付けます。素人なのに生意気言って申し訳ないのですが。」
「とんでもないです。…そうなんですか。ありがとうございます。」
自分の事より、父の事についてそう言ってもらえる事が嬉しかった。
「この碁会所を選んだのも、引退した元名人にお見受けする事ができるかな…なんて、
ミーハーですよね、僕。」
「おいおい、元名人のファンなのにアキラ先生を知らないんじゃアなあ、」
傍らの常連客が突っ込みを入れる。
「そこまで詳しくはないんですよお。」
素直にそう言いながら頭を掻いて苦笑する様子は風体に似合わず、年令より若々しく見える。
―緒方さんって言うより、芦原さんタイプだな…。
あまり無い事なのだが、アキラはその男に好印象を持った。初対面で人を判断する事は避けていたのだが。
「あの、よろしかったら、一局お相手しましょうか?」
「あ、いえ、実は指導碁の先生はもうお願いがしてあるんですよ。…もう時間なんですが…。」
アキラはもしかして、と思った。
その時碁会所のドアが開いて進藤ヒカルが駆け込んで来た。
「悪い!遅くなっちまった!お待たせ!!…あれ、塔矢じゃねーか。」


(3)
その男は出る水と書いて「いづみ」という名であり、3日ほど前にヒカルがここに来た時に相手をし、
食べ物の話で意気投合、今日もう一度指導碁をする約束をしたのだと言う。
アキラも他の客の指導碁を始めるが、何となくヒカルと出水の様子が気になった。
「ほらっ、そこを守る前にこっちをデておけば相手の足を止められるだろっ」
快活なヒカルの指導に出水は熱心に聞き入っている。その空間だけ家庭教師と生徒のような雰囲気である。
立場は逆であったが。ヒカルがいるだけで湿気さが落ち陰鬱さが消えて行く。
一時間弱程して、指導碁を終えたヒカルと出水が席を立ち、連れ立って出口へ向おうとする。
「出水さんが旨いラーメン屋知ってんだって。塔矢も行く?」
ヒカルにそう声を掛けられアキラは少し戸惑ったが、手の平を見せて断るポーズをした。
再度頭を下げる出水にアキラも挨拶を返すと、二人は何やらラーメンの具に関する論議を交わしながら出て行った。
ヒカルは相手の年令や立場に関わらずあっと言う間に打ち解け親しくなって行く。
アキラはその性格が羨ましいと思う反面、危なっかしく思う事もあった。
ヒカルがいなくなると、窓の外の雨音がやたら耳につくようになった。
その日は、ヒカルは碁会所に戻って来なかった。

次の日は棋院会館での大手合いのある日だった。アキラは普段通りに時間をかけて打ち、打ち掛けの昼休みは食事をとらず
休憩室に居た。早めに対局室に入ると、ヒカルが壁にもたれてぼんやりと座っていた。
食事に行った様子がないヒカルに、難しい局面でも迎えているのだろうかとアキラは思った。それとも?
「どこか具合でも悪いのか、進藤。」
「…ダリい…。」
ぽつりとそう言うヒカルの額にアキラは手を当ててみた。特に熱があるようには感じられなかった。


(4)
「…塔矢、ちょっと頼みがあるんだけど…」
ボーッとした視線のまま、ヒカルが呟くようにそう話し、アキラは耳を近付けた。話すのも億劫そうである。
「…何?」
「今日もこの後で出水さんの指導碁をすることになっていたんだけど…代わりに、塔矢が行ってくれないかなあ。
無理ならいいんだ。オレ行くから…。」
アキラは一瞬迷ったが、たまたま今日はこの後予定がなかった。ヒカルが自分に頼みごとをするなんてあまりない事だし、
どうしようかと思っていたらヒカルがすがるような目でじっと見つめて来た。
「わかったよ。ボクが行くよ。」
思わず、そう返事をしてしまった。
「…サンキュー」
急に何か荷を下ろしたように、フッと一瞬ヒカルの体が震えたような気がした。
「…進藤?」
だがそれきりヒカルは立てた膝の上に額を乗せるようにして座り込んだまま眠りに落ちてしまった。
「…疲れているのかな…。」
アキラは隣に腰を下ろして様子をみていたが、昼休みが終わって対局の人らが戻り始めるとヒカルも
ふらりと立ち上がって自分の席についた。
対局を終えて、アキラが自分の結果を表に書き込む時にヒカルのところを見てみた。
一応は数目差で勝ったようである。ヒカルは自分の対局を終えるとすぐに退席して行ったようである。
何か府に落ちないような気分のまま、アキラは碁会所に向った。
出水はすでに来ていて、ヒカルの代わりに自分が来た事を説明するとひどく恐縮したようだった。
「すみません。なんとか今月中にカッコウがつくまでにならないといけないって話を、僕が昨日したものですから…」


(5)
「悪いのは進藤の方ですよ。…始めましょうか。」
ハイ、と子供のように出水は頷き、碁盤の上に石を並べ出した。
9石置かせてしばらく様子を見てみた。始めて間もないと聞いていたが、石筋の追い方は悪く無い。
こちらのアテに対する反応も焦らず意図をよく汲んで来る。
ふと、窓を叩く雨音が耳に入ってきてそちらを見た。傘は持って来ていなかった。でも碁会所で借りられるだろう。
「…今度からは5石置きでいいでしょう。大丈夫です。よく勉強されていますね。」
石をしまいながら出水にそう話し掛けた。その歳の男性にしては細く長い綺麗な指で黒石を集めながら
出水が答えた。
「なにしろ、大口の仕事の契約がかかっていますので。」
アキラの緊張感が移ったように真剣な表情で打っていた出水の顔が、ホッとしたように弛んだ。
「僕、こうゆうモノをやっているんです。」
そういって、椅子に掛けたダーク色の上着のポケットから名刺を取り出した。
それは淡いレッドの半透明のプラスチックカードのようだった。
普通の白い紙か、それ準ずるものしか見た事が無かったアキラは、へえ、と思った。
透明な中に、出水紳一という名前とオフィスの住所と連絡先、そして出水の顔写真が浮かんでいる。
「他にもいろんなデザインがあります。名刺を新しく作る機会がありましたら、お声をかけてください。」
ええ、まあ、と曖昧に返事をする。あまりこういうものに凝るという感覚はアキラになかった。
それでも興味深げにもう一度名刺の写真部分を見た時、何かチカッと反射したような光りが目に入った。
「雨がひどいようですね。…僕はタクシーで帰りますが、よろしかったら塔矢先生、御自宅までお送りしますよ。」
いえ、結構です、と答えるつもりだった。だが自分の口から出たものは違っていた。
「…はい、…ありがとうございます…。」



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