追憶 1 - 5
(1)
時計を見るともう朝とはいえない、かろうじて午前であるような時刻だった。
それなのに、隣のメッシュ頭はまだ起きる気配も見せず、惰眠を貪っている。
ベッドを抜け出し、シャツを一枚羽織って、窓際に立ち、カーテンをそっと開ける。
外は静かに雨が降っている。昨日の夜も雨だった。今日も一日降り続くのだろうと天気予報は言って
いた。けれどそれも構わない。今日は何の予定も無いし、雨に降り込められて一日彼と怠惰に過ごす
のもいい。
窓の外から見える庭木は雨に濡れてより鮮やかに緑を増したように見えた。
雨を見ながら、さっき見ていた夢を思い出していた。
あの人の夢だった。
何を言っていたかはわからない。ただ、あの人がボクに何か囁きかけて、ボクはあの人に背を預けて。
触れている背中はあの人の体温を感じているのに、その温かさが何だかとても哀しくて。
なぜだろう。なぜ、今更。
記憶を辿る耳の奥で、ぽろりとピアノの音がこぼれたような気がした。
ああ、そうか。それでなのか。
この雨の音が、あの人の部屋を尋ねていった時の事を思い出させたのか。
あの時もこんな雨が降っていた。
ボクは独りで、世界中に独りぼっちで、自分の隣には誰もいないと思っていた。
誰かに傍にいて欲しくて、それなのに身体に触れるあの人の身体の熱さえ、心の奥までは届かなく
て、いつも独りで寒さに震えていた。触れられている時は忘れていられるのに、離れた瞬間に冷たい
風にさらされて、空虚さに身が震えるのを感じていた。
(2)
その時、ふわり、と、後ろから温かい腕に包まれた。
記憶に残る空虚さと、今現実に感じる温かさとの落差に涙がこぼれそうになる。
キミと出会えたのが奇蹟なら、今こうして二人でいられるのは更に奇跡的な事だ。
この腕にこんな風に抱かれる日が来る事があるなんて、キミがボクの傍にいてくれる事があるなんて、
そんな未来があるなんて、あの時のボクは予想も出来なかった。
「おはよ。」
寝起きの少し掠れた、ふやけたような声が耳に落ちる。
「もう早くもないだろう。」
後ろに手を伸ばして、彼の柔らかな髪を乱す。
「何見てんの?」
「雨。」
「雨?」
「うん。」
「そんなカッコでいると風邪ひくぜ?」
「うん。」
空返事をして窓の外に目を戻すと、車がしぶきを上げながら走り去って行った。
そのまま、雨が降りしきるのをただ眺めていたら、唐突に身体に回された腕に力がこもって、彼がボク
の肩に顔を埋めた。
「…進藤?」
名前を呼んでも彼は答えずに腕の力を強めるだけだった。
その手にそっと自分の手を宥めるように添えると、ビクッと彼の手が震えたような気がした。
そのまま首を伸ばして唇で軽く触れると、ボクを拘束していた手の力が少しだけ緩んだ。
両手でその手を包みこみながらもう一度今度は腕にくちづけすると、微かに彼がボクの名を呼ぶのが
聞こえた。
(3)
「塔矢、」
「なに?」
できるだけ穏やかな声になるように、そっと応えたのに、
「さっきさ、外見ながら、誰の事考えてた?」
言われて、ボクは手を止めてしまった。
応えられずにいると、身体に回された腕にきゅっと力がこもり、彼はまたボクの肩に顔を埋めてくる。
「塔矢、」
「……どうしてボクの考えてる事がわかるんだ。」
「わかりたくもねぇよ、オマエが他の男のこと、考えてるなんて。でも、」
ボクは少しだけ怯えていたかもしれない。こうして彼といる時にあの人を思い出してしまう事が、彼に対
する裏切りと思われてしまうのではないかと。それなのに、なぜだか、ボクがあの人のことをどう思って
いるのか、知って欲しいとさえ、ボクは思っていた。そう思うことが、尚更、彼に対して悪い事をしている
ような気もして、何だか混乱してきたボクに、また彼の声が届いた。
「塔矢、おまえさ、」
言いかけて彼は一瞬言葉を飲み込む。
なぜだかボクも緊張して、彼の言葉の続きを待っていた。
「おまえ、あいつの事、好きだろう。」
いきなりストレートに言われて、本当にボクは一瞬、息をする事さえ忘れてしまった。
「おまえの気持ちを疑うわけじゃない。けど、オレとは別に、やっぱりあいつの事好きだろう?」
怒ってるのでも、責めているのでもない、静かな声だった。ずっと言おうと思って言いあぐねていた
事をやっと言えた、そんな感じの声だった。
本当に、どうしてそんなにボクの事がわかるんだ、キミは。
そんなにずかずかと、ボクが認めたくないようなことまで言い当てなくたっていいじゃないか。
(4)
「……うん。」
ようやく、なんとかやっと、ボクは返事をかえす。
「そうだね。きっと。ボクにとってキミは誰よりも何よりも、ただ一人"特別"だけど、」
確かに、キミの言う通りに、
「もしかしたら、ボクは自分で思っている以上にあのひとが好きだったのかもしれない。」
逃げちゃ駄目だよ。だってキミが言い出した事だろう。
とても、自分勝手なことを言っているのはわかってる。
こんな事を言うのは、キミにも、あの人にも、ひどい事なんだろう。
でも、それでもキミに聞いて欲しいんだ。だってこれもボクなんだから。
それがどんな事でも、全部を受け止めて欲しい。そう思ってるボクはひどく我儘で、キミに甘えてる
だけなんだって、本当はわかってる。ただ――こんな、肌寒い雨の日だから、甘えさせて。
「考える事があるよ。もしもボクがキミに会わなかったらボクはどうしてたろうって。」
(5)
「ボクは遠くからキミを見詰めるだけで、ボクの隣にいるのはキミじゃなくあの人で、時々、キミを思い
出して胸が痛む思いをして、それでももしかしたらそれでボクは幸せだったのかもしれない。
キミがボクのものじゃなくても。」
ゆるくボクを抱いている腕の中でくるりと振り向いて彼を見る。そうして今日初めて、彼の顔を正面から
見る。キミにそんな顔をさせてるのはボクなんだろうけど、ごめん、進藤。それでも聞いて欲しいんだ。
首に手を回して抱きついて、頬にそっとキスする。
「ずっとキミが好きだったけど、それが叶うなんて、思いが通じる事があるなんて、思わなかった。
キミからの応えを、期待なんかしてなかった。
時々、思うことがあるよ。
もしかして、これが全部夢だったらどうしようって、目覚めたらまたボクは一人で、キミは誰か友達と
一緒に笑っていて、ボクはそれを遠くから眺めるだけで、キミを眩しく思いながら何も言うことも出来ず
に、キミに近づく事も出来ずに、一人でいて。こうしてキミを感じているのなんか、やっぱり只の夢で、
現実はボクは一人のままなんじゃないかって思う事が、あるよ。」
でもこれは夢じゃない。現実だ。そうだろう?
ここにいるキミが夢でも幻でもなく現実である事をもっとちゃんと確かめたくて、回した手に力を込める。
抱き返される力が、温かい体温が、キミの存在を確かに現実にしてくれていて、泣きそうになりながら、
それでももっとキミを感じたくて、キミの唇にそっと触れた。
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