裏階段 アキラ編 1 - 5
(1)
山の手の高級住宅街は窓から見下ろせる眺めの良さと引き換えに細く急な坂道が多く
日常生活における不便さと隣り合わせになっている。
現在のような宅配や通販システムが充実していなかった時代である。
そういう家に住む者ならば車やタクシーでちょっとした買い物も済ますと
考えられるだろうが意外とそうでもない。
本当の金持ちとは普段倹約家で質素な生活者である事が多い。
「先生」の使いで下の街に下りる時もよく隣近所の住人と顔を合わす事が多かった。
だがさすがにその日は目も眩むような強い日差しの下、威圧的に目の前に立ちはだかる白い路面に辟易した。
昼下がりで出歩く人もほとんどない。光は苦手だった。
空から降り注ぎと地面から照り返される光から逃れようと目蓋の上に手をかざして坂を上がった。
豊かに貯えられた道路脇の民家の庭先の緑から狂わんばかりに蝉の声が響き聞こえて来る。
ふと見上げると遥か上の方に白い日傘が回っている。その下に白いワンピースの後ろ姿が揺れていた。
距離はあっという間に縮まった。無理もない。相手は女の足でその上何やら重そうなビニール袋を下げている。
荷の重さと暑さを誤魔化そうとするように鼻歌を歌っている。
耳なれたその歌に気付かれないようため息をついて声を掛ける。
「持ちましょう、明子さん。」
「あら、セイジくん。ありがとう。今日も暑いわね。」
(2)
「…それで?お母さんはその時何を抱えていたんですか?」
テーブルの上のグラスに入ったロウソクの光りを瞳に宿してアキラが問いかけて来る。
「一升瓶の醤油と西瓜だ。」
クスッとアキラが吹き出す。
「お母さん、醤油にはこだわりがあるんですよ。倉敷のじゃないとダメだって。」
三谷と言う少年を乗せて都内に戻り、彼が指定した繁華街の一角で降ろしてやった。
途中で食事をとろうとして別のホテルの駐車場に入ったが彼に断られた。
無意識のうちにあまりに痩せ細った彼の身を案じたのかもしれない。
野良猫にその時ばかりのミルクを与えて救ってやったような満足感が欲しかったのかもしれない。
あれだけのものを彼から貪り奪いながら。
その後碁会所の前で進藤を待つ彼の姿は見かけなくなった。
そして今はこうしてアキラを食事に誘い都内のホテルに来ている。
50数階の展望レストランから見下ろす東京の夜景は男の中の野心を嫌でも掻き立てる。
望んだ時にこの眺望を得られる生活を手に入れる事が、人生の勝利者の条件の一つと信じていた。
時間をかけたつもりだったがこちらの皿が空になってもアキラの方にはまだ多くが乗っている。
上品と言う程でもなく、ただ慎重にまだ不馴れといった様子でナイフとフォークを使い
小さく切った肉片を口に運ぶ。
ただでさえ一人っ子の特質というか、アキラは食べるのが絶望的に遅かった。そして食が細かった。
(3)
当人は覚えていないだろうが、離乳食の時期に泣叫ぶアキラを抱えて明子夫人と「先生」が
途方に暮れて台所の床に座り込んでいるを何度か見かけた事があった。
もちろん門下生が何か手を出せる問題ではなかった。
その頃のアキラにとってはミルク以外のものを口に入れられる事が恐怖以外の何ものでも
なかったようだ。
当然だが自分に記憶がない幼少の頃の話を持ち出されるのはあまり気分の良いものではない。男子に
とってはなおさら。中には芦原のように聞かれていなくても自分から暴露するタイプもいるが。
だから過去の話には触れず、親切のつもりで言ってやった。
「和食のお店にした方が良かったかな。」
「あ、いえ、」
「箸をもらってやろうか」
じろりとアキラはこちらを睨むと無口になってせっせと皿の上の残りを口に運ぶ。
意外な部分でそういうアキラの年相応な仕種を見る事がある。
対局中、アキラが食事を摂らない理由として集中力を維持するためだとか時間を惜しんで
手順を構想しているのだとかいろいろ噂がされていたが、本当のところの理由は
ごくシンプルなものではないかと思う。時間が足らないという。
ただ当人にとっては深刻な問題かもしれなかったが。
ついでに言えばメニューを選ぶのにも彼は時間を要した。それ以前に自分が空腹かどうなのかさえ
判断に迷う人間だった。
基本的に食べる事にあまり興味がないのだろう。「先生」とはそういうところが良く似ている。
(4)
「ボクの今使っている机は緒方さんも使っていたそうですね。元々は父のお古らしいけれど、
全然傷とかついていないし、余程大事に使ってくださったんですね。」
デザートのフルーツが出てくる頃にはささやかな反抗心は収まったようだった。
「全然勉強しなかったのではとでも言いたいんじゃないのか。」
上品に切り分けられ彩り良く皿に盛られたオレンジや苺やメロンのオブジェを脇にやって
いつものクセで煙草を取り出しかけ、しまう。
代りにコーヒーカップを口元に運ぶ。
「いえ、緒方さんの高校時代の参考書を見ましたので。」
「オレの…?全部処分したはずだが。」
「一冊だけ書庫の奥で見つけました。名前が入っていたから間違いありません。かなりいろいろ
書き込んでありました。…緒方さんの昔の文字が見られて、ちょっと嬉しかった。」
そう言われても返答に困るこちらの表情を面白がるように、チェリーを口に銜えて悪戯っぽく笑む。
プロ試験の前も合格した後も学び舎には殆ど足を踏み入れなかった。
たまに登校しても、横並びな価値観から少し外れた人種を温かく向かい入れられる程
当時の教育者達は―今でもそうだろうが、間口が広くなかった。
“どう扱ったらよいか判断に困る”という教師らの自分に対する距離感は生徒らも敏感に察知する。
生まれつきのものと知った上で「明日までに髪と目の色を黒くして来い」と廊下で
すれ違い様に無理な“命令”してくる上級生もいた。大抵「出来ないなら金を持って来い」と続いた。
彼等の不幸はオレ自身があまり許容力の無い人間だった事だ。
(5)
「緒方さんも、やはり高校は卒業した方がいいと思いますか…?」
テーブルの上でコーヒーカップを両手で包むようにしてアキラが問いてきた。
食事を全て終え、さらに別のラウンジに移動してようやくこちらも煙草を手にする。
その最初の煙を肺に収めた時だった。
思いつめたと言う程でもないが、アキラの表情はどこかひどく頼り無さげだった。
彼を食事に誘ったのはそのせいでもあった。何かに悩んでいる様子があったのだ。
海王の系列の高校にアキラは進学した。
そこもそれなりの進学校のはずであったが殆ど出席日数が期待出来ない生徒でもレポートの
提出等で単位が与えられるシステムらしい。
昔は世程の特種技能系やいわゆる芸能の世界での話であったが。
「学業との両立は辛いのかい?」
「勉強は嫌いじゃありません。ただ…」
「まあ、勉強なんてどこでもやれるものだがね。」
「いつもここに来ているのね。そんなに本が好き?」
上級生との「話し合い」の後で傷口から出た血で本を汚さぬようページを捲っていて
そう声を掛けられた事がある。もっとも血の汚れの殆どは相手のものであったが。
退校時間真際の図書館で辺りにはもう他の生徒の姿は見当たらなかった。
クラスメイトなのかどうかすら分からず、ちらりと視線を向けた後は黙っていた。
高校生には見えない小柄な女生徒だった。
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