裏階段 ヒカル編 1 - 5
(1)
陰影礼讃という言葉があるが、古き良き日本家屋は光と供に闇を大事にした。
強い光、障子を透した柔らかな光、軒下の漆黒の闇、天上の梁の隙間の薄暗さ…。
全ての物事に光を当てずそれぞれをそのままにそっくり家の中に宿すことを、
闇に隠れ潜む存在があることを赦したという。
碁盤の上では陰と陽が鬩ぎ合う。最終的には明確に二つの世界に裂かれる。
そうしながらも境界線は混在して在る事を赦している。
どちらのものでもあり、どちらのものでもないない領域を残すこともある。
若さはそれだけで凶器に近い眩しさを持つ。
生命あるものである以上どうしても逃れられない欲求の対象となる。
そこに人並み外れた才能が加わっていればなおのことだ。
若々しい魂が放つ光りは無条件で人を惹き付け魅了する。
オレとの事でアキラのその輝きを僅かも失うところはないのかもしれない。
だからといって良心の呵責からは逃れられない。
アキラがオレの中の闇を感じ取り、それを共有しようとしてくれた事には感謝していた。
だが当時は自分にそこまでされる価値があるのかと自問する日々が続いていた。
(2)
中学の囲碁の大会の日の後2〜3度、アキラはオレのマンションに来ていた。
夏休みというタイミングのせいもあった。
アキラと2人で会いながら、塔矢邸での検討会に何食わぬ顔をして参加している
自分に嫌悪した。
先生にどう向き合えば良いのかわからない。
己の感情の中の何かを遮断し、碁に打ち込む振りをして周囲と自分自身を
誤魔化すしかなかった。
同じ部屋の空間の中にアキラが居る。
互いに言葉を交わしたり目を合わす事はなかった。
「…気のせいかな。少し見ない内に随分アキラくんは大人っぽい顔つきになったねえ。
プロになるという気構えのせいかな。」
研究会に参加していた棋士にそう言われてアキラは少し気恥ずかしそうに笑んだ。
確かに以前のような幼さはいつのまにか消えたように思える。
それ以外に特にアキラの様子に前と違う面はなかった。
ただ時々、ふとアキラの視線が物憂げに宙を漂う時があった。
碁盤の方に顔を向けているが何も見ていない、そんな感じだった。
(3)
間抜けな事に、オレはアキラのその様子を多少なりとも自分との事のせいなのではと
自惚れのような心配を抱いた。
だがそうではなかった。
生物も棲まず波風の立つ事のなかった深い地底湖に沈み込んだ一つの小さなガラス片に
アキラは目を背けようとして出来ないでいたのだ。
湖の主に振り向かれる事無く湖底に埋没するかと思われたそれは
どこからも差し込むはずのない光を受けて煌めき、存在を主張し続けていた。
プロ試験の真っ最中であり、周囲の者も静かに見守る感じで必要以上にアキラに
話し掛ける事はなかった。
この家の縁側で感じる日溜まりが眩しすぎて廊下を立ち止まり庭を眺めることなど
そうなかった。体質的に強い光が苦手だったこともある。
研究会の後、煙草を吸うでもなく、何となく気詰まりがして自分には珍しく庭に降りた。
日光に人を裁く力があるとしたらオレの体は瞬時に焼けただれていたことだろう。
何一つ変化なく時が過ぎる事に罪悪感を感じていた。
本当は先生も周りにいる全ての人間がとうにオレ達の事を知っていて影で冷ややかに
見下していた、という悪夢にうなされる事もあった。
誰かがアキラの腕を掴み「目を覚ませ」と怒鳴ってくれたらと望んだ。
ふと人の気配がして振り返ると、そのアキラが縁側に立っていた。
(4)
「緒方さん、何だか最近元気ないですね。夏バテですか?」
気遣うような言葉を先に言われてしまった。
反射的に周囲を見廻したが先生らは奥の部屋でまだ談笑しているらしく、
他に傍に人はいないようだった。
「…そっちこそ検討会に身が入らないようじゃないか。」
家の廊下の柱に手をかけ、何処となくぼうっと庭を眺めるアキラにそう答えた。
「別に、そういうわけでは…。」
焼けただれないまでも夏の昼下がりの日差しの熱気は容赦なく肌を射す。
だが、軒下の影に佇むアキラの顔を見ているだけで暑さを忘れる事ができた。
彼の周囲だけにはいつもどこか凛とした涼やかな空気が流れていた。
それが碁盤を挟んだ戦いの時だけ灼熱の業火を纏うのだから不思議なものだった。
「そうだ、アキラくん、明日空いているかい?」
「え?」
その時、なぜアキラを「それ」に誘う気になったのだろう。
予感があったのかもしれない。
消えたはずの、消えていない光が再び立ちのぼり巨星が誕生しようとしていた。
オレやアキラの知らないところですでにその布石は打たれていた。
一つの夏が終わろうとしていたが、それは始まりの夏でもあった。
(5)
以前に塔矢邸での研究会に参加していた島野というアマチュア棋士が
日本代表選手として東京で行われる国際大会に出場する事になり、
多忙な先生の代りに激励に行く事になっていた。
それにアキラを誘ったのだ。
プロ試験本戦を前にどこかアキラが閉塞している部分を抱えたままなのは心配だった。
このままではいけない。
下手にどこかに連れ出すよりお互いに気分転換になると思った。
棋院会館までは一緒に来たが、アキラはプロ試験本戦の日程を確認するために
上の階に立ち寄り、ひと足先に会場に入った。
そこで一つの騒ぎが持ち上がっていた。
まだ競技が続いているにもかかわらず会場内はある人物の話題で持ち切りとなっていたのだ。
「どうもインターネット碁で非常に強い人がいるらしいんです。」
久しぶりに顔を合わした島野は困惑気にそう言った。
島野はそのネット碁の強い日本人に間違われ、対局の合間に複数の外国人選手に
その件で同じ質問をされたらしい。
その人物のネット上の名はsaiというHNの他は何の情報もないという。
「saiはプロじゃないっスよ。ただそいつ、秀策みたいなやつとか思ったんスけど。」
その会場内の者で唯一、saiと言葉を交わしたと言う少年が力説していた。
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