森下よろめきLOVE 1 - 5


(1)
その光景を目にしたのは日も暮れた時間帯、うら寂びた繁華街でのことだった。

煤けたまま手入れされていない疲れたネオンや人目を忍ぶような怪しげな看板が並ぶ
その通りを、森下は足早に歩いていた。
仕事帰りにこのいかがわしい区域を通り抜けようと思ったのは単にそれが駅までの近道
だったからで、遊び場を探したり、ましてや欲望の対象となる相手を求めたりという
目的のためではない。
吐き出しても吐き出してもそうした欲求が次々と泉のように底から溢れ出してきたのは
もう昔の話で、今では最後に生身の相手とセックスしたのがいつだったかすら
思い出せない。
胸を焦がす恋の味も疾うの昔に忘れた。
精力が尽きたわけではないが、雄としての自分は確かにもう盛りを過ぎている。
老いた、のだろう。
だが終わりの見えない妄念から解放されて碁という生涯の仕事に専念できるのは
歓迎すべきことでもあった。
碁と、家族。
その二つのためにこれから自分は残り半分の人生を生きていくのだろう。
そう思っていた。


(2)
だからその時街角に佇む少年の姿に目が留まったのも、全くの偶然だった。
「あれは・・・」
掻き入れ時だというのに人もまばらな寂れた繁華街で、その少年は手を後ろに組み
薄汚れたコンクリートの壁に背中と片足を預けて、ぼんやりと自身の足元を見ていた。
何の加工も施されていない真っ直ぐな黒髪と仕立ての良さそうな真っ白いシャツが、
この空間の中で明らかに浮いている。
それより何より、俯き加減にしていてもはっきり分かる少年の秀麗な容姿と
煤けた風景の中でそこだけが光り輝いているような品のよい佇まいが、
道行く人々の目を惹いていた。
だが森下が思わず足を止めてその場に釘付けになってしまったのは
そのためばかりではない。
――塔矢アキラ。
森下が生涯のライバルと目す男の一粒種がそこにいたのだった。

「おっと」
後ろから誰かがぶつかった。
「あ゛〜?ボサッと立ってんじゃねえよぉ〜!気ぃつけろやオッサン」
「もうっケンちゃん自分からぶつかっといて絡まないの!スミマセーン」
「あ、ああ。別に」
若いカップルが通り過ぎていく時、酒と汗と柑橘系の香水の匂いが鼻をかすめた。
髪を逆立てたサラリーマン風の若い男が数歩先で足を止める。
男はどうやらアキラの姿に目が留まったらしく、しばらくほけ〜と見蕩れていたが
連れの若い女に「ホラッ行くよ!」とネクタイをぐいぐい引っ張られ連れて行かれた。
「ケンちゃん、どこかで休もうか」
女の声が遠くで聞こえる。フラフラしていた男が女の肩に手を回した。
凭れかかるのかと思いきやぐいっと女を自分のほうへ引き寄せる。女が男の肩に
こつんと頭を載せる。
若い男女はこれから宿を探して一晩を共に過ごすのだろう。
ここはそういう街なのだ。


(3)
――そんな街で、元名人の息子がいったい何をしているというのか。
何かやむを得ない事情があるのだとしても、あんな風情で街角に立っているのでは
誤解を招きかねない。
第一こんな時間まで中学生が繁華街に出歩いていること自体、ほめられた行動ではない。
これがもし自分の子供だったら怒鳴りつけるだろう。

とにかく訳を聞いて場合によっては説教の一つもして帰そうと、森下は口を開きかけた。
「塔――」
だがその時、森下より先にアキラに近づき声を掛けた者があった。
高校生か大学生くらいの若い男の二人組だ。
一人は短髪を逆立ててクチャクチャとガムを噛み、一人は肩まである髪を金色に染めて
派手な色のTシャツを着ている。
森下が出掛かった声を呑み込んでしまったのは、アキラと世代の近そうな二人組が
もしかしたらアキラの友人か何かで、ここで待ち合わせでもしていたのではないかという
考えが一瞬起こったからだった。
アキラの友人にしては不良のような外見だが、今時の若者ならあんなものかもしれない。
――アキラは二人と二言三言何か言葉を交わしていたが、やがてコクンと頷くと、
二人に挟まれ両側から腕を取られるようにして歩き出した。
「おいっ、ちょっと待っ・・・!」
どうも雰囲気がおかしい。
仮に二人組とアキラが知り合い同士だったとしても説教相手が一人から三人に
増えるだけだ。
角を曲がって姿が見えなくなった三人を追って、森下は全力で走った。


(4)
建物と建物の間に挟まれた細い路地裏は思ったより入り組んでいて、森下はすぐに
三人の姿を見失ってしまった。
「なんてこった・・・!」
こんなことなら、躊躇などせずすぐに声を掛けるのだった。
こうしている間にもアキラの身に何か起こっているかもしれないのだ。
知っている相手だからというだけでなく、同じ年頃の子供を持つ一人の父親として
森下は胸が締め付けられる思いだった。
「塔矢ァ!」
もうなりふりは構っていられなかった。
煤けた路地裏中に響き渡るような轟声で森下は怒鳴った。
「塔矢、どこだ!いるなら返事をしろ――ッ!」
一つの方向から、気をつけていなければ聞き落としてしまうほどの小さな悲鳴が聞こえた。
――そこか!
その方向に向かって森下は走った。


(5)
三方を壁に囲まれ行き止まりになった路地裏に鬼のような形相の森下が姿を見せると、
そこにいた七、八人が一斉に振り向いた。
「塔矢!」
「ん・・・!んー!」
男たちの中心でゴミ箱の蓋の上に座らせられたアキラは口に何か布切れを詰め込まれて
数本の腕に押さえつけられ、靴下のみを残した全裸の姿を暗い路地裏に晒していたが、
森下の姿を見ると懸命に脚をばたつかせ声を上げた。
その姿を見て一瞬血の気が引いたが、自分が着くまでのこんな短い時間に
何が出来るわけでもないと思い直す。
「あぁ?何だよオッサン。何か用か?」
ガムをクチャクチャさせたさっきの若い男が、森下の前に立ち塞がるように進み出て
肩を怒らせる。怒りを抑えた低い声で森下は言った。
「・・・その子を返してもらおう」
「あぁーん?ンなこと出来るわけねーだろ。これからお楽しみの時間だってのによォ。
オッサンおとなしく帰んな。怪我するぜ」
男が、噛んでいたガムをブッと森下の顔に吹きかけた。
次の瞬間森下の拳が男の顎を撃ち、男の体は数メートル先の壁に叩きつけられて
がくりと落ちた。
「て、てめぇー!」
男の仲間たちが色めきたつ。
森下は仁王のように立ちはだかると拳を掲げてみせて言った。
「まだまだ若い者には負けやせん!躾のなっていないガキどもはオレが根性
叩き直してやる!そら、まとめて掛かって来ォい!」
わぁっと、静かな路地裏に喧騒が響いた。



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