指話 1 - 5
(1)
―ようこそ、プロの世界へ。
―よろしく、お願いします。
その言葉を交わした瞬間から、自分にとって“その人”は“敵”となった。
幼い時から、父とその人が碁を打つところを何度となく見て来た。他の門下生らが
見守る中で、あるいは3人だけで。息を潜め、子供心に父親を応援しながらも、
父とその人が作り出す棋譜に心惹かれ夢中になった。
本当に小さい時はその人に抱き上げられ、その人の膝の上で寝入る事もあったらしい。
だが、いつからか、まったく自分がその人に寄り付かなくなったという。
はっきりしたきっかけがあったのかはもう、自分でも記憶は定かではなかった。
ただ思い当たるとすれば、その人がある時何か大きな大局で負けてしまい、その検討会を
父と二人でしていた時に、何か用があって自分が父を呼びに入った事があった。
普段通り正座した父の対面でその人はあぐらをかき片手で膝を掴み片手で髪を
掻きむしりうなだれていた。
部屋に入った瞬間、その状態のその人と目が合った自分が泣き出したのだ。
その時なぜ自分が泣いたのか不思議に思うけれど、多分その人の目が、
とても恐ろしく、そして悲しそうだったからだろうと今なら推し量れる。
プロの厳しさを最初に肌で感じたのはその時だったと言える。
二度と、そういう場面にその後出会うことはなかった。
数多い門下生の中でもその人は誰よりもより多くのものを父から受け継いだ。
だからかもしれない。
いつからかその人が自分の中で特別な人になっていったのは。
(2)
数目置き父と毎朝対局するのが週間になった頃、碁会所で門下生の者と同じように
対局する事を許されるようになった。
その中でも特に容赦なく自分が叩きのめされた相手がその人だった。大抵の門下生は
自分よりひと回り以上小さな子供を相手にそこまで本気にはならなかった。
当時はまだ自分は基本的な戦略の流れを掴むのに精一杯だった。
ただ、同年輩の子供達の中では敵無しだった。自分でも無意識にその気負いが盤上に
出ていたのかも知れない。何かの本で読んだ小手先的な技を試してみようものなら
その人にはまさに首根っこを押さえ付けられ完璧なまでにのされた。
―大人をなめるんじゃない。
何より、対局の間のその人の目が恐かった。
父の目も恐い。ただ精一杯戦えた時は御褒美のように温かい父親の目に戻ってくれた。
その人は、ただひたすらに冷たかった。とことん意地悪だった。
―オレに腹が立つのなら勝ってみろ。
子供相手にその人は最上級の挑発をくり返した。
だが、その人はまさか思わなかっただろう。そこまで突き放す態度が逆にこちらにとって
他の誰よりも信用出来る人だという確信を抱かせる事になるとは。
信頼は親愛に通じる。他の人から得る様な温かい笑顔や頭を撫でられるといった包容
などは一切なしに、敬愛をもって自分の気持ちはその人に向かって行く。
その人に気付かれないようにその人を見つめる。
そうしていて分かった事があった。その人もまた、自分と同じ様な目で誰かを見つめて
いる事があるということ。
そして、その視線の先に自分の父親がいると言う事だった。
(3)
ふと、あの人が初めて父のところに来たころの事を知りたくなった。
だが、父に聞くのは気が引けた。父は特定の門下生を目にかけたりという行為を絶対に
しない。それに倣うように母も自分も気をつけていた。だから自分がその人に興味を
持っていると覚られたくなかった。
父のアルバムを見ると、多少若い時のその人が写っているものも何枚かあった。
他の門下生と共に、棋院や家の前で撮ったものだ。
今より若干短かめにまとめた髪型であること以外は眼鏡もスーツスタイルもあまり
変わらない。長身で目つきが鋭くてすぐに彼と分かる。笑顔を浮かべている他の
門下生達とはどこか違う雰囲気を漂わせている。
もう少しさかのぼると、年輩の棋士達に混ざって制服の白シャツらしきものを着た
青年が写っているものが一枚だけあった。眼鏡はかけていない。だが、あの人だ。
父も今では見る事のなくなったスーツ姿をしている。その人は父の斜め後ろにいた。
その時はまだ父の方が背が高かったようである。その父の姿は、今のあの人と
よく似ていた。スーツの色合いも髪型もだいぶ違う。けれど、似ていた。
自分もあの人に似ていくのだろうか、と少し想像したらおかしくなってきてやめた。
アルバムを閉じ、自分の心にも封印をかける。
おそらくあの人が父を追ったように、自分もあの人を追い続けるのだろう。
父にも、そういう目標の存在があったたのかも知れない。そしてそれは誰かに
宣言する類いのものではない。自分はひた向きにただ目標に向かえばいい。
自分の中で、これ以上は無いと言う納得の仕方だった。
あの人はおそらく気付いている。自分の視線に。そしてそれに気が付かない振りを
装っている。多分これからも。それで良いと思っていた。信頼と親愛のバランスに於いて。
そのバランスが崩れ始めたのは進藤ヒカルに出会ってからだった。
(4)
進藤に二度に渡って負けた時、特に二度目に完璧なまでに打ちのめされた時、自分の
足下が崩れていく様な思いがした。
あの人はいつか父に追い付き、父に替わってこの世界の頂点に立つ。自分はそう確信
していた。そんなあの人を追い、いつか正面から自分に向き合ってもらうためにも自分が
挑戦者の頂点にいなくてはならないのに、そうである自信があったのに、突如そこに
大きな壁として進藤が立ちはだかった。
暗闇の中に碁盤が置かれ、あの人が座する。その正面に座るのは自分のはずであった。
だが、近付きたくても足が動かない。すると誰かがフッと横を通り過ぎて、自分が
座るはずであったその場所に立つ。進藤だ。
その人も進藤も、まるで自分の存在はないかのようにこちらを一瞥する事もなく
静かに対局を始める。
そんな悪夢にうなされて夜中に目を覚ます事があった。
自分の進藤に対する強い意識はあの人も敏感に察知したようだ。その頃からだと思う。
それまでになく、あの人が自分に声をかけて来るようになったのは。
―進藤と対戦するために中学の囲碁部に入ったんだって?
―…はい。
―君にもやっと年相応のライバルが現われたわけか。いいことだ。
その人の考えている事は分かってしまう。ボクの意識が向かう対象が他に移る事を
期待しているのだ。
―ボクの目標は…あくまで、あなたです。
―…それはどうも…。
タバコの煙だけ残して、その人は去っていく。一度背を向けられたらもう振り返って
もらえない、その人にとってはまだその程度でしかない自分の存在が悔しかった。
(5)
結局あれ程までに望んだ進藤との対局が失意の中で終わり、自分は再びあの人だけを
追う日々に戻った。だが何故か、心の中のざわつきは消えなかった。
それくらい、最初の時の進藤との一戦が深く心に刻み込まれていた。
ネット上に現れたsaiの存在も傷を深めた。
プロ試験を受ける決意をし、そのための精進に没頭しながらも
癒えない傷が再び血を吹いて自分を苦しめるような予感がまとわりついた。
―何か気に病むようなことでもあるのか?
朝の対局の場で、珍しく父が言葉をかけて来た。
―いえ、何でもありません。
―そうか。
言葉の代わりに父の一手一手が自分に問い続ける。乱れた心を正して正しい方へ
導いてくれる。小さい時こそ手をつなぎよく触れあった暖かさが時々こうして
盤上の父の指先から感じる事がある。その暖かさは、変わらない。
あの人もこうして、父から厳しさ以外のものを多く受け取っていったはずだ。
あの人とも何度も対戦し、何度も辛らつな結果を受けた。だがあの人の指先が盤上で
自分に対しては何も語りかけようとしてくれることはなかった。
それでも心はあの人を追う。
そんな自分をあの人はさらに突き放す。
―君に見せたいものがある。
プロ試験に合格し、ぶれていた振り子がようやく静かに元通りにリズムを刻みかけた
頃に、あの人はそう言って来た。自分を追おうとしている進藤の姿を突き付けて来た。
傷口から流れる血が人の形となって再び自分とあの人の間に立ち上がった。
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