浴衣 1 - 5
(1)
「アキラさん、そろそろ出掛けたほうが……」
襖の向こうから、母の声がした。
慌てて雪見障子に目をやれば、明度を落とした橙色が、白い障子紙を染めていた。
「もうじき5時だよ」
進藤が驚いたような言った。
改めて、掛け時計で時間を確認し、僕も驚いてしまう。
進藤がやってきたのが2時ごろだった。あれからそう時間が経っているようには思えないのだけど、3時間近く二人で碁盤を睨んでいたことになる。
「お母さん」
襖が開き、母が晴れやかな顔を覗かせる。
「夢中になるのもわかるけど、そう根をつめるものじゃなくてよ」
「すみません」と僕が苦笑すると、進藤も軽く頭を下げていた。
進藤と蛍を見てから、そろそろ一ヶ月になる。
あれをきっかけに僕たちの関係が変わったかというと、実は何も変わっていないのだった。
夏場は様々なタイトル戦の予選や棋院主催のイベントなどが目白押しで、いろいろと忙しい。
僕はまだ学生という身分にあるので、普段はイベント関係の仕事は免除されることも多いのだが、夏休みということもあってここぞとばかりに依頼がある。
ひとり暮しをはじめた進藤はき、生活費を稼ぐんだと、雑多な仕事も進んで引きうけている。
そんな訳で、僕たちのスケジュールは一杯一杯、今日こうして二人とも空いたのは奇跡的なことかもしれない。……少し大袈裟だな。
―――――塔矢も、俺のこと好きになってよ。
あの晩、進藤が囁いた言葉に、僕はまだ返事をしていない。
(2)
僕自身は応えたつもりでいるんだが、どうも…進藤は言葉が欲しいらしい。
だけど、進藤だってはっきりと「好きだ」と言ったわけじゃないんだ。
……いや、気持ちは十分伝わっている。でも、「好きだ」と言われてもいないのに、「好きだ」と僕のほうから言うのは、どうも気恥ずかしい。
それに、忙しくてゆっくり顔を合わせるひまもなかったんだ。
棋院で顔を合わせた折、近況を伝えるついでに「好きだ」と言うのか?
それはいくらなんでも即物的だと、僕は思う。
そういう事情を進藤にわかって欲しいのだが、彼はどうやら待ちの姿勢で。
物欲しげな表情で、僕を盗み見るのはやめて欲しいものだ。
以前は頻繁に電話を掛けてきたくせに、この一ヶ月ほとんどなかった。
おかげで、久しぶりにこちらから電話を掛けたんだけど……、受話器を置いて思ったことは、早々に携帯を買おうということだった。
後ろめたいわけじゃないが、居間と廊下では距離があったけど、両親が寛いでいるすぐ近くで進藤と話すのは、なぜだか酷く緊張したんだ。
「アキラさん、悪いけれど、帰りに朝顔の鉢を買ってきてくださる?」
「お安いご用ですよ」
碁笥に石をかたしながら答えると、母は赤紫がいいとはしゃいで言った。
「一応お夕食の支度もしてあるから、向こうであれもこれもと召し上がらないでね」
あ、くるなと思ったら、案の定母がころころと笑い声を立てる。
「聞いてくださる? 進藤君」
「はい?」
「アキラさん、凄い欲張りなのよ」
「お母さん!」
「門下のお兄さん方に連れられて、お不動さんに行ったのは2年生のときだったかしら?」
「しりません」
「アキラさんたら、林檎飴にアンズ飴にわた飴にべっ甲飴、あとなんだったかしら。そうそう、薄荷パイプ! その上金平糖もあったわね。目が欲しがるのね。飴ばかり買っていただいて。そのあとだったわね、歯医者さんに通ったのは」
一息にそれだけ言うと、おかしそうに目を細めて笑う。
(3)
「あれは!」
僕は思わず声を荒げていた。
「芦原さんたちが買ってくれたから、残したらいけないって、つい!」
プッと進藤が吹き出した。
「塔矢ぁ、聞いてるだけで胸焼けしそうだ」
そこで母と声を合わせて、朗らかに笑う。
「なにがそんなにおかしいのかね」
僕の座っている場所からは姿が見えなかったが、廊下に膝を吐き襖に縋るようにして笑っている母の後ろから、父の声がした。外出から戻ったんだ。
「お、お邪魔しいます」
進藤が、慌てて居住まいを正した。
「ああ、誰が見えているのかと思ったら、君か。久しぶりだね」
「ご無沙汰しています」
襖を大きく開けにこやかに笑いかける父を見ると、進藤はきっちり頭を下げた。
「今日は?」
父が、僕と進藤、交互に視線を向ける。
「たまたま休日が合ったので、お不動さんの縁日に誘ったんです」
「8月の例祭か。それでは、ちょうどよかったな」
父はそう言うと、風呂敷包みを母に手渡した。
「銀座の錦屋によったら、ちょうど出来あがってきたところで、預かってきたよ」
「あらいやだ、あなたを使うなんて、錦屋のご主人に文句を言わなくちゃ」
「やめておきなさい。今日はご隠居さんが見せにいらしてね、久しぶりに打ってきたんだ。
ご隠居さんが、おうちで坊ちゃんが楽しみにしているからと、持たせたんだ。若主人はその後ろでおろおろしていてね、可哀想だったよ。その上、おまえに文句を言われては、立つ瀬がなかろう」
「それもそうですね」と言いながら、母は僕たちの前で風呂敷包みを開いた。
「浴衣だ」
進藤が、明るい声をあげる。
(4)
「アキラさん、折角お父様が持ってきてくださったんですもの、着ていったらいかが?」
「え、でも…」
僕はチラッと進藤を盗み見た。しかし、進藤は子供のように目を輝かせて、黒と紺の浴衣を眺めている。残念ながら、僕のSOSに気づかないどころか、とどめを刺してくる。
「そうだよ、塔矢。着てみろよ」
「そうだわ、進藤君。あなたも着てみない? アキラのが他にもあるのよ」
「いや、俺…じゃない僕は普段和服着なれてないから……」
慌てて手を振り断る進藤に、父まで微笑んでいる。
彼がいるだけで、賑やかになる。
それは、進藤の持つ独特の空気なんだろうと、僕は思う。
6時半までに帰っていらっしゃいという母の声に送られて、僕たちは家を後にした。
角を曲がり大通りにでると、進藤が尋ねてきた。
「暑くないか?」
「浴衣?」
「うん」
「君に比べたら、暑いだろうね」
嫌味を聞かせる。
だってね、進藤はアロハにハーフパンツだよ。僕より暑いはずがない。
僕の嫌味に、進藤は困ったように片頬だけで笑って見せた。
「凄い似合ってる」
まいった。
進藤は言葉を惜しまない。
彼が誉めているときは、心から誉めているんだ。
「あ……、ありがとう」
僕は口篭もってしまった。女の子じゃないんだから、着てるものを誉められてもね。
似合うといえば、今日の進藤の格好も似合っているというか、彼らしいというか。
赤いアロハは、白い花の模様が涼しげで、そのなかに着ているTシャツは真っ白で清潔感があった。
(5)
駅を通りすぎ、銀行前の信号を渡ると、そこから露天商の小さな店々が、ひしめくようにして軒を連ねている。
はだか電球のまぶしい光と、やたらに派手な暖簾にけたたましい呼びこみが、僕たちを包みこむ。
焼きあがったベビーカステラの香ばしい匂いに食欲をくすぐる焼き蕎麦のソースの焦げる匂い。まだ生暖かい風が、江戸風鈴の涼しい音色を辺りに響かせ、色あざやかな風車をくるくると回す。
「想像してたのと全然違う」
「どう違うの?」
「こんなに賑やかだとは思わなかった」
「8のつく日が、お不動さんの縁日なんだけどね、今日は一年に一度の例祭なんだ。だから、いつもよりお店も多いければ、人出も多い」
そんなことを説明しながら、僕たちは露天を冷やかして歩いた。
縁日に行くと、なぜか買ってしまうものにアンズ飴がある。
僕が「食べる?」と進藤に訊いたら、彼は失礼なことに人の顔を見て吹き出してから、「一つだけにしとけよ」と偉そうに言ってくれた。
まったく、何年前の話を蒸し返してくれるんだ。
そんな進藤は、薄荷パイプ愛好家のようで、子供向けアニメのキャラクターのなかからさんざん迷った挙句、アンパンマンの形をしたパイプを選んだ。
広島風お好み焼きを半分づつ食べながら、因島に行ったときの思い出を話してくれた。
僕が、秀策記念館にまだ行ったことがないと言うと、いつか一緒に行こうと言ってくれた。
輪投げをして、射的をして、金魚すくいをした。
進藤は金魚すくいが得意だと自慢するだけあって、たった100円で5匹もすくってみせた。
持って帰ったところで、水槽一つあるわけでもない。進藤は、彼の見事な手つきに熱心に拍手をしてた子供に、ビニール袋ごと金魚を上げてしまった。
二人で並んでヨーヨー釣りをしたけれど、これは最初から紙縒りが濡れていたようで、僕も進藤も一つも取れなかった。
釣れなくても一つはもらえるので、僕は赤いヨーヨーを、進藤は白いヨーヨーを選んだ。
少し水の量が多いのかろ、少し重く感じるヨーヨーをパンパン言わせながら、お不動さんの境内に入った。
占いのくじを引いて、ふたりとも真っ先に目を通すのは勝負事の欄だった。
お不動さんの本殿で、お賽銭を投げこみ、拍手を打った。
初詣でもないから、願い事は些細なこと。
進藤が聞きたそうにしたから、かえって言いたくなかった。
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