誘惑 第三部 1 - 5
(1)
飛行機は分厚い雲の中を上昇していく。
何かの予感にも似た白い霧の中を突き抜けると、明るい太陽の光が唐突に窓から差し込む。
反射的に外へ目を向けてしまうと、空の絶対的な青さと、陽の光を受けて白く煌めく雲海が、光に
満ちた眩しいほどの光景が、一瞬にして彼の心を奪う。
その天上の光景に彼は言葉もなくただ引き寄せられ、彼の心は眩しく輝く光で満たされる。
足元に落ちる濃い闇は自分を照らす光のせいなのだと、追い詰められるようにその光から逃げて、
逃げて、逃げ込んで、けれどそんな逃避が無駄な徒労であったことに、やっと気付く。
この地球上にあって、太陽の光から逃れる事などできないという事を。
どうして。
どうして、ここまで離れてしまうまで気付かないんだ。
ボクが彼を忘れる事なんて、できる筈がなかったのに。
彼を失う以上に、耐えられない事なんて、ある筈がなかったのに。
足りなかったのはほんの少しの勇気と、くだらないプライドなんかは捨ててしまう事だけ。
たったそれだけだったのに。
与えられる事に慣れてしまって、向こうから背を向けられたら、それだけでもう怯えて立ち竦んで
しまって。自分からは何も動けずに。
どうして。
それでもキミが好きだって、ボクにはキミが必要なんだって、追い縋る事も出来なかったんだろう。
そうしなきゃいけなかったのに。そうするべきだったのに。
何もしないで。怯えて、背を向けて、逃げて。ボクは、バカだ。
キミを忘れられるはずなんかなかったのに。
キミを好きだって気持ちが、ボクの中の一番の真実だったのに。
(2)
「塔矢くん?」
「え?」
急に隣から声をかけられてアキラは驚いて振り向いた。
「どうしたんだ…?」
けれど、そう問いかけても、何を訊いているのかわからない、そんな表情でアキラは記者を見た。
「……きれいだな、と思って。」
そう言って、アキラはもう一度窓の方を向く。
涙が頬を伝い落ちているのに、アキラは気付いていないようだった。
アキラの言葉に記者はアキラの横から窓を覗き込む。
真っ青な空と、輝く太陽と、白く煌く雲海は、彼の言う通り、美しかった。
けれどそれ以上に、魅入られたように窓の外を見つめる塔矢アキラは、彼の白い頬を静かに伝う
涙は、天上の眩しいかぎりの光景よりも更に美しいと、彼は思った。
「もうずっと、太陽なんて見なかった気がするから、どこにもなくなっちゃったのかと思ったのに、
ちゃんとここにあったんだね。」
アキラは独り言のように呟いた。
(3)
「塔矢くん、負けちゃったね。」
「えっ?」
手合いが終わって帰ろうとしたヒカルに、先日、アキラの事を教えてくれた棋院の職員が、また、声を
かけてきた。
「いやあ、残念だったなあ。行く前は調子悪いんじゃないか、なんて言われてたけどね、打たせてみ
ればやっぱりさすがは塔矢アキラって感じの碁で。まあ、残念ながら一歩及ばなかったけどね。」
ホントに惜しかったよなあ、と言いながら、持っていた書類入れから、
「ハイ、これ。」
と、一枚の棋譜を手渡した。
「えっ、オレ…」
唐突に渡されたそれを、一瞬、見たくないと思ったが、見始めたら夢中になってしまった。
気合の入った、力強い、アキラらしい碁だった。棋譜に記された一手一手から、碁盤の向こうで鋭い
手を放つアキラが見えるような気がした。
「塔矢って、やっぱすげェ…」
無意識にこぼれた言葉には気付いてなかった。
あと僅かで及ばない。それが自分の事のように悔しくて、また、打っている相手が自分じゃないのが
別の意味で悔しかった。アキラとこんな碁を打っている相手が羨ましかった。
「オレも塔矢と打ちてェ…」
ふと漏らしてしまった独り言に、彼はにこにこしながら応えた。
「最近はあんまり塔矢くんとは当たる予定はないのかい?でも公式の手合いじゃなくてもよく打って
るって噂を聞いたけど?」
屈託なく言う声に、
「最近は…あんまり。アイツも忙しそうだし…」
小さな声で返すのが精一杯だった。泣きそうになるのを、ちゃんとこらえられただろうか。
「コレ、もらって帰ってイイ?」
「もちろん。」
(4)
地下鉄は空いていてすぐ座れた。ヒカルはリュックからさっきの棋譜をもう一度取り出して眺め、
アキラの打ち筋を辿っていたが、ふとそこから目を離し、碁盤の向こうのアキラを思い浮かべた。
最初はオレはたった一人の「塔矢アキラ」しか知らなかった。
最善の一手を追求する厳しい、真剣な眼差し。そして同じように真剣な目で、怒って、オレに怒鳴り
つける塔矢。真面目で、真剣で、碁の事しか考えてない、オレはそんな塔矢しか知らなかった。
でも、オレは塔矢を好きになって、オレの中にはどんどん色んな塔矢が増えていった。
キレイに優しく笑ったり、オレの言った事に照れて赤くなったり、ちょっと拗ねてみたり。寂しそうに、
頼りなさそうにオレに縋りついて見上げたり、そうかと思えばオレを食い尽くしてしまいそうに目を光
らせたり。オレの中には色んな塔矢がいる。オレしか知らない塔矢がいる。全部オレの宝物だった。
でも、もうそんな塔矢をオレは失くしてしまったんだろうか。
もう、前みたいには戻れないのかもしれない。
忘れるしかないのかもしれない。
そもそも、あんな事があったのが何かの間違いだったのかもしれない。
それでも、オレと塔矢は離れられない。いや、オレは塔矢から離れられないんだ。それでも追い続
けてしまうんだ。だってオレは碁打ちだから。同じ碁打ちとして、「塔矢アキラ」の碁に憧れずに、追
わずになんていられない。
それにきっと、そんな事を考えなくても、望むと望まざるに関わらず、オレは塔矢と向かい合う。
それは組み合わせ抽選なんて無粋なものの結果として。
(5)
いつか手合いの通知が来て、そこには「塔矢アキラ」と書かれている。
書かれた日に棋院に行くと、きっとあいつはオレよりも先に来ていて、静かに碁盤の前に座ってい
る。だからオレもそっとあいつの向かいに座る。開始を告げる声で、きっとあいつは静かに目を開
き、何もない盤面を一瞬見つめて、それから顔を上げてオレを見る。お互いに「お願いします」と頭
を下げて、それからオレたちは打ち始める。
塔矢が一つ打ち、それにオレが一つ返す。そしてその石に更に塔矢が次の手を返す。そうやって、
白と黒の石を介してオレ達は会話する。
オレが打ち続ける限り、オレと塔矢はそうやって向かい合い、言葉の要らない会話を交わす。
オレは碁から離れない。離れられない。それは同時に塔矢から離れられないって事だ。
一度は触れ合って、あんなに近くまで近づいた相手と、碁を通じてしか話せなくなるのは、悲しい事
なんだろうか。それでも碁を通じて繋がっていられるのは、嬉しい事なんだろうか。今のオレには、
それが嬉しいのか悲しいのか、良くわからない。
それでも、どんな事があってもオレ達はそうやって離れられない。オレと塔矢を繋ぐ絆は断ち切りた
いと思っても断ち切れない。それがきっとオレの、できればオレだけでなく塔矢の、運命だからだ。
もう、前には戻れないのかもしれない。恋人同士みたいに抱き合う事はもうないのかもしれない。
それでもオレと塔矢は繋ぐ糸は切れない。オレ達は同じ世界で生きてる。
オレをここに引きずり込んだのは塔矢。
今はオレの前を歩いている塔矢を、オレはずっと追いかけて、いつか追いつき、追い越して、また追
い越されて、競い合いながら神の一手を目指す。それがオレたちの運命。それだけは変わらない。
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