Cry for the moon 1 - 5
(1)
俺は天に輝く月に焦がれた。
決して手が届かないとわかっていたのに――――
初めてのキスは中学一年生のとき。
夏の盛りの理科室。
相手は同級生の男だった。
* * * * *
地下にあって、近寄りがたい雰囲気がある碁会所。
でも俺はここが気に入っていた。このちょっと陰気な感じがかえって落ち着く。
けど今日は居心地の悪さを感じた。
「いや、しかし修さん。この間の本因坊戦はすごかったよね」
「そうそう、あの子、進藤くん。本因坊のタイトルとったよネ」
最近、碁会所はこの話題で持ちきりだ。きっとどこもそうなんだろう。
俺は聞きたくなくて散らかしていた教科書を片付け、立ち上がった。
「オヤ、三谷くん、もう帰るのかい?」
おじさんに呼ばれて俺は振り向く。
「バイトあるから」
「居酒屋で働いているんだって? コンビニとかのほうが良かったんじゃないかネ」
「時給いいから」
からんでくる酔っ払いや、ケツを撫で回すオヤジには正直うんざりしてるけど。
「学校の勉強もあるんだろう? 大丈夫なのかい?」
「だからここでやってるんだ。家だとやる気しないし」
おじさんは時々、心配性になる。親じゃないんだからそういうことはほっといてほしい。
出るとき、テーブルの上に開いたまま置かれていた囲碁雑誌に目がいった。
『進藤ヒカル三段、桑原本因坊からタイトル奪取!』
大きな見出しがイヤでも目に入る。
「ふん」
鼻を鳴らすと、俺は外に出た。蒸し暑い夏の空気に、一気に汗が吹き出てきた。
(2)
進藤は中学二年生でプロ試験に受かって、三年生のときにはプロ棋士として歩み始めた。
出だしはふるわなかったが、その後は順調に勝ち進んで去年の五月にあった日中韓対抗で開催
された北斗杯でも優秀な成績を修めていた。
そしてその年の夏、プロ二年目の二段でありながら、本因坊戦リーグ入りを果たした。
ここまではあの塔矢アキラと一緒の道だった。しかし進藤はさらにその上をいった。
リーグ戦を生き残り、挑戦者になったのだ。あまつさえタイトルまで得てしまった。
かくして16歳の進藤本因坊が誕生したのだ。それが今月の初めのことだ。
ものすごい快挙だと囲碁界が揺れた。
まったく……俺は高校二年生で、勉強やバイトであくせくして将来のことなんかちっとも
見えていないのに、進藤は確実に前に歩いている。なんという差だろう。
街角の居酒屋ののれんをくぐる。まだ混む時間ではないので店内は静かだった。
「こんばんは」
「お、三谷くん。今日は早いね。さっそくだが上の座敷をととのえてくれ」
「団体ですか?」
「そうだ。6人だ」
店の前掛けを手早くつけて、二階にあがる。テーブルを拭いて座布団を敷く。
ふと窓から月が見えた。月は進藤を思い起こさせる。
あいつはぜんぜん月ってガラじゃないのに。
進藤のことを考えると、何とも言えない感情が胸を支配する。
好きなのかそれとも嫌いなのか、自分でもわからない。
いや好意は抱いていた。だから俺は思わず進藤に……。
まぶたを閉じると、今でも鮮明にあの時のことが蘇ってくる。
理科室で寝ていた進藤。薄く開いた唇。そこから漏れる穏やかな息。
暑さで気が変になっていたのかもしれない。
とにかく気付いたら俺は自分の唇を押し付けていた。
男がファースト・キスの相手だなんて哀れかもしれない。あの時の自分はどうかしていた。
一通り準備を終えると、俺は階下におりた。することはたくさんある。
何も考えずに仕事に没頭する時間がおとずれるのだ。
だが気を引き締めようとしたそのとき、俺は信じられないものを見た。
「三谷?」
何で、何でここに進藤がいるんだ。
(3)
進藤は戸惑ったように俺を見たが、すぐに笑顔になった。
たったそれだけで俺の心はざわつく。
「久しぶり、卒業式以来だな。元気そうで良かった。ここで働いてんの?」
懐かしい声。進藤は普通に話しかけてくる。けど俺の口はうまく動いてはくれない。
「まあな」
「なんだよ進藤、知り合いか?」
後ろにいた一人が身を乗り出してきた。
「うん。中学のときの囲碁部の友達。三谷、こいつら俺のプロ仲間」
「いらっしゃいませ。予約されていた方ですね。上へどうぞ」
ちょうど店主が割り込んできて、座敷へと案内した。俺も後に続く。
「今日はさ、みんながオレのタイトル祝いをしてくれんだ。なあ三谷も一緒に食べない?」
何のわだかまりもない口調に俺は苛立ちを覚える。
「俺、働いてるんだけど」
「うん、じゃあオレ達の専属になってよ。おっちゃん良いよね? たくさん食べるからさ」
「何を勝手なことを言って……」
「いいよ三谷くん。今日は他に入ってくれる子がいるし、相手をしてさしあげなさい」
反論しようとしたけど、耳元で店主にどすのきいた声で、多く注文を取れ、なんて言われ
たら何も言えなくなってしまった。くそっ。
「……ご注文は?」
「おすすめを適当に持ってきてよ。飲み物は、うーん、このりんごサワーってのがいいな」
「それ酒だけど」
「別に強くないんだろ?」
そういう問題じゃない。未成年なのに飲む気か。だいたい居酒屋で祝おうという神経が
信じられない。プロはみんなこうなのかよ。
「進藤、やめとけよ。見つかってタイトル剥奪になったらどうするんだ」
一番、年長らしい男が声をあげた。
「伊角さんは真面目だなあ。平気だよ。それくらいでそんなことにならないよ。それにさ
見つからなければいいんだから。和谷、越智、本田さんは何を飲む?」
シャギー頭、眼鏡のきのこ頭、ボブカットの男に進藤は声をかける。
3人はメニューを見て、顔を見合わせた。
(4)
「……俺もサワーがいいな。オレンジのやつ」
「僕は梅酒。本田さんは?」
「じゃあ俺はビール」
伊角とかいうやつは唖然とした顔をしてたけど、ため息をついた。
「まあ居酒屋にしたのは俺だしな……」
「そうそう。桜野さんおすすめなんだよな、ここ。伊角さんはハタチなんだから、好きな
だけお酒を飲めるぜ」
「いや、酒はちょっと。このほうじ茶をください」
なんかジジくさいな、と思いつつ俺はメモを取り、注文を繰り返した。
「あ、ウーロン茶も。もう一人来るんだ」
「いいのか? 勝手に決めて。しかもウーロン茶かよ」
「和谷、あいつがアルコールを飲むと思う? どころか反対するぜ」
「だったら俺たちが飲んでても怒るんじゃないのか」
「飲んだもん勝ち。遅れてくるほうが悪いんだよ。三谷、よろしくな」
進藤は本当に勝手で、強引だ。でも誰も逆らえないんだ。
自分もそうだった。無理やり囲碁部に引っ張っていかれた。
いやいや入ったのに、結局あそこが俺にとって安らげる場所になった。
大切だった、あの空間。みんながいて、進藤がいて、碁を打って……。
「三谷」
立ち上がった俺に進藤は声をかける。
「おまえも好きなやつ、頼んでいいよ」
「何で」
進藤は少しすねたように唇をとがらせた。
「何でって、一緒に食べようって言っただろ」
一番値段の高い焼酎を注文してやろうか。
「……水でいいよ。今オーダーしてくるから、ごゆっくり」
背後から笑い声が聞こえた。進藤の周りはいつも明るい。良くも悪くもその影響はすごい。
そうだ、進藤はひねくれて手に負えないと両親や姉貴に言われていた俺を変えたんだ。
対して俺は進藤に少しでも影響を与えられたか?
答えは否、だ。俺は簡単に進藤に振り捨てられた。俺はその程度の存在だったんだ。
(5)
イカリング、軟骨のから揚げ、シシャモ、ピザ、ジャガイモの団子、その他もろもろを
並べると、進藤たちは勢い良く食べ始めた。
「三谷も食えよ。おごりだぜ」
口にアスパラの豚巻きを詰め込みながら進藤は言う。
「進藤、金を出すのは俺たちだぞ」
「だいたいこの中で一番お金を持ってるのって進藤だよね。賞金いくらだっけ」
「えーと、忘れちゃった。それに税金で持ってかれるからそのままの額もらえるわけじゃ
ねえしな。あ、オレもずく嫌いだから和谷にやるよ」
「嫌いなもん寄こすなよ!」
こうして見ると、プロ棋士と言ってもぜんぜん普通のやつと変わらない。
枝豆をつまむ。ちっ、やっぱりビールを注文すればよかった。水じゃうまくない。
でも仕事中だしな。ああ、でも店長も大目にみてくれるか。
そんなことを考えてると階段を駆け上る音が聞こえてきた。
「遅くなってゴメン」
「あ、やっと来た。座れよ」
振り向いて俺は驚いた。あの塔矢アキラじゃないか。
こんなやつとまで進藤は仲いいのかよ。
塔矢アキラは静かで温和そうな顔をしている。だけど俺は知っている。
進藤相手に取り乱したことを。
あれは俺と進藤の二人が出た最初で最後の、囲碁部の大会。
こいつはヘボの進藤に熱くなって、何か叫んでいた。バカかと思った。
あのころの進藤は俺よりも弱かった。その進藤に何を期待してるんだって思った。
けど、こいつは俺にはわからなかったことをわかっていたんだ。
「進藤、それは酒じゃないのか」
「うん。かたいことは抜きにしようぜ。ハイ、これおまえの」
「……ウーロン茶じゃないか」
「だって塔矢は酒を飲むなって言うくらいなんだから、自分は当然、飲まないだろ?」
「ボクも飲む」
ムキになってるのがはたからでもわかる。進藤は人を自分のペースに巻き込むのがうまい。
誰が相手でも少しも躊躇しない。
進藤は見かけは大人っぽくなって、背もかなり伸びたけど、中身は変わっていない。
だからか。あのころのことを思い出してしまうのは。
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