敗着 1 - 5
(1)
暗い部屋の中でヒカルは考え込んでいた。
(塔矢は、緒方先生と?)
同じ年齢とは思えない慣れた手つき、躊躇いのない所作。
(塔矢、塔矢)
繰り返し頭の中で名前を呼んでみる。
「熱っぽい」と言って母親に飲まされた風邪薬が効いている。
棋院の中で見た、自販機から滑り落ちてくる煙草のパッケージ。
赤い色。
不意に塔矢の部屋の空気が蘇る。
「・・・・・・・、」
ゆっくりと呼吸が荒くなる。そっとジャージをずらし手を滑り込ませる。
中学生のヒカルにとっては半ば習慣のような行為だが、今日は思い描く対象が
違っていた。
シャワーを浴びた後の肌の温もりと、為すがままだったあの夜。
無意識に親指の爪をかじる。
「は・・・・・っ」
大きく呼吸をし、身体を捩る。
肩口に掛かる塔矢の髪、火照った体とは対象的な冷たいシーツの感触。
目と目が合った瞬間思わず逸らしてしまった自分。
「塔矢、・・・塔矢・・・」
自分より少し背が高く、碁盤を挟んで鋭く睨んでくる同級生。
そいつと俺は・・・。
後の痛みに塔矢を思い出す。「・・・は・・・あ・・・っ」
塔矢の手の感触と自分の手を重ね合わせ激しく動かす。
「・・・・っ」
ベットが少し揺れた。
(2)
車のクラクションと人のざわめき。
俯いてのろのろと歩を進める慣れた道順。
一呼吸おいて駅ビルの看板を見上げる。
(ったく、どんな顔して行けばいいんだよ・・・。)
ポケットの中で鍵をチャラチャラといじりながらヒカルは迷っていた。
今日こそは、今日こそはと思いつつ日が経ってしまった。
かといって、
「いきなりここは、なあ。」と呟き鍵をぎゅっと握る。
「何やってるんだ?」
いきなり声を掛けられびくりとし、振り返ると緒方十段が立っていた。
「あ・・・、緒方、先生・・・。」
一瞬ヒカルの脳裏にアキラの眼差しが映る。
「碁会所に行くんじゃないのか?」
「あ、いや、今日は、その」
とヒカルが言い澱んでいると、何かを察した様に緒方が目を向けた。
「それとも、別の所か?」
と言って見たのは塔矢の部屋がある方向だった。
この人は、やっぱり塔矢と・・・。
知らず目つきが険しくなったヒカルをせせら笑うかのように緒方は
「・・・俺と来るか?」
真っ直ぐにヒカルに向き直り訊いてきた。
「え・・・?」
「近くに車を停めてある。どうする?」
ヒカルはぎゅっとバックパックの肩紐を握りしめ、無言のままでいた。
(緒方先生は、塔矢と)
訊いてみたいことは山のようにあった。
「フン」
緒方は鼻で笑い勝手に歩き出した。
一瞬躊躇したヒカルは、だがしかし、緒方の背中を追いかけた。
(3)
ヒカルはエレベーターの床をじっと見つめている。
車は意外にもRX−7。
大方マークU辺りだろうと予想していたヒカルは素直に驚いた。
エレベーターが停止し、扉が開く。
考えてみれば相手は二冠の棋士。自分はひよっこの新人棋士だ。
ヒカルは今更ながらに恐縮する。
ガチャガチャとキーを回す音が聞こえ、「ガチャン」と重い金属製の
ドアが鳴る。
一向にこちらを気に掛ける様子もなく、
「入れ」とだけ言う。
足を踏み入れると車の中と同じ煙草の匂いがした。
(塔矢の部屋にもあった・・・)
ヒカルはきゅっと唇をかむ。
「適当に掛けていいぞ」
上着を脱ぎ、緒方が初めてこちらを向いた。
低いモーター音。コポコポと水泡の音がする。
(魚・・・、飼ってるんだ・・・。)
ぼんやりとヒカルは思った。
「コーヒーでいいか?それとも、牛乳か?」
からかわれたのが分かり、ムッとした表情になる。
(4)
(神妙な顔をして・・・)
普段のヒカルとのギャップを思い、緒方は内心可笑しかった。
肱掛椅子を引き、
さてと─、
「何かオレに訊きたいことがあるんじゃないのか?」
ソファにちんまりと座っているヒカルと対峙した。
「あ、あの・・・」
膝の上でこぶしをつくり、意を決しているようだ。
「緒方先生は、塔矢とは・・・」
顔を上げじっと見つめてくる。
「オレは塔矢門下の人間で、彼は名人の息子さん。
15歳にしてリーグ入りの若手最強の棋士だ。」
それがどうした、と言わんばかりにスラスラと答える。
ヒカルは困惑した。
(オレと、塔矢のような関係なのかよ・・・っ)
塔矢は明らかに初心者ではなかった。
そして、彼の周囲の人間で、思い当たるといえば─。
PCの台の隅に置かれている煙草─。
問い詰めたい─、問い詰めたい、だけど、
それからのことが分からなかった。
自分は何を期待しているのだ─、と。
(5)
塔矢と抱き合い、お互いを確かめ合い、
じゃれ合うようにシャワーを浴びて─。
アキラの髪に指を通し、唇を合わせた時、
「愛しい」
そう感じた。
「お、お前は、塔矢をっ」
勢いに任せて言葉が口をついた。
「─フン。お前呼ばわりとは、オレもナメられたもんだな。」
緒方が上体を起こす。目が据わっている。
「あ・・・、」
ヒカルは気が付いた。だけどひるまない。
「お前、塔矢と、あんなことしてんのかよっ!」
「あんなこと?」
白々しく訊き返してくる。
「だから─、その・・・」
言葉にするのは憚られ、顔が上気してくるのが分かる。
「こういうことか?」
ハッと顔を上げると緒方の顔が近くにあった。
「お前はアキラくんと、こういうことをして─?」
詰襟と耳との僅かな隙間を指が滑る。
途端に身体が硬直する。
思い出した─。この人と、こうして向かい合ったのは、あの夜─。
そう、佐為がいて─。
だけど─、この人は─、今日は酔ってはいない。
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