春の舟 1 - 5
(1)
1
舟は鏡のような水面を、静かに進んだ。
周りの山肌は若葉の薄緑色にけむり、昼下がりの空気は暖かく湿っている。
春の午後、藤原佐為と近衛ヒカルは、都大路の西の外れの山間にある大きな堤に来ていた。
その堤に浮かべた舟に乗り、若葉の茂る山肌の迫る、堤の堰から奥へと向かっていた。
ヒカルは舟の舳先に前を向いて座り、時々嬉しそうに振り向いては佐為の顔を見る。
舟の中ほどに佐為はゆったりと座り、最初はしぶしぶ着いてきたヒカルが、小さな子供のように
はしゃいでいるさまを楽しそうに見ていた。
この堤の堰の上に馬で登って来た時、ヒカルは堤の奥に霞のように広がる薄紅の一体を指差し、
「あれが桃なんだね?」と興味深そうに言った。
この日の午後、帝の囲碁指南の仕事の後で、警護のために佐為を家に送って来ていたヒカルを、
佐為は、噂で聞いたという桃の花の咲く場所へ見に行こうと誘った。
朝の粥が残っているはずだから、それを食べ、すぐに出掛けて行けば陽のあるうちに帰って来られる。
そう言って誘う佐為の言葉を聞いて、ヒカルは露骨に嫌な顔をした。
「桃?」
「ええ、桃です。いけませんか?」
意外そうに言う佐為の顔を見ながら、ヒカルは溜息をついた。
「佐為って、やっぱり変わり者だよなー。普通は桃より梅だろ?まあ、遊びに行く口実なんだろうけど。
前もさ、俺が梅の木を持って来てやったのに、あんまり喜ばなかったし」
佐為を帝の囲碁指南役にと呼び寄せた藤原行洋が、都に家を持たない佐為のために、
新しく用意したのがこの家だ。
(2)
2
佐為が住むようになって一年ほどなのだが、囲碁の他に興味を示さない佐為自身のために、
この家の庭はあきれるほど殺風景だった。
行洋や付き合いで訪れる貴族たちに言われて、佐為がようやく植えたのが桃の木だった。
桃の木が植えられ、ようやく庭らしく整えられて行くだろうと思ったが、その後も庭は殺風景なままだった。
気をもんだヒカルが、その庭に梅の木を置いて行ったのは、前の年の秋のことだ。
木を植え替えるなら涼しい季節がいいからと、佐為の家の庭に梅の木を、置いて行ったのだが、
三日ほどしてヒカルが佐為の家を訪れてみると、ヒカルが置いて行ったそのままに梅の木が庭にあった。
それを見たヒカルが怒って梅の木を川に捨てて来ると言うと、その時になって初めて佐為は、
梅が可愛そうだからと、やっと庭に植えたのだ。
その梅の木のことを思い出して、ヒカルは不機嫌そうだった。
「桃の花が好きなんです」
そう笑いながら言う佐為の顔を呆れたような表情でヒカルは見ていたが、諦めたように早く出掛けようと
佐為を促した。
ヒカルは堤の奥の、薄紅の霞をもっと良く見ようと、馬の上で身を乗り出した。
「舟があるはずなのですが…」
南から堰を登り、堤の淵をめぐって北側の細い道へと馬を進めると、さほど行かぬうちに
道が途切れた。
馬を降りて水際へとさらに下りると、枯れた葦の間から初老の男が姿を現した。
男は二人を促し、葦の間を歩くとすぐに水に浮かぶ舟が見えた。
ヒカルは、子供の頃、壊れた川舟が河原に捨てられている横で遊んだことがあるのを思い出した。
その時見た舟よりはだいぶ大きい。無理をすれば大人の男が五人も座れそうだ。
だが、この舟は堤の魚を獲るためのものではなさそうだ。
大事そうに布が敷かれているのを見ると、あの桃の花を見に行くためのものらしい。
(3)
3
舟の中央に座った佐為の前に、ヒカルは一度行儀よく座ったが、舟が岸を離れ静かな水面を
進んで行くと、舳先へと這って行った。
普段、聞くことのない舟底の、小さな水音が耳に心地いい。
舟べりに手を掛け、さざなみの立つ水面をヒカルは覗き込んだ。
「ヒカル、落ちないでくださいね」
すぐに佐為が声を掛けた。
「わかってるよぉ」
舟はやや大きいために、ヒカルが舟べりから顔を出したくらいでは傾くことも、揺れることもない。
普段は舟に乗る機会などないので、ヒカルは嬉しくてじっとしていられないのだ。
しかし、佐為が心配するよりもヒカルは慎重だった。
これが一年前のヒカルなら、はしゃぎまわって水に落ちることがあったかもしれない。
そんなことを考えながら、時々振り返り、佐為の顔を見ては笑うヒカルを、可愛らしく思った。
桃の花の下に、舟は静かに滑り込んだ。
水面から見上げてみると、何本もの木が集まって咲いているのではなく、大きな木が一本、若い木を
数本従えるように咲いているのがわかった。
霞に包まれたように、あたり一面が薄紅色に染まり、幻想的だ。
だが、間近に見るまだ若い芽は薄緑色に輝き、薄紅の花に色を添えて瑞々しく美しい。
「きれいだなぁ…」
ヒカルは思わず立ち上がり、花天井となった頭上を見上げて感心したように言った。
「おや、ヒカルは少しは風情がわかるようですね」
佐為が、からかうように言った。
(4)
4
「佐為は庭のことわかんないもんな。オレの方が上ってことかな?」
「……」
すぐにヒカルに返され、佐為は驚いて袖で口元を隠した。
ヒカルは佐為の近くに座り直した。
「噂に聞いた通りですね。これでまた花の散る頃には、この場所を知っている者たちがこの舟を
奪い合うのでしょうね」
「歌を詠んだり、酒を飲んだりするんだな。それならもう一艘くらい舟を浮かべればいいのに」
「でもここは、多くの人は知らないのですよ」
「ぅん?」
「よく顔を合わせる女房殿に教えていただいたのです。この堤は、ある貴族の領地の一部で…」
―――よく顔を合わせる女房…
佐為がそう言った途端に、ヒカルは抑えようのない嫉妬にかられた。
内裏に出入りしていれば、女房の一人や二人の顔見知りは出来る。
それどころか佐為は、帝の他にも手が空いていれば、他の貴族にも女房にも碁を教えることがあるのだ。
普段から仲が良く、ひとりの貴族とその警護役の間柄を越えた、佐為との親密さをヒカルは既に
手に入れてはいたが、ほんの少しのことで心の底が冷たくなるような、ひどく嫌な気持ちになる。
そうして決まってその後は、とても不安になるのだ。
男の自分とのことは気まぐれに起きたことで、いつか佐為は自分の知らない女房と…。
「ヒカル、どうかしましたか?」
急に黙り込んだヒカルのようすを不思議に思い、佐為が訊ねた。
ヒカルはあわてて首を横に振った。
まっすぐにヒカルを見つめてくる佐為の目は、何もかもを見通そうとしているようだ。
誰かに抱く嫉妬心も不安な心も、佐為には知られたくない。
こんな綺麗な場所に大好きな佐為といるのに、こんな気持ちになる自分は醜いと思った。
(5)
5
「少し、冷えましたか?」
ヒカルはうなずいた。
ここは堤に浮かぶ舟の中だ。それに太陽は山影に隠れて見えない。
今日は暖かく風もないが、さすがに足元が冷える。
「いらっしゃい」
佐為はにっこり笑うと両腕を開いて膝をついて立ち、ヒカルを招き寄せた。
ヒカルは素直に脚を開いて座った佐為の脚の間に体を滑り込ませ、体を佐為に預けた。
両腕で抱きしめられると嬉しい。ヒカルは顔を佐為の胸に押しつけながら、両腕を佐為の体に回した。
ふんわりと体が温かくなる。この温かさを無くしたくない。誰かに取られたくない…。
ヒカルの小さな体を優しく包んでいた手が、ヒカルの体を優しく撫で始めた。
顔の輪郭をたどっていた佐為の指がヒカルの顎を捉えて上向かせる。
ヒカルは目を閉じて、佐為の包み込むようなやわらかい口付けを受けた。
しかし、やわらかいと思ったのは最初だけで、すぐに佐為の舌が口の中に忍び込んできて、
ヒカルの舌を強く吸った。
体を掬い上げられるようにされながら、息をするのも苦しいような口付けを交わす。
めまいがするような感覚がしてヒカルは体から力が抜けていくのを感じた。
唇が離れてもすぐには元に戻らない。佐為の腕に体を預け、喉を反らしたままにしていると、
ふいに体が楽になったような感じになった。
めまいがするのとは違うな、と、ヒカルは首をまわし、佐為の腕にしがみつくようにして体を起こすと、
するりと着ている着物の帯が緩んだ。
「あっ…」
佐為がヒカルの狩衣の帯を解き、指貫の紐を解いたのだ。気がつけば佐為の手が着物の中に
忍び込んできていた。するすると手が滑り、腹の下の方へと下りて行く。
ヒカルは思わず体を固くして、佐為の腕を掴んだ。
佐為を見上げるヒカルの目が、不安そうに揺れた。
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