heat capacity2 1 - 5
(1)
ゆったりとした空間の浴室に勢い良く流れる水の音だけが響く。
俺は塔矢の家に来て真っ先に風呂に入った。
塔矢も一緒に入ればいいのに、そう言ったら、凄い目で俺を睨み付けた。あれって恥ずかしいのを誤魔化してるだけなんだよな。やる事やり始めたら人格変わる癖に。
あいついっつもそういう自分をひた隠しにするんだけどさ、解らない訳無いじゃん。俺、塔矢が思ってる程あいつの事に無関心じゃ無いんだから。
塔矢は知らないんだ。俺が塔矢を失ってしまう事をどれだけ怯えてるのか。俺がどれだけ塔矢を必要としているかなんて、絶対解る訳無い。
あいつは自分の一人車だって、さも自分がいつも追い詰められたような顏してるけどさ。冗談じゃねぇよ、いっつもギリギリの崖っぷちにいるのはこっちの方だ。
浴槽に浸かった瞬間には心地良かったはずの肩の高さまで張られたお湯は、時間が経つにつれ、俺の胸を圧迫するような、嫌な感じしかしなくなった。
伸び過ぎた前髪から雫がぽたりと落ちて、水面に静かな波紋を広げる。
静寂が耳に痛かった。
下着だけはコンビニで買ってきて、あとは塔矢に借りようと思っていたら、塔矢は浴衣を出してきた。つくづく感覚の違いを思い知らされる。まぁどうせ泊まりになるんだろうから、旅館の気分と思って着てみてもいいかと思った。
生成り地のこざっぱりとしたその浴衣は、袖を通してみると思っていたよりもしっくりと肌に馴染んだ。
洗ってからきっちりとアイロンを掛けていたんだろう、もしかしたら糊付もされてるのかも知れないその浴衣は何となく塔矢家の家風を漂わせている気がする。
清廉で、真直ぐな清々しさっていうのか。俺が塔矢家に感じる印象はそういうのだ。
意外だったのは、『家』は古い日本家屋を思わせるのに、『家庭』は割合前衛的な物の考え方で、早くも息子を自活させていたりする所。放任主義なようでベタベタに甘いうちの両親と対照的といえば対照的だ。
この家に初めて来た時はその厳めしい佇まいにほんの少し居心地の悪さを感じたけど、慣れると新鮮な感じがして好きになった。庭から漂ってくる草木や土の匂いも、好きだった。
シャワーがないのにはかなり驚いた。特に誰も言い出さなかったから、つける必要性を感じなかったとか。らしいっちゃ、らしいかな。質実剛健、塔矢ん家ってこんな表現が似合う気がする。
慣れない浴衣の帯は何度か直して、やっとなんとなくそれらしくなった。
(2)
俺が居間まで出ると、塔矢が冷たい麦茶を入れてくれて、入れ違いに浴室に向かった。
一気にお茶を飲み干すと、俺は先に塔矢の部屋へ向かう。
襖を開ける。相変わらず簡素と言うか、殺風景と言うか。よくも悪くも物がない部屋だなと思う。色々なものが雑然と並ぶ俺の部屋とは大違いだ。
ふと、碁盤に目が行った。
一瞬とも永遠とも感じられる時間。俺はただただその盤面に目が釘付けになった。
忘れない、忘れる訳がない。
佐為に、一手一手、教えてもらった石の並び。
見た瞬間に打った手順が思い出せるぐらい、自分の頭に焼き付いている、それ。
叫び出したくなった。
なんで。なんで今更怖がらなくちゃいけないんだ。
もう、佐為はいないのに。
残ってしまったのは佐為をちょこっとだけ残す事のできた俺だけで、塔矢はそれでいいと言ってくれたのに。
心臓が早鐘を打つ。手の震えが止らない。頭がぐらぐらする。
心の奥深い場所に霧散していたものが、集まる。
忘れる事は出来ない。けれど自分なりのけじめは付けたつもりだった。
でも、こんなに辛い。
辛い。
塔矢、どうして。
どうして今更こんな物見せるんだ、俺に。
俺が好きなのは『塔矢』なのに。
佐為はもう、関係無いんだって……そう、思い始めてたのに。
いつの間に塔矢が風呂から上がっていたのか気付かなかった。
「進藤?」
肩に置かれた手に酷く驚いてしまって。振向いて塔矢の顔を認めた、次の瞬間。俺は不覚にも泣きそうになった。
「……っ!? 進藤!」
俺を抑えようとする声。無理だ、止められない。絶対に譲らない。今塔矢が欲しいんだ。
俺は塔矢の上にのしかかると、もがくみたいにしてあいつにキスをした。
息も付けないようなそれが、俺には逆に新鮮な酸素の供給だった。
こんな方法でしか息が継げない。
水揚げされた魚みたいだった。
(3)
「……っ、……ん、ぁ……」
身体の中にあるモノが熱い。腹の中が煮えたぎってるみたいだ。
俺の腰が砕けた状態になると、今度は塔矢が下から突き上げてきた。
俺は声を抑えようともしないで、与えられるもの全部を飲み込んで感じた。
後ろに倒れそうになると、塔矢は俺の腕を掴んで引き寄せる。
俺はその力に任せたまま、あいつの上に倒れ込んだ。
全身の体重を預けていると、まるであいつが全ての主導権を握っているように感じられ
て、それが癪だったから、胸に手をついて身体を少しでも起こそうと思った。けれど、
肱が震えて駄目だった。
悔し紛れに、肩に爪を立てる。
そして、離す事の出来ない上半身を逆に密着させ、腰の動きに合わせて擦りあわせた。
「…ン……うん…っ」
仕掛けている側である俺の身体が熱く疼くのは少し厄介だったけど、感じているのは塔
矢だって同じだ。
完全に崩れてしまいそうな腕を必死に支えて、何度も何度も胸を擦り合わせる。
暫くすると俺の下にいる塔矢の乳首が俺の思惑通りに固く痼ってきた。
髪に掛かる熱い息も少し荒くなって、時に掠れた声が混じっている。
あいつもまた切羽詰まった状態になっているのかもしれない。
そう思うとすこしだけ胸がすいた。
(4)
気持ち良くて、気持ち良くて、それと同じ分辛い。
塔矢は俺が社を意識してるって言った。でも違う。社を意識してるのはあいつの方じゃ
ないか。
気付いてないだろうけど、あいつは自分が意識している相手の事程、頑に口を閉ざす。
気にしてない素振りをするんだ。けど、全身で意識してるって。そういうの誰が言わな
くったって解るんだよ。
社の方に心が傾いてるんじゃないかって危惧してるのは俺もだ。ううん、むしろ俺の方
が怖がってる。単なる不安なんかじゃない。あいつが社に惹かれる理由がハッキリと解
るから。
あいつは何も知らないで、言うんだ。『初めて逢った時の事が忘れられない』って。残
酷すぎるよ。あいつを惹き付けたのは俺じゃない、佐為の強さだって言われたようなも
んじゃないか。
何も───そう、何にも知らないから、純粋で素直で真直ぐな目で言うんだ、それを。
俺に取っては死刑宣告のようなものだって、知らずに。
でもそれは、俺が、俺一人で消化しなきゃいけない事だから我慢出来た。
例え、佐為がきっかけで知り合ったんだとしても、それは『きっかけ』に過ぎないんだっ
て。そう信じても良いんだろ? 今も佐為を追ってる訳じゃないって、俺は俺だって言っ
たよな。
だから、俺も溶けきれないそれを無理矢理だましだまし自分の中に混ぜ合わせた。
でも、碁の強さであいつを惹き付けたのなら、あいつが社に惹かれない保証がどこにある?
淫乱だって言われたって良いよ。俺は塔矢で満たされたいんだ。
繋がっていれば、塔矢は俺だけを求めてるんだってその一瞬だけでも感じられる。刹那
の快楽でもいいんだ。あいつが手に入るんだったら。
永遠なんてあり得ない。だからこの一瞬だけでも、体内の熱だけでも、俺は満たされる。
(5)
俺だって強いやつと打つのは楽しい。
でも、俺がここまでこれたのは佐為と、そしてなにより塔矢が居たからだ。
佐為が引き上げようとしてくれても、俺に塔矢と言う目標がなければ俺はここまで来ら
れなかった。そしてまた塔矢が居たとしても、佐為という師がいなかったら、きっと俺
は塔矢に追い付く事は出来なかった。
俺は塔矢が好きで、佐為も大好きで。塔矢に感じるものと佐為に感じる『好き』は異質
なものだったけど、どちらもかけがえがなく、秤に掛けられない大切な存在。
塔矢は俺を好きだといってくれるけど、それはもしかしたら佐為の事かも知れない。
そして、佐為はもういない。
塔矢が俺の中の佐為に惹かれて好きになったんだとしても、今となっては関係ない。
……そう思い込みたいだけかも知れないけど。
だってあいつは…塔矢は……、佐為はいなくなっちゃって、俺の碁の中にしか、残って
くれなかったけど、それでもいいんだって……。佐為もひっくるめて、『オレ』なんだっ
て……そう言ってくれたから、オレは嬉しくて嬉しくて。
好きだって言われた時も、ただ『自分』が求められる事が嬉しくて頷いた。
どんな理由でも良かったんだ、あいつが欲しかった。オレの事が必要なんだと言ってく
れるあいつが。
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