平安幻想秘聞録・第二章 1 - 5
(1)
墨と筆で書かれた達筆な字を見ながら、ヒカルは頭が痛くなりそうに
なった。墨色も鮮やかに書かれているのは、自分がいた時代と今の時代
との人物相関図だった。姓と名が一致しているのは佐為だけで、賀茂明
を筆頭に、和谷は助秀、伊角は輔信と、名字か名前のどちらかが変わっ
ている。
「これ、全部覚えるのは大変だよな」
元々ヒカルは他人の顔と名前を覚えるのは苦手なのだ。
「別に無理して覚える必要はないよ。顔を合わせることもないだろうし、
まだ体力の戻ってない、君の身体の方が心配だ」
そう答えたのは、この相関図を作ってくれた賀茂明本人だ。顔を合わ
せないと言ったのは、ヒカルがそう頼んだからだった。
「オレのことは近衛の知り合いには言わないで欲しいんだ」
ヒカルが無事、本来自分がいるべき世界に帰れたら、その人たちは再
び近衛光を失うことになる。どんなに似ていても、自分は光ではない。
例え一時でも光の振りをすることもできない。
「分かった。そうするよ」
君はそんなことは気にしなくてもいいから、帰れる方法も文献を当た
って探してるところだと、そのとき明は答えた。
「へへっ、サンキュ」
「その『さんきゅ』というのはどういう意味なんだい?」
「あっ、そっか。英語だもんな」
「英語?」
「日本じゃない国の言葉なんだよ。意味は、えーと『ありがとう』かな」
照れくささからぶっきらぼうに答えるヒカルに、明は思わず笑みを浮
かべる。こんなときの表情や言葉遣いも近衛光にそっくりだ。
「君の口から飛び出す話はどれも興味深いものばかりだな」
優しい表情を浮かべる明に、ヒカルはもう一人のアキラを思い出す。
(2)
そういや、何でこの前の夜は佐為に感じちゃったんだろうな。賀茂に
ならまだ分かるんだけどさ・・・そこまで考えて、ヒカルは頭を振った。
違う、違う。どんなに似てても賀茂と塔矢は違うんだ。
「どうかしたの?具合が悪いなら、少し眠った方がいいよ」
「そんなことねぇよ。でも、そうだな。ちょっと休ませて貰おうかな」
「分かった。佐為殿には人払いを頼んでおこう」
「うん、ありがとう」
ヒカルが大人しく床に就くのを見届けて、明は出て行った。衣擦れの
音が遠ざかるを聞きながら、ふぅとため息ともつかないものを吐き出す。
「塔矢・・・」
目を閉じればその面影が浮かぶ。この時代で再び佐為に会えたのは嬉
しかったが、このまま戻れなかったら・・・という不安もある。眠って
目が覚めたらただの夢かも知れない。ひょんなことで元の時代に戻れる
可能性だってある。ヒカルはなるべく悪い方に考えないようにしようと
自分に言い聞かせた。薄皮の上に纏ったような不安を全て拭い去ること
はできないとしても。
翌日。佐為が何やら難しい顔をしてヒカルの元にやって来た。眉を顰
めた佐為の表情が、悪いことの前触れのように見えて、思わず身構えて
しまう。そんなヒカルの様子に、佐為は慌てて口元に笑みを浮かべた。
「何かあったの?」
「いえ、あったというわけでは・・・」
「じゃあこれからあるんだ」
「そういうことになりますね」
たかが数日ですっかり馴れた感のある狩衣姿で、ヒカルは佐為に正面
から向き直った。
(3)
「今朝、藤原行洋さまから文が届きました」
「文?手紙のこと?」
「そうです」
「悪い知らせ、なんだろ?」
まさか怪しい話をぶちまけている自分をしょっ引いて来い!なんて書
いてあったんじゃ・・・先を言い淀んだヒカルに、佐為は首を横に振る。
「しょっ引けなどと書いてありません。ただ、光と話をしてみたいと」
「オレと?」
「私と明殿の話から、ある程度、光のことを信用していただけたみたい
ですが」
やっぱり疑ってるんだなと、ヒカルは思った。そりゃ、そうだよな。
オレだって自分のことじゃなかったら、こんな話は信じねぇもん。まし
てや塔矢先生だしなーと、変なところで納得しているヒカルだった。
「えーと、その、藤原行洋が・・・」
「せめて『さま』をつけてくれ、進藤」
「あっ、ごめん・・・って、賀茂、いつ来たんだよ?」
いつの間にやって来たのか、佐為の横に明が座っていた。佐為との話
に夢中になっていたにせよ、部屋に入る気配も感じさせないとは、さす
が稀代の陰陽師だけある。ヒカルの陰陽師に対するイメージは、ドラマ
や映画の影響もあって、少し、いやかなり脚色されたものになっていた。
「いつって、先程、声をかけてから部屋に入ったじゃないか」
「ご、ごめん」
「まぁまぁ明殿も怒らないで。それで、光、何を言いかけたのですか?」
「あー、そうだ。藤原行洋・・・さまが、ここに来るの?」
「さすがにこの屋敷に来ていただくことは憚れますから」
理由は言わなかったが、それでなくとも佐為は藤原行洋の息がかかっ
ていると内裏では評判なのだ。ただ静かに囲碁指南を全うしたいだけの
佐為にとっては、貴族同士の確執は煩わしいところもある。それでいて、
今回は行洋を頼ってしまっているジレンマもあるのだが。
(4)
「では、藤原さまのお屋敷に?」
「いえ、藤原さまだけではなく、緒方通匡さまもお会いしたいそうです
から、内裏に赴くことになりそうです」
「内裏って、帝のいるところだろ?」
「えぇ、宮中です」
今で言えば、国会議事堂で大臣に会えと言われているようなものだ。
大胆不敵なところのあるヒカルでもさすがに背中がぴきーんと緊張する
のが分かった。おまけに、緒方通匡というのは、あの緒方だろう。いろ
いろと世話になっているわりには、saiの一件もあってどうも緒方が
苦手なヒカルだ。
「それって、いつ?」
「それが、今日にでもと」
「今日〜!?」
先程、文が届いたと言っていたのに、やけに急な話ではないか。
「今日は、昼から内裏で帝が宴が開かれることになっているのです。人
の出入りも多いですから、それに紛れてこっそりとやって来いと」
正面切って堂々と参内、というわけにはいかないらしい。
「人が多いとかえって見つかったりしない?」
「表はね。警備の者に話を通して、裏門から来いということでは?」
「その通りです。それに、内裏にいるところを誰かに見られても、宴に
招かれたと言えば、見咎められることはありませんから」
ヒカルの顔を晒すわけにはいかないだけに、面倒なこともある。
「ごめんな、いろいろと」
「光、これくらいどうということはありませんよ。牛車を用意させます
から、それに乗って行けばいいだけのことです。大丈夫ですよ」
にっこりと微笑む佐為に、ヒカルも弱いながらも笑みを返す。
「うん・・・」
「では、話がまとまったところで、昼餉にしましょうか?(笑)」
(5)
牛の引く車。読んで字のごとくの乗り物がこんなに揺れるものだとは
思わなかった。乗り慣れている佐為はともかく、ヒカルは大きく弾む度
に牛車が壊れるのではないかとびくびくしていた。それでも何とか内裏
に辿り着き、外郭門の一つ、建春門を潜ることができた。
宴の客である貴族たちが使うのは南側にある建礼門で、この建春門は
東側にあるため、今は人通りもなくひっそりとしていた。
「大丈夫ですか、光?」
「あー、思ったより平気みたい」
牛車から踏み出したヒカルの足取りは意外にもしっかりとしている。
昔から乗り物酔いをする体質ではなかったからかも知れない。
藤原行洋からの手回しだろう、佐為の姿を見た衛士は、目の前にある
大きな宣陽門を避け、南側にある延政門へと案内してくれた。
「さぁ、光、こちらですよ」
ヒカルにはでっかい日本家屋が立ち並んでるように見えるだけで、ど
っちに何があるのかさっぱり分からない。後はもうひたすら佐為の後ろ
を着いていくだけだ。顔を見られないよう袿(うちぎ)を被き(かずき)
にしたヒカルはある意味目立っていたが、贅沢も言っていられない。
ちなみにヒカルは帯剣もしている。刀を振り回したこともない者が形
だけで持ち歩くのは危なくはないかと明に揶揄されたのだが、せっかく
だから刀を差してみたいというのか、差してないと落ち着かないという
のか、とにかく押し切って来てしまったのだ。
「光、着きましたよ」
そうこうしているうちに、どこかの部屋に通され、袿を取るように言
われた。
「久しぶりだな。佐為殿と、近衛くんではなく、進藤くんと言うのだっ
たな?」
そこには、緒方通匡が座して二人を待っていた。うわー、緒方先生だ!
というのがヒカルの率直な感想だった。
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