平安幻想秘聞録・第三章 1 - 5
(1)
それから数日は、取り立てて何もない日が続いた。
あの夜の目的であった、藤原行洋との会見も、先送りになったままだ。
行洋が忙しい身であることに加えて、義理の息子である佐為自身の大事
ならともかく、行洋にとってはヒカルのことは二の次、三の次なのだ。
明は純粋にヒカルを気にしてくれているらしいが、彼もまた乱れる都
を守る責務があり、そうそう佐為の屋敷に足を運ぶこともままならない。
つまり、何の進展もない代わりに、慌てふためくような事件もなく、
ヒカルの周りは平穏だった。
あえて言うなら、佐為の危惧した通り、東宮の使いが屋敷へと訪れて
いた。もちろん、表向きは今で言う警察長官、検非違使別当からの使い
になってはいるが、やんごとなきあたりからの意図なり圧力なりが働い
ているのは疑いようもない。
ただ、しつこく食い下がったその使者も、佐為にやんわりと一蹴され
て以来、姿を見せていない。
「これで諦めてくれたのなら、いいのですけれど。しばらくは、用心し
ましょう」
その佐為は、今日はどこかの貴族の宴に呼ばれているらしく、日が落
ちる前に出かけている。皮肉なことに、帝の囲碁指南役となってからと
いうもの、このような華やかな席への誘いが増えているそうだ。
傍系とはいえ藤原氏、しかも帝の覚えもめでたく、美麗な容姿の佐為
を貴族たちはこぞって招きたがっている。
ヒカルたちプロ棋士も、対局の他に、囲碁の普及のためのイベントや
指導碁に駆り出されたり、囲碁とは全く関係のない後援会やスポンサー
の開く席に顔を出さなくてはならないこともある。が、佐為たちにとっ
て有力貴族との関わりはもっとシビアだろう。佐為には藤原行洋という
後ろ盾がいるからいいものの、その彼だって、周り中を敵に回してまで
佐為を保護してくれるか分からない。
(2)
八方美人に振る舞うのは辛いだろうが、佐為の愛する碁を打ち続ける
ためには、それも仕方ないのだ。
あいつ、そういうとこ、不器用だからな。大丈夫かな。
つい、年下の自分が保護者のような気持ちになってしまうのは、一緒
に過ごした二年半とたぶらせてしまうせいかも知れない。
ふと、佐為と打った棋譜を並べていた手を止めて、ヒカルはふぅと息
をついた。
その佐為に、すがりついてあんなこと、しちゃってるんだよな。
佐為を見ているだけで、身体の奥に火が灯ることがある。ヒカルが隠
そうとしても、佐為にはすぐに分かってしまうらしく、思い出したよう
に逢瀬は続いていた。別に佐為と肌を合わせるのは嫌ではない、いや、
むしろ、触れたくて触れたくてたまらなかった相手と抱き合えることに、
幸せさえ感じる。ただ、その理由が分からないのが、不安なだけだ。
そのとき、部屋の外から、若い女の声が聞こえて来た。
「光の君」
えっ、えっ、光の君ってオレのこと?焦りながらも、ヒカルはそちら
に向かって返事を返す。
「誰?」
「女房の三条でございます。お飲物をお持ちしました」
「あっ、いいよ、入って」
「失礼致します」
すっと襖が開き、まだ若い、たぶん、ヒカルと同い年くらいの女房が
入って来た。ヒカルは見たことのない顔だった。
「碁をされていらしたのですか?お邪魔をして申し訳ありません」
「ううん。ちょうど喉が渇いたところだったから」
受け取った杯からは、ほんのりといい匂いがする。てっきりお茶か白
湯だと思っていたが、違ったらしい。
(3)
あれっ、これ、酒じゃん。いいのかなぁ。平安時代じゃ、十五で元服。
つまり大人の仲間入りをするんだっけ。だったら、いいか。後で塔矢に
話したら、不良とか言われそうだな。あいつ、硬いからな。
思わず口元を綻ばしたヒカルに、三条がにっこりと笑みを返す。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
「ん、ありがとう」
呑むと身体が熱くなりふわふわといい気持ちになってくる。口当たり
がいいらしく、酒に馴れていないヒカルでもおいしいと感じられた。
「いかがですか?」
「ん、おいしいな」
「お口に合ってよろしゅうございました。では、もう少しお呑みになら
れてはいかがですか?」
「うん、貰うよ」
勧められるままに飲み過ぎたらしい。三条が退いた後、急激な眠気に
誘われてヒカルは夜具の上に、身体を折った。このまま寝たら、風邪を
引くかなと心配したのは一瞬で、すぐに意識が遠くなった。
それから、何時(なんとき)くらいが経っただろう。すっかり寝入っ
てしまったヒカルの部屋の前で、低く潜められた声が聞こえたかと思う
と、すべるように襖が開き、二つの影が中に入って来た。
一度消えたはずの灯台にまた火が入り、部屋の中がぼうっとその灯り
に照らし出される。
「それでは、私は、渡殿(渡り廊下)の先におりますので」
「分かった。頼むぞ」
一人が去り、一人が残った。身を屈めたその人物は、確かめるように
ヒカルを顔を覗き込み、頬にかかった柔らかい髪を払った。
何?何かが触れてる。佐為・・・?
(4)
翌朝、せっかく朝市で仕入れた上がったばかりの魚が並んだ朝餉の席
だというのに、佐為の表情は険しかった。その機嫌の悪さは、正面に座
したヒカルが音を立てて汁物をすするのも憚れたほどだった。
「佐為、あのさ。その眉間にシワを寄せるのは、やめといた方がいいぞ」
「あぁ、すみません」
そこでいったんは笑顔を作る佐為だが、ほんの数分も持たない。昨日
の夜からずっとこうなのだ。ヒカルは思わずため息をつきたくなった。
「えーと、佐為さ。とりあえず何もなかったんだし、そんな顔するなよ」
「確かに昨夜は何もありませんでしたが、これからも何も起こらないと
は言い切れませんから」
こと囲碁に関して以外は、どこか解脱している感がある佐為が、ここ
まで気分を害しているのにわけがあった。
もう夜も更けましたからと、退出を匂わす度に、宴の主催者である女
主に何やかやと理由をつけられて引き止められた。普通、帰るという者
を無理に留めるのは粋でないとさせるものなのだ。
嫌な予感がした佐為は、最後の手段とばかり仮病を使って宴をやっと
抜け出し、屋敷に戻って来ると、裏門に見慣れぬ網代車が置かれている
上に、二人いた門番が前後不覚に陥っていた。
これは何かただならぬことと、ヒカルの寝室のある東の対屋(たいの
や)に急いでみれば、小袖を半分はだけかけられたヒカルの姿があった。
その上にのし掛かる男らしき影に、武芸の心得もない佐為が腰を抜かさ
なかったのも、ひとえに我が身よりヒカルの身を案じたからだ。
男と対峙した佐為は、ただ一言こう言い放った。
「今宵は月も出ておりませぬゆえ、向かう先を間違えることもありまし
ょう。私は何も見なかったことに致しましょう。すぐにここより立ち去
られてはいかが?」
(5)
これを聞いて、男はヒカルを名残惜しそうに見つめながらも、何も言
わずに立ち去った。
「佐為、かっこ良かったな。オレ、見直しちゃったよ」
「すぐに相手が誰が分かったからですよ。あの方が私に危害を加えると
は思えませんでしたから」
ほっとした佐為が自分をひしっと抱き締めたとき、ヒカルは既に意識
が戻っていた。ただ、身体が思うように動かず、逃げることも抗うこと
もできなかっただけだ。
自分に触れているのが佐為ではないと、ヒカルにはすぐに分かった。
触れ合う肌の感触に違和感を覚えたせいもあったが、衣に焚きしめた香
の匂いが違っていたからだ。
佐為には佐為の、明には明の、それぞれ好む香りがあることに、ここ
数週間でヒカルも気がついていた。現代のように気軽にシャワーや風呂
に入り、衣を洗濯することができない平安の世では、臭い消しの役目も
兼ねて、折々の季節に合わせた香を焚きしめるのは貴族の嗜みのような
ものだった。
「あれ、やっぱり東宮だったんだ」
「おそらく・・・」
佐為もはっきりとは顔を見ていないし、直衣も普段見慣れた黄丹では
なかったが、背格好といい立ち振る舞いといい、まず間違いないだろう。
男に夜這いを駆けられるとは、ヒカルにとっては踏んだり蹴ったりと
いう程度のことだが、佐為は別に心配ごとがあった。
それは、東宮にヒカルが佐為の元にいる事実を知られており、他にも
彼の息のかかった者が屋敷内に紛れ込んでいる可能性があることだった。
「あのさ、そういや、昨夜の女房って、どうなったの?」
ヒカルや門番に一服盛って、眠らせた女房のことだ。
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