平安幻想秘聞録・第四章 1 - 5
(1)
内裏に女房として勤めるあかりには、毎晩欠かさず行うことがある。
それは、幼馴染みの近衛光の無事を四神に祈ることだ。
検非違使である光の行方知れずになって一年と半年。一度も欠かした
ことはない。どんなに体調が悪いときでも、必ずその日の良い方角に向
けて光の一日でも早い帰還を祈った。
名のない下賤な少女を助けるために自分の身を犠牲にするなど愚かな
ことと、陰口を叩く者もいたが、あかりはそうは思わなかった。むしろ
それは優しく正義感の強い光らしい行いだと思えた。もしも、その少女
を見捨てることになったら、光にとってはその方が辛い。何を綺麗事を
と言われても、それがあかりの知る近衛光だ。
「あかりの君、私よ、入ってもいいかしら?」
「奈瀬の君?えぇ、どうぞ」
同僚で仲の良い友達でもある奈瀬が、こんな朝早くからあかりの私室
にやって来るのは珍しい。何かあったのだろうか。
「失礼するわね」
「どうかしたの?奈瀬の君」
あかりの前に座した奈瀬は、どこか落ち着きがなく、逸る気持ちを抑
えているようにも見えた。
「あかりの君は、以前私たちと囲碁対局をした東宮様お着きの女房を覚
えているかしら?」
「えぇ。日高の君でしょ?」
もう遠い昔のような気もするが、あかり、奈瀬、それに歌人としても
名高い金子の君の助太刀をして貰い、囲碁勝負で日高たちと相見えた。
佐為にみっちり特訓をして貰ったお陰で勝負自体はあかりたちが勝ちを
納めたが、それで相手の態度が変わったかと言えばそうでもなかった。
(2)
あの頃はまだ光も内裏に出入りをしていて、朝な夕なに顔を合わせる
こともあったのだ。ふとその頃を思い出して、思考の海に落ちかけるの
を奈瀬の声が引き留める。
「さっき、その日高の君たちに呼び止められたの」
「日高の君に?」
珍しいこともあるものだ。佐為と菅原顕忠、引いては藤原行洋と座間
長房の威信をかけての対局は、絵巻物に書かれるような互いの友情を深
めるなどという効果は持ち合わせていなかった。
今でこそ顕忠は佐為との御前試合に敗れ、指南役の座を辞してはいる
が、座間の庇護の元、内裏内で小さくはない影響力を残している。
何にしても、日高たちと奈瀬が仲が良いわけでないのは確かだ。例え
互いに干渉し合わないことで、表面上はうまくやっていたとしてもだ。
「何か用事があったの?」
「えぇ。近衛のことで訊きたいことがあると言われたの」
「光のこと?」
どうして?という疑問と、光の行方が知れたのではないかという期待
がない交ぜになってあかりの心を揺さぶる。
「何を訊かれたの?」
「近衛は、どんなものが好きかって」
「えっ?光が好きなもの?」
光が好きなものと言えば、食べ物全般だが、どうしてそんなことを知
りたがるのだろう。
「私も訊いたの、なぜ知りたいのかって。そしたら・・・」
奈瀬があかりの手をきゅっと握る。あかりはただ黙って続きを待った。
「東宮様が、近衛がどんなものを贈れば喜ぶか、お知りになりたいって」
(3)
「それって、それってどうゆう・・・」
意味なの?そうに聞き返したいのに、すぐに次の言葉が出て来ない。
もし、自分が期待しているのとは違う答えが返って来たら。そう思うと、
何かが喉元に引っかかり、あかりの声を封じてしまった。
そんなあかりの気持ちを察したのか、奈瀬はもう一度重ねた手に力を
込め、少し微笑みながらこう言った。
「近衛は、ついこの間から、佐為様の護衛で参内してるそうよ」
さわさわと音を立て、心地の良い風があかりの中を通り過ぎる。人は
あまりにも喜びが大きいときにも、茫然自失になるものだと、身を以て
知った。奈瀬に告げられた言葉の意味を租借し、それがあかりの身とな
るまで、短くはない時間が必要だった。
「ほんとに?本当に、光なの?」
「えぇ。私もすぐには信じられなくて、日高の君に近衛光に間違いない
のかって、何度も確かめたもの」
嬉しそうに頷く奈瀬に、あかりも目を潤ませたまま笑顔になる。
「良かった。光・・・」
やっと立って歩けるようになったばかりの幼い頃からの筒井筒の少年。
奈瀬や津田には恋文の一つでも貰ったの?と、からかわれることもあっ
たが、むしろ光とは姉弟のような気安さがあり、恋愛感情は二の次、三
の次だった。それだけに、本当の肉親を亡くしたような喪失感があかり
の中にあった。その光が、見つかったという。
「でも、どうして私のところに知らせが来なかったのかしら」
藤崎家と近衛家は塀を隔てて、敷地が隣り合っている。これ以上のお
隣さんはないだろう。近衛の家にもたらされた吉報は、自然と藤崎の家
にも伝わり、両親や姉からあかりに文の一つでも届いても良さそうなも
のだ。
(4)
「それは、私にも分からないわ。近衛に確かめれば済むことでしょう?」
「光はここに来てるの?」
「えぇ、近衛は今日も参内してるらしいわ。昼餉の時間前に、東宮様の
お部屋を退室するはずよ」
一方、こちらは表向きは佐為の護衛として、東宮御所に日参している
ヒカルの胸中は穏やかではなかった。
佐為からの指導碁を受けながらも、東宮がこちらの様子を何かと気に
しているのが分かる。指導碁が終わった後、検討に加わるように端近に
招かれたり、ヒカルの分の白湯と菓子まで用意されている。
菓子とは言ってもこの時代のことだ、木の樹液から摂った甘葛(あま
づら)という甘味料で栗などを煮たものや干した果物などだった。甘葛
を摂るにも手間暇がかかるらしく、高価なものであるらしい。
もちろん、側に控える多くの随身にはそんなものは出されない。その
彼らよりはるかに身分の低いはずのヒカルがこうして東宮の部屋で客の
ようにもてなされるのは、破格の扱いだった。
また、退出近くになると、珍しい漢詩の本や豪華な装飾を施された飾
太刀が披露された。どれも貴重なものであることは分かったが、ヒカル
にとっては猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏・・・最後の一つは若干
意味が違うが、まぁ、そういうことだ。
これには、さすがに佐為も東宮さまも甲斐のないことですねと、額に
手をやっていた。
「甲斐がないって?」
「光が喜ぶものをと、思っていらっしゃるようですよ」
(5)
そうは言われても、難しい漢字の並んだ本は読めないし、豪奢な太刀
は触ると壊れそうで怖い。それでも、有り難いものを拝見させていただ
きと、明に仕込まれた口上だけは返すようにしている。
いくら尊い御身とはいえ、まったく知らない相手ならここまでヒカル
が気を遣うこともない。が、顔見知り、しかも少なからず恩のある相手
なだけに、邪険にできない。
その恩人のことをすっかり忘れてたのかと突っ込まれれば、それまで
だが。あの夜は部屋が暗かった上に、トレードマークと言ってもいいも
のが乗っていなかったせいで、すぐには分からなかったのだ。
にしても、この部屋にいるだけで緊張する。この頃は、東宮だけでは
なく、随身たちからの視線も俄に痛くなって来た。身分違いも甚だしい
とでも陰口を叩かれているんだろうな。ヒカル自身はそう思っていたが、
実際の彼らが送って来る視線の意味合いは、微妙に違っていた。
「東宮さまは、本日は午後から公務があるゆえ、佐為殿にはここで退出
をお願い致します」
「はい、そのように致します、それでは、失礼します」
今日は珍しくこれでお役ご免らしい。ヒカルは密かに胸を撫で下ろし、
その解放感から入り口の御簾を巻き上げてくれた随身の一人に、満面の
笑みを返してしまった。
「ありがとう・・・じゃないや、恐れ入ります」
ぺこりと頭を下げ、ヒカルが佐為の後をついて退出した後、既に主の
いなくなった部屋でどんな騒ぎが起こったか、ヒカルが知らなかったの
は幸いだろう。
用意されている昼餉を摂るために、女房に案内され、承香殿へと廊下
を渡る。佐為がふと美しい眉を曇らせてヒカルを見た。
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