平安幻想秘聞録・序章 1 - 5


(1)
 あっと思った次の瞬間には水の中にいた。千年も昔、佐為の身を飲み
込んだだろう水は冷たかったはずだ。だが、ヒカルを包む水はまだ暖か
かった。ヒカルは昔から運動が得意で、囲碁を始めるまでは夏はプール
で真っ黒になるまで泳いでいたものだった。水深も深くなく流れてもい。
ない。水着姿か、百歩譲って素っ裸であったら泳げた。だが、そのとき
ヒカルが着ていた服は、運の悪いことにウールのセーターとGパンで、
背中にはお気に入りのデイバッグを背負っていた。すぐに水を含んだ服
が重くなり、ヒカルの身体の動きを封じる。
 温い水はまるで羊水のようで、不思議と苦しいという感覚はなかった。
自分で飛び込んだわけではないのに、まぁいいかという、前向きな諦め
の気持ちまで浮かんで来て、ヒカルは藻掻くのを止めた。

*-*-*

 眠りと覚醒の間をゆらゆらと漂う、心地のいい感触。柔らかく暖かい
布団に包まれて、ヒカルはうっすらと瞼を瞬かせた。
「・・・光!光!!」
 懐かしい、声がする。二年の間、毎日のように聞いていた声。あぁ、
違う、佐為の声は耳で聞いていたんじゃない。心で聴いてたんだ。碁を
打ったり、学校に行ったり、街に出かけたり。ヒカルにとっては当たり
前のものも佐為には珍しいばかりらしく、あれは何です?どうなってる
んです?と、驚きの声を上げてはヒカルを困らせた。そんな些細なこと
がとても楽しかったと今なら思える。なのに、どうして佐為が最後に自
分に必死に訴えかけた言葉を無視してしまったんだろう。佐為の声を、
想いを受け取めてやれるのは自分しかいなかったのに・・・。
 ごめん、佐為・・・。込み上げる想いに涙が溢れた瞬間、はっきりと
目が覚めた。


(2)
「光、気がついたのですか!?」
 目の前でゆらゆらと揺れる、長くて綺麗な黒髪。佐為を思い出すとき
にいつも浮かぶのは白い衣だったのに、必死の形相で自分の手を握って
る佐為は、表は薄い紫、裏は緑(青)の狩衣を纏っている。
 あれ、何で、佐為に触られてる感覚があるんだ?ヒカルはぼんやりと
佐為の顔を見つめる。確かに佐為だ。でも、触れるし、何だかいい香り
もする。
 あっ、そっか。オレも死んじゃって、佐為のいるところに来ちゃったの
かなぁ。あの世なんてあるのかどうか分からなかったけど、こうやって
佐為に会えたんなら、やっぱあるのかな。
「佐為・・・?」
「あぁ、光。良かった」
 心から安堵の表情を浮かべる佐為に、ヒカルは口の端を上げて笑って
見せる。懐から取り出した懐紙でヒカルの涙を拭ってくれる佐為の目に
も濡れている。
「お前も、泣いてるじゃん」
「それは泣きもしますよ。川端で見つかってから光は三日も意識がなか
ったのですよ」
「川・・・?」
 ヒカルが落ちたのは川じゃないはずだ。それに、死んでるのに意識が
なかったっていうのも変な話だ。とはいえ、あの世の決まりごとなんて
とんと分からないヒカルは、ただ、ごめん、心配かけてと謝った。
「いいえ。私はずっと光は生きてると思って、待っていましたから」
「生きてる?オレ、生きてるの?」
「当たり前ですよ、光」
 じゃあ、何で佐為に触れるんだ?それに、ここは・・・どこだ?
「佐為殿、失礼します。近衛の様子はいかがですか?」


(3)
「近衛・・・。良かった。気がついたのか?」
 襖の音も静かに部屋に入って来た人物を見て、ヒカルは思わず飛び起
きるくらいに驚いた。
「と、塔矢、お前、何て恰好してるんだよ!?」
 頑固なまでに真っ直ぐストレートなおかっぱ頭は変わらないが、問題
は服装の方にあった。狩衣に袴に烏帽子、妙に嵌まりきってる平安調な
姿に、ヒカルの頭にはコスプレという単語が点滅する。
 あの塔矢がコスプレだなんて、世も末だよ・・・。
 思わずとほほと言いながら布団に突っ伏したヒカルを覗き込みながら
アキラが首を傾げた。
「塔矢?誰のことを言ってるんだ、近衛?」
「誰って、お前、塔矢アキラだろ?」
「確かに僕の名は明だが、姓が違う。僕は賀茂明だ」
「賀茂?」
「そうだ。まさか、僕のことを忘れてしまったのか、近衛!」
 語尾にお得意のふざけるな!がガン!という擬音つきで振って来そう
な予感がして、ヒカルは首を竦める。普段は物静かなくせに、激昂する
と怖いのが塔矢アキラだ。本人が賀茂と言おうが何と言おうが、この迫
力は塔矢に間違いない。
「明殿、落ち着いて下さい。光もまだ目が覚めたばかりで、意識がはっ
きりとしていないのですよ」
「それは、そう、ですが・・・」
 ヒカルが佐為の屋敷に運び込まれてからというもの、陰陽師の仕事の
傍ら佐為の屋敷に日参し、心配の余り心を千々に砕いていたというのに、
名前を間違えるなどと、あんまりな仕打ちではないか。目を開いている
ヒカルを見た瞬間の安堵の気持ちも、今ので粉砕されてしまいそうだ。
 一方のヒカルは、何で佐為と塔矢が会話できるんだという、初歩的な
疑問にはぶち当たらず、とりあえずアキラよりは話の通りそうな佐為に
訊ねてみることにした。


(4)
「なぁ、佐為。さっき、オレ、三日も意識不明だって言ってたよな?」
「そうですよ。ただ眠っているだけなので薬師も手の施しようがないと。
ただ光を見ていることしかできず、後はもう、神仏に祈るばかりでした」
 そのときのことを思い出したのか、佐為がその綺麗な顔を曇らせる。
「薬師って医者のこと?そういえば、何でうちでも病院でもないんだ?」
 よくよく見回して見れば、ヒカル一人が寝ているのにはもったいない
ような広い部屋だ。板張りの壁に畳、ヒカルにはあまり馴染みのない布
切れ(天幕)が覆い、何やら花の絵の書かれた衝立(几帳)が置かれて
いる。ヒカルには見覚えのない場所だった。ちらりとあの日泊まるはず
の旅館のことを思い浮かべたが、それにしても変だ。
「君の家にも連絡は入れようと思ったけれど、目を覚ますまで待った
方がいいと思ってね」
「どうして?」
 一人息子が三日も寝たきりなんて、お父さんやお母さん、それにじー
ちゃんだって心配してるだろう。
「それは、君が行方不明になってから、二年が経ってるからだよ」
「二年!?」
「そう。氾濫した川で流されて、それっきり見つからなかったんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。オレ、川なんかに落ちてねぇよ」
「でも、光。あなたは確かに・・・」
「そうだ。近衛、しっかりしろ」
「あのさぁ。さっきから気になってたんだけど、その近衛って、オレの
こと?」
 自分を指差すヒカルに、佐為と明は思わず顔を見合わせる。
「君の名前は近衛光だろう?」
「違うよ。オレは進藤ヒカル。近衛じゃない!」
 さっきの明と同じように答えながら、ヒカルは頭を抱えた。道理で話
がまったく合わないはずだ。


(5)
 うんうん唸るヒカルを佐為たちが心配そうに見ている。どこか痛いの
ですか?と問われても、パニックって答えられそうにもない。
「あのさ、オレっていうか、近衛が行方不明になったとき、年はいくつ
だった?」
「年って年齢のことかい?だったら、十四だよ。だから今は」
「十六か。この時代じゃ、確かお正月が来ると、皆一斉に一つずつ年を
取るんだったよな?」
 昔、佐為に誕生日を訊いたときに、そう教えられたことを思い出す。
「そうだよ」
「今って何月?」
「神無月ですよ」
 神無月っていうのは十月だったよなー。これも佐為からの知識だ。
「じゃあ、ほんとに近衛ってヤツは十四歳で、今のオレと同じ年か」
 計算が合ってるじゃないか。あんまり考えたくない話だが、これが夢
じゃないとすると、思いつくことはたった一つ。
 幽霊である佐為を割りとすんなりと受け入れた実績を持つヒカルは、
超常現象に対してあまり疑いを持たない。本当にありがちだが、タイム
スリップという言葉がヒカルの頭の中を過って行った。



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