sai包囲網・緒方編 1 - 5
(1)
緒方精次はおもしろくなかった。
2年前の夏、当時まだプロではなかったとはいえ、あの塔矢アキラが
ネット碁で軽く手玉に取られるのを見たときから、saiに興味が湧い
ていた。とはいえ、それ以降、saiは表には現れず、半ば忘れかけて
いたところに、衝撃とも言える塔矢名人との対局。誰に見せても名局と
唸るに違いない。
逸る気持ちを抑えて訪ねた塔矢名人の病室には、進藤ヒカルがいた。
そして、ヒカルの口から零れ落ちたsaiの名。気がつけば、まだ子供
と言っていい年の少年を壁に押しつけ、こう怒鳴っていた。
「知ってるんだなsaiを!知ってるんならオレにも打たせろっ」
怯えたようなヒカルの表情。細い華奢な身体は片手で押さえつけただ
けで簡単に動きを封じることができた。間近で見たヒカルの長い睫毛の
先が微かに揺れている。
「し・・・知らないっ。知りません!オレはただsaiと塔矢先生との
ネット碁を、た、たまたま見ていただけで・・・」
そう震える声で答えられ、益々疑念が高まった。あともう少しで聞き
出せたかも知れないというところに、タイミング悪くアキラが現れた。
その一瞬の隙をつき、ヒカルはエレベーターの中へと逃れてしまった。
進藤ヒカルと謎のネットの棋士saiの関係。
当のヒカルには知らないと逃げられ、塔矢名人にはやんわりと否定さ
れた。頼みの綱はヒカルを追って行ったアキラだったが、
「進藤とsaiは何の関係もないそうですよ」
と、とりつく島もない。
(2)
「アキラくん。名人の病室で確かに進藤はsaiの名を口にしていたよ」
「進藤はお父さんとsaiとの一局を見ていただけです。saiの名前
を知っていたから怪しいというのなら、緒方さんやボクも怪しいというこ
とになりますよ」
言われてみれば確かにそうだ。
「緒方さん。とにかく、これ以上進藤に問い詰めるようなことはしない
で下さい。それでなくても進藤は、ずいぶん緒方さんを怖がっていまし
たから」
「怖がる?」
「ご自分と進藤の体格差を考えてみれば、お分かりになるでしょう?」
これには、さすがの緒方も沈黙せざるを得なかった。
進藤ヒカルがまだランドセルを背負った小学生の頃、路上で見かけた
彼を思わず拉致同然に名人の碁会所に引き込んだことがあった。今思え
ば見知らぬ大人にいきなり腕を掴まれて、さぞ怖かったことだろう。
だが、しかしとも思う。
その罪滅ぼしというわけでは決してないが、ヒカルが院生試験を受け
られるように便宜を図ってやったのも、覇気のなくなったアキラの起爆
剤となるように、ヒカルの姿を見る機会を作ってやったのも自分だ。
その恩も忘れやがってと緒方が思ったとしても、大人げないと責めて
はいけないだろう。
あの日以来、アキラはずいぶんとヒカルと仲良くなっているようだ。
何度か塔矢家にヒカルが遊びに来たことも、明子夫人の口から聞いた。
今まで同年代の友達をアキラが家に呼ぶことがなかっただけに、夫人は
素直にヒカルの訪問を喜んでいるようだ。ヒカルは礼儀知らずで傍若無
人なところもあるが、それすらも子供らしい無邪気さに見えて、大人受
けは悪くない。緒方自身も多少ヒカルが生意気な口を聞いても、進藤だ
から仕方ないなと受け流していたのだ。あの日までは・・・。
そんなもやもやしたまま気持ちが晴れずにいた緒方に、願ってもない
チャンスが巡って来た。
(3)
恋人である進藤ヒカルから一泊二日のセミナーで緒方と一緒になると
聞かされ、アキラはひどく不安を覚えた。思わずボクが代わりに行こ
うかとまで切り出しそうになる。
「大丈夫だって、緒方先生と二人きりってわけじゃないんだしさ」
そう言うヒカルだが、実は自分よりも不安がってるのが見て取れて、
アキラは端正な顔を顰めた。
「でも・・・」
「緒方先生は公開対局があって忙しいと思うし、オレにかまってる暇なん
てないと思うよ」
「そうだね」
ここでアキラが何を言ってもヒカルを不安がらせるだけだ。見た目は
元気いっぱいなヒカルだが、ときどきあらぬ方向を見上げたまま考え込
むような表情をしていることもある。そんなときの彼は、ぎゅっと抱き
締めてその存在を確かめてみたくなるほど、危うい感じがした。
「進藤・・・」
「塔矢?」
小さなヒカルの頬を両手で挟み込むようにしてキスを贈る。
「ん・・・」
「ん、ふ・・・」
忍び込んで来る舌先に、おずおずとだがヒカルもキスを返す。
佐為が見てるのに恥ずかしいなと思ったのは、最初の何度かだけで、
今はすっかり馴れてしまった。さすがに二年以上も佐為と同居していた
わけではない。一々恥ずかしがっていたのでは、トイレにも風呂にも行け
なくなってしまう。佐為を蔑ろにしているわけではなく、ヒカルにでき
る唯一の自己防衛だった。
それに、これから先、佐為とはずっと一緒に生きていくんだもんな。
(4)
アキラには強がって見せたものの、ヒカルもやはり不安だった。
病院で、自分に迫った緒方の剣幕はすごいものだった。今までアキラ
にさえバレなければと思っていたが、そうは簡単にいかないようだ。
それにここのところ佐為の様子が変だ。幽霊だというのに喜怒哀楽が
激しいのは以前からだが、最近は酷く情緒不安定だった。
いったいいつからだろうと振り返ってみると、塔矢名人との一局の頃
だと思い当たった。念願の名人との対局が叶ったというのに、何が不満
だっていうんだ。
『もうすぐ私は、消えるんです!』
おまけに祖父の蔵の中ではこんなことを言い出す始末で、ヒカルは思
わずため息をつきたくなる。幽霊とはいえ千年も過ごした佐為が消える
なんて考えもつかない。佐為は自分の寿命が費えたらまたどこかの碁盤
に眠って四人目を待つ。虎次郎(秀策)の時代とは違って、今の日本人
は長寿だから、それすらもっとずっと先の話。ヒカルはそう思っていた。
『佐為、お前が落ち込んでると、オレまで気が滅入って来るんだからな』
『・・・』
佐為と会ったばかりの頃は、佐為の感情がダイレクトに伝わってその
激しさに小学生のヒカルは耐えられず嘔吐までしてしまったものだが、
ヒカル自身が馴れたのかそれとも佐為が感情をセーブできるようになっ
たのか、以前ほど佐為に左右されなくなった。
それが、いいことばかりではないことにヒカルが気がつくのは、もっと
先になる。
「塔矢に土産でも買って行ってやろっかなー」
そう思うと、初めての泊まりでの指導碁に、ヒカルは緒方からの追求
に不安を感じながらも、少しだけ気持ちが暖かくなるのだった。
(5)
「緒方先生、やめて!緒方、先生っ!!」
追い詰められたヒカルの叫び声が浴室に響き渡り、すぐに大きな手で
口を押さえられた。んっ、うんっとしか声が出なくなっても、ヒカルは
頭を振ることによって緒方に拒否を示す。
大浴場に比べれば狭い浴室の中、頭上から降り注ぐシャワーの湯に打
たれ、ヒカルの肌はほんのりと薄桃色に色づき、柔らかくおいしそうな
果実を思わせる。
必死に抵抗してみても、ヒカルと緒方では上背も力も違う。そう体格
の変わらないアキラにさえ、あの日、簡単に組み敷かれたことを思い出
して、ヒカルは背筋が凍るような気がした。
そして、そんなヒカルをただ見ていることしかできない佐為も、その
端正な顔を歪めていた。
『あぁ、ヒカル。私が、この者と打ちたいなどと、言わなければ…』
せめて緒方の碁打ちとしての思いに応えたいと、ヒカルに無理を承知
で頼んだときは、まさかこんなことになるとは思わなかったのだ。
「こんな時間まで打ってるのか?もう夜も遅いぜ」
突然後ろからかけられた声に、ヒカルは飛び上がらんばかりに驚いた。
昼間は緒方から逃げ回っていたヒカルだったが、風呂上がりにジャージ
に着替え指導碁を打つ頃には、大広間に緒方の姿がないこともあって、
すっかり油断し切っていた。
緒方はかなり酔っているようだったが、saiへの追求までは忘れて
くれないようだ。いかさまジャンケンを持ちかけられ、病院と同じよう
にsaiと打たせろと迫られた。
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