sai包囲網 1 - 5
(1)
「知ってるんだなsaiを!知ってるんならオレにも打たせろっ」
ほんの少し動けば触れるばかりの間近で、そう緒方に言われたとき、
進藤ヒカルは心臓が縮み上がるのではないかと思った。それくらいまず
い事態に追い込まれていた。
それでも、何とか言葉を探し、緒方の追求をかわそうとする。
「し・・・知らないっ。知りません!オレはただsaiと塔矢先生との
ネット碁を、た、たまたま見ていただけで・・・」
胸倉を掴んでいた緒方を手を振り払い、先程の追いかけっこで上
がった息を整えようとしたとき、ふいに傍らのエレベーターが開いて、
見知った相手が姿を見せた。
「進藤」
「塔矢」
次から次へと〜〜〜っ。今、一番現れて欲しくなかった塔矢アキラの
訝しげな視線に内心焦りながらも、目の前に立ち塞がったままの緒方が
そちらに気を取られた隙をすり抜け、開いたままのエレベーターに飛び
込む。振り返ったヒカルが降のボタンに目を止めるより早く、横から伸
びた指先がそれを押した。ヒカルがそうであるように、短く切り揃えら
れた爪の擦り減った、それでも白くて綺麗な指。ヒカルは半ば唖然とし
て、その手の持ち主を呼ぶ。
「塔矢・・・」
「下で、良かったよね?」
「あっ、ああ」
それだけ答えるのが精一杯だ。自分が乗り込むのがぎりぎりのタイミ
ングだと思っていたのに、いつの間に・・・。せっかく緒方を振り切っ
ても、これでは余計に状況が悪くなったかも知れない。
重く、嫌な沈黙の中、ゆっくりとエレベーターが下降する。
「進藤」
「な、何?」
「僕は、ちらっとしか見てないけれど、緒方さんが何か君に詰め寄って
るように、見えたのだけれど・・・」
(2)
アキラの言葉がいつになく歯切れが悪いのは、ヒカルたちの言い争う
声を聞いてないせいだろう。それでも、あの場の雰囲気が和やかなもの
ではなかったのは一目瞭然で、勘のいいアキラなら二人の間に諍いがあ
ったことに気がついたかも知れない。
俯いたままのヒカルの柔らかそうな前髪と長い睫毛。その下の細い首
と頼りない華奢な肩。緒方との知人とにしては近過ぎる距離に立つ彼の
姿を見た瞬間、身体中の血が沸騰するかと思った。ヒカルが緒方から逃げ
るように自分の脇をすり抜けたとき、咄嗟に後を追った。
先程見た衝撃と怒りを抑え込んで、もう一度訊ねる。
「お父さんの、お見舞いに来てくれたの?」
答えないヒカルに、アキラは質問の切り口を変える。今までの経験上、
余程うまく問わない限り、ヒカルに言い抜けられてしまうだろう。
「あっ、うん」
「そう。ありがとう」
「いや、その、だって、俺が心配だったからさ」
「でも、ありがとう」
ほっとしたようにヒカルが息を吐いたのを見て、アキラは笑顔のまま
少しだけ相手との間を詰めた。
「この前も来てくれたんだってね。市河さんから聞いたよ」
「市河さんって、碁会所の受付のおねーさんだっけ?」
「うん」
そういえば、あのときは緒方にも会ってる。ここで否定しても意味が
ないことに気がついて、ヒカルはうんと小さく頷いた。
「そのときに、お父さんと対局の約束をしたの?」
はっとして振り仰いだアキラは、もう笑っていなかった。
(3)
「対局って、何?」
思わずぎゅっと自分のトレーナーの胸元を握って、ヒカルは答えた。
その仕種だけで何か隠し事をしてますと言ってるようなものだが、今の
ヒカルにはそれに気づく余裕すらない。うまく凌いだと思い、緊張を解
いたところに、鋭く切り込む一手を放たれて、思考が停止しそうになる。
これが碁なら持ち時間を目一杯に使って、切り返す手を編み出したいと
ころだが、アキラの表情を見ると既に持てる時間を使い切り、秒読みに
まで追い込まれてる気分になってくる。だが、ここで投了するわけには
いかない。
「塔矢先生とはまた打ちたいっては思うけど。ほら、俺の新初段シリー
ズを見ただろ?俺なんてまだまだだよなーーー(笑)」
暗に、昨日のsaiと塔矢名人との対局なんて知らない。俺の実力は
saiには遠く及ばないんだと、二重の否定を含ませたヒカルの答えに、
アキラは薄く笑った。そう言うと思っていたよ。
「桑原先生がね、すごく、おもしろいことを言ってたよ」
「へっ?桑原のじーちゃん?」
突然出て来た桑原本因坊の名前に、ヒカルが動揺してる間に、エレベ
ーターが一階へと着いた。そのまま逃げようにも、アキラに入口側に立
たれ、降りることさえ叶わない。
「ほら、進藤。乗る人の邪魔だよ」
視線を巡回させているうちに、アキラに片腕を取られ、ヒカルはその
まま引きずられるように病院の外へと連れ出される。
ふと、感じる既視感。小学生だった二年前、「逃げるなよ。今から打
とう」と、こうやってアキラに手を引かれて雨の中を走ったときのこと
を思い出した。あのときとは違う手の力の強さ、まだまだ少年特有の華
奢さを残してるものの広くなった背中に、ヒカルは急に怖くなった。
(4)
佐為にネット碁を思い切り打たせたことを後悔してない。好きなだけ
碁が打てて、零れんばかりの笑みを浮かべる佐為を見ているのは楽しか
った。ただ、純粋に佐為に碁を打たせてあげたかっただけ。
その結果、saiがネット上だけではなく、多くの棋士にその存在を
追われていることも、アキラに言われるまで気がつきもしなかった。騒
ぎが大きくなり過ぎて、佐為にもうネットでは打たせてあげられなくな
ったことだけが残念だった。
塔矢名人との一局もそうだ。自分がsaiに関わりがあると知られる
危険を承知の上で、名人に対局を申し入れ、承諾を貰えたときは自分の
ことのように嬉しかった。
そこまで思いを巡らせて斜め上の佐為を見る。期待に反して佐為は眉
を顰め、何かを耐える表情を浮かべ、こちらを見てはいない。
佐為・・・。
「進藤」
「えっ?」
「僕の話を聞いてた?」
手を取られたまま、覗き込むようなアキラに意識を目の前に戻す。
「あっ、ごめん。本因坊のじーちゃんのこと、だったよな?」
「そう。桑原先生がね、お父さんとの一局、君が自分にハンデを背負わ
せて打ったと言ったんだ。僕はそのとき、タイトルホルダーのお父さん
相手にまさかと思ったけど、今はね、それを信じる気になったよ」
「な、何で?」
「saiとの一局を見たから」
「saiとの、一局?」
「対局の間中、ずっと君を思い出してた。最初に会ったときの君、次に
一刀両断された一局、そして、その後見た、囲碁大会での一局。すべて
がsaiに繋がってる」
「でも・・・でも!俺は、saiなんて知らない!」
ヒカルはアキラの手を振り払った。
(5)
「知らない?」
「知らない!」
「じゃあ、さっき緒方さんに何を問い詰められていたの?」
「えっ、それは・・・」
緒方はヒカルと塔矢名人がsaiのことを話していたのを知っている。
アキラと緒方は同門だ。緒方がsaiに拘る理由は分からないが、二人
が今日のことを話す機会はいくらだってある。ここでうまく誤魔化して
も追求の手が伸びるのが後回しになるだけだ。
「えーと」
向かい合う自分とアキラ。二年前、ネットカフェの前で別れたきり、
それ以来、こんなふうに近くに立つことはなかった。
「もう君の前には現れない」
そう言って自分に背を向けたアキラ。あんなに冷たい目をして、去っ
て行ったのに。棋院で顔を合わせたときも、すぐに視線をそらして部屋
から出て行ってしまったのに。
saiが関わらない自分には、まったく興味がなかったくせに・・・。
急にあのときの悲しさ、悔しさが舞い戻って来て、ヒカルは視線を上げ、
アキラを睨み返した。
「昨日、俺も塔矢先生とsaiの一局を見たんだ」
どこで?とは訊かず、アキラは頷いた。
「それで?」
「すごい一局だったから感動して、それを塔矢先生に言いに来ただけだ。
緒方先生は勘違いしてるんだよ。俺がsaiって言ったのをちょっと聞
きかじったらしくて・・・」
そこで切って、ちらりとアキラの様子を窺うが、その表情から自分の
話が有利に伝わってるかは判断できない。仕方なく、ヒカルは続けた。
「緒方先生が、怖い顔して追いかけて来るから、つい逃げちまって」
「たったそれだけで、あの緒方さんが君を追いかけたっていうのは納得
がいかないな」
「それだけもこれだけもねぇーよ。嘘だと思ったら、塔矢先生にでも緒
方先生にでも訊いてみろよ」
|