平安幻想異聞録-異聞-<駒競> 1 - 5
(1)
「佐〜〜為〜〜〜!!」
蝉時雨立つ、夏の夕方。
門の前で大声を出すヒカルに佐為は「そんなに大声で呼ばなくても聞こえるのに」と
笑いながら腰をあげ、門の方へ歩いていくと、閂を外して、それを開け放つ。
木戸の間から、出会った頃よりは少し成長した金茶の前髪の少年が顔を出した。
庭に面した縁側の簀子に座って、ヒカルは朝顔を愛でている。
今日のヒカルは機嫌がいい。
昨日の駒競べで、見事、三谷の馬に勝ったからだ。
幼い頃から、祖父から武芸を仕込まれたヒカルも、馬術だけは少々苦手だった。
「なんでです?」
と佐為が聞くと
「だって、馬がいなかったんだよ」
とヒカルが説明してくれたことがある。
言われてみれば、と気付くのだが、ヒカルの父が死んでから、そのヒカルが成長して
亡父と同じ検非違使の仕事につくまでの間、近衛の家には収入がなかったのだ。きちん
とした馬など飼う余裕はない。剣や弓を指南してくれた祖父もこればかりはどうにも
ならず、せいぜい、他の武人の家で使いようがなくなった年老いた馬をもらい受けて
きて、それで基本を教えてくれるぐらいだったのだ。
それが、検非違使庁に勤めだしてから、やっとまともな馬を買い、暇を見ては練習して、
ようやく昨日の駒競べで、ヒカルは念願の「三谷に勝つ」を現実にできた。
喜びもひとしおだろう。
「あれ、今日は誰もいないの?」
自分で皿を持ってきた佐為に、ヒカルが驚く。
「えぇ、たまには休みを出さないとね。だから今日は碁会所も休みですよ」
最近、盛況の佐為の碁会所は、掃除や何かのために使用人を雇うようになっていた。
ふーんとそれに頷いたヒカルが、皿の中身に目をやる。そのうち二つの皿に盛って
あったのは…
(2)
「うわっ!すごい!氷じゃん!」
予想通りのヒカルの反応に、佐為が目を細めた。この暑いさかりに氷菓子。並の貴族
では手に入らない高価な贅沢品だ。さらに駄目押しと、佐為が三つ目の皿の中の透明な
とろりとした液体をそれにかけた。
「何?」
興味津々にヒカルが訪ねる。
「甘葛の蜜ですよ」
「うぇっ!」
佐為の口からでた、これまた高級甘味の名に、ヒカルが変な声を上げて後づさった。
予想以上の反応に、してやったりと佐為が声をあげて笑う。ヒカルの驚く顔が見たくて、
そして喜ぶ顔が見たくてこれを出してきたのだ。
「どうしたんだよ、これ」
「先日、大納言藤原光明殿より請われて、指導碁をさせていただいたのですよ。
甲斐あって、長年の碁敵に勝つことが出来たとか。これはその礼として、光明殿より
届けられたのです」
「へー」
とりあえず、ヒカルはキラキラと陽光に光る氷の乗った皿を取り、目の高さまで
掲げ上げ、それを四方から眺めてみる。
「ははっ。顔近づけただけで、ひんやりするよ」
小さいが綺麗に手入れされた中庭を望む簀子に二人、肩を並べてちょこんと腰かけ、
珍しい甘味を楽しむ。
「甘いなぁ」
ヒカルがしみじみと口にする。
「でも、世の中にはもっと、甘くておいしいものもありますよ」
「そうなの?佐為、食ったことある?」
「もちろん」
そう言った佐為の手が、まだ氷の残る皿を下において、ヒカルの顎にかけられた。
(3)
そっと自分の方を向かせる。ヒカルの瞳がわずかに揺れて、どちらからともなく唇を
よせる。
庭先の朝顔の葉の先に、まだ赤く染まる前の、麦わら色のトンボが1匹、飛んできて
羽根を休めた。
重ねられていた唇が、離される。
「ほら、ヒカルの唇の方が甘い」
ヒカルはあまりの気恥ずかしさに、佐為を突き離して思いっきり蹴り飛ばして
やろうかと思ったが、それを実行に移す前に、もう一度、佐為の唇がヒカルのそれに
押し当てられた。今度は、もっと深く。佐為の舌が、ヒカルの唇にわずかに残る甘露を
舐めとる。その動きに応えて、ヒカルが唇を開けば、佐為の舌が柔らかくて甘い味の
する生き物のようにヒカルの口の中に侵入する。
佐為の腕が、優しくヒカルの腰を近くに抱き寄せた。
「もう、『お預け』はなしですよね?」
その佐為の言葉に、口付けの甘さに酔った表情のヒカルが黙って頷いた。
実は、佐為はこの十日間、ヒカルの肌に触れていない。
ヒカルがそれを許さなかったのだ。
(4)
それは、駒競べのせいだった。
ヒカルいわく、
「だって、馬に乗れないじゃん!」
早駆けする馬の体の上下動は、見ているものが思うよりはるかに激しい。
だからといって、上体を馬に揺られるままにしていては、弓も太刀も使えた
ものではない。なので、その反動を腰で受ける。つまり、秘め事の後の重い腰で
馬に乗るのは、結構辛いことだったりするのだ。
駒競べの日に向けて、打倒三谷の特訓をするのにそんなのでは話にならないと、
ヒカルはその十日ほど前から、佐為と体を重ねることを拒み続けていた。
駒競べでヒカルが勝つことはもちろん応援しているが、思いもよらぬこの
『お預け』に、佐為が多少切ない気持ちにさせられたのは否めない。
まぁ、確かに佐為が一晩中、ヒカルの体を独り占めしてしまうようなことに
なれば、馬に乗るどころではないだろう。けれど、少しぐらい……
「そんなに無理なことはさせませんよ」
と、すねる佐為を、ヒカルは顔を赤く染めて睨んだ。
「だめなんだよ、その、お前じゃなくて、オレが。お前と寝てると、他のこと
なんかどうでもよくなっちゃうんだ。駒競のことなんか忘れて、もっと
欲しくなちゃうんだよ」
そういう顛末もあって、ここしばらく、佐為はヒカルの柔らかそうなうなじや、
軽い口付けの快楽にも震えてしまうその指先を目の前に眺めながら、自分の中を
焼く熱をもてあます羽目になっていたのだ。佐為が、その間、自分の代りに
ヒカルを独り占めしていた馬に嫉妬して、逆恨みしても、だれも責められない事に
違いない。
だけど、それも今日で仕舞い。駒競べは昨日、無事に終わったのだから。
佐為の手が、狩衣の布越しに、ヒカルの腰から背をさするように彷徨い、唇が、
首の薄い皮膚を吸って、花びらのような痕を残した。
ヒカルが、食べかけの氷菓子の皿を床板に置いた。
それを確認して、佐為がゆっくりとヒカルを押し倒す。
放っておかれる氷菓子に
「溶けちゃう…」
と、ヒカルがつぶやいた。
そのヒカルの腕もすでに、しっかりと佐為の首に回っていたが。
(5)
白い薄絹で仕立てられた狩衣を掛布団かわりにふわりと体の上にはおって、
その下で佐為とヒカルは身を寄せ合う。
久しぶりの情事に二人とも満足して、ヒカルの方は、佐為の腕まくらに頭を
預けてトロトロと夢の世界に足半分、現の世界に足半分といった様子だ。
佐為は、ヒカルの邪魔をしないように、その顔にかかる金茶の前髪をかき上げる。
あらわにされた濡れた睫毛の下からのぞく深い瞳が、佐為の事を見ていた。
「ねぇ、佐為。背が高いのは嫌?」
「何です、唐突に?」
「うん。こういう趣味の人ってさぁ、その相手が元服しちゃったり、背が延びて
大人になったりしちゃったら、するのやめちゃうって聞いてるから」
「背が延びたってヒカルはヒカルでしょう? それとも、ヒカルはやめて欲しいん
ですか?」
ヒカルは黙って、佐為の顔を見つめた。
自分が、死ぬまでヒカルをこの手に抱いていたいと思うのと同様に、少年の方でも
自分の事を想っていてくれているに違いないと思っていた佐為は、その沈黙に少し
戸惑う。
「ヒカル?」
「うん、あのねぇ…」
少年の瞳が、少し上目遣いに佐為の様子をうかがう。
「言ってごらんなさい」
「大きくなって、佐為の事を抱いてみたいとは思うよ」
「………」
予想外の答えに、佐為は一瞬呆けた顔をしたが、次にはクスクスと笑いだしていた。
「可愛いですね、ヒカルは」
「な、なんだよ、笑うことないじゃん! 言えっていうから言ったのに!」
ヒカルが肘をつき、半身をおこして抗議する。
佐為も上半身を起こして、ヒカルの頭を自分の肩のあたりに抱き寄せる。
睦みあった後の二人の肌は、夏の夕方の暑さの為だけでなく汗ばんでいる。
「ごめんなさい。でも、ヒカルがあんまり健気な事を言うものだから」
「嫌なら、嫌って言えよ。あきらめるから」
ヒカルが拗ねて、横を向く。
「嫌じゃありませんよ」
佐為はまだ喉の奥で笑いながらも、はっきり言った。
「そうですね。ヒカルの背が、私より高くなったら考えてあげましょう」
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