邂逅(平安異聞録) 1 - 5
(1)
(今日は内裏の警護か…)
光は一つ欠伸をして、内裏へ続く大路をゆっくりと歩く。
妖怪退治の一件以来、内裏への訪問をするのは久しぶりだった。
佐為はあの事件でその囲碁の腕を評価され、今は帝の囲碁指南役として仕え、
誰もが羨む地位に納まっている。貴族として大きく出世したのである。
だが光は警護の任を解かれ、佐為には殆ど会えなくなってしまった。
帝の囲碁指南役貴族と検非違使、その身分には大きな隔たりがあった。
(もしかしたら佐為に会えるかもしれない)
そう思いついて、光の心は踊った。佐為の笑顔を見て、色々な話がしたかった。
光の姿を見とめたら驚くかもしれないが、きっと優しく迎えてくれるだろう。
(佐為、元気にしてるかな?好きな囲碁が打てるんだ、元気に決まってるよな)
自然と顔がにやけてくるのを必死に抑えながら、内裏へと続く道を急ぐ。
退屈な警護の役は一転して楽しみになってきた。佐為と会うためならば。
(佐為…何処にいるんだろう?)
中庭を見渡せる廊下で、光は始終落ちつかない様子で辺りを見まわした。
美しい女房やきらびやかな貴族への挨拶もそこそこに、光は必死で佐為を探した。
しかし、どこにも佐為の姿はない。もうすぐ警護の交代の時間になる…。
(…もしかしたら、今日は参内してないのかもしれない)
会える確信はなかった、単に光が期待していただけだ。
肩を落として帰ろうとする光の耳に、女房達の笑い声に混じって声が聞こえてきた。
(2)
会いたいと願っていた、探し人の声。
「佐為!?」
その部屋に入ると、そこには大勢の女房や貴族の子供に囲まれて談笑する
光の目的の人物の姿があった。光の声に気付いた彼はゆっくりと振り向いて笑いかける。
「おや、光ではありませんか。久しぶりですね」
「あ……うん、久しぶり…」
二の句が継げない光に構わず、周りの女房達が騒ぎ始めた。
「ねえ佐為様、この検非違使とお知り合いなの?」
「佐為様を呼び捨てにするなんて、失礼なんじゃない?」
「それに急に入ってくるなんて…」
「いいんです、彼は私の友人なんですよ。そう怒らないでやってください」
「まあ…佐為様がそう言うなら…ねえ?」
「そうね、佐為様ってとってもお優しいのね」
「ありがとうございます」
女房達と会話する佐為を呆然と眺めて、光は置いて行かれたような寂しさに囚われた。
ここではまるで自分がのけ者のようだ。佐為がとても遠くに感じられる。
「ねえ佐為っ!そんな事より勝負の続きは?囲碁やろうって言ったの佐為でしょ!」
その挑戦的な子供の声。声の主は光と同じか光よりも歳下に見えた。その姿から
どうやら貴族か帝の子息らしい。みづらに結った髪が幼さを際立たせている。
「はやくっ!もうボク打ち終わったんだからね」
「はいはい…おや、これは新手ですね。ふふ、中々面白いですよ」
「そんなのよりも、これが終わったら蹴鞠する約束、ちゃんと守ってよね!」
子供の無邪気で我侭な言い草に佐為も女房達もどっと笑う。
光はその場からそっと黙って立ち去った。何故だか分からないが
心臓がどきどきして、目頭が熱くなってきた。泣きたくなくて空を見上げる振りをして、
涙がこぼれないように歯を食いしばった。
(3)
内裏からの帰り道。
光の足は自然と佐為が昔住んでいた碁会所の有る屋敷に向かっていた。
佐為を一番近くに感じられた場所…そこにはもう人の気配はない。
時刻はすでに夕暮れで、太陽は殆ど山に沈み、大きな満月がまるで血のような赤を
たたえて、光を見下ろしていた。
「…佐為はもう、昔の事なんて忘れちゃったのかな」
光と佐為と明と、妖怪退治をした日々。大変だったけど充実していた。楽しかった。
妖怪退治が楽しかったんじゃない、佐為が一緒にいたから…皆で一緒にいられたから。
光は縁側に座って真っ赤な月を眺めやった。こんな月をいつか見た気がする。
それもおぼろげな記憶になってしまった。佐為にとって光との日々もそうだったのだろうか?
引っ込めたはずの涙がまた溜まってくる。口の中がしょっぱくなって来た。
「………うっ」
「光」
泣き出してしまう直前、光の耳に信じられない声が聞こえてきた。
そこには先ほどまで思っていたばかりの佐為の姿。彼は一人、光を見下ろして微笑んでいる。
「…どうして」
「ふふ、光こそどうしてこんなところで泣いているんですか?」
「オ、オレは泣いてなんか!オレは…オレはここに忘れ物があったから、取りに来たんだよ!」
「じゃあ、私も忘れ物を取りに来たんです。偶然ですね」
おっとりと笑う佐為に、光は先ほどまでの寂しさが和らいでいくのを感じた。
ここにいる佐為は昔と同じ、一緒に妖怪退治をしていた頃の佐為だと思えた。
「光、さっきはごめんなさい…ろくにお構いもできなくて」
「い、いいよ。佐為だって忙しいんだもんな。オレこそ突然ごめん…」
「いいえ、会いに来てくれて嬉しかったですよ」
見つめあって笑いあう。昔の時間が帰ってきたような気がした。
(4)
しかし、佐為はふと黙って、寂しげな顔を光に向けた。佐為の悲しみが垣間見えた。
「…光、私達はこれから今まで以上に会えなくなるでしょう」
佐為の言葉に、光はどきりとした。嫌な動悸がその胸を締めつける。
「私は囲碁指南役として、光は検非違使として…それぞれお互いの仕事が有る。
そして私は宮中で生きていくために、貴族間の権力抗争にも関わる事になるでしょう」
「さ…佐為…?」
あれほど権謀術数を嫌っていた佐為の口から出る言葉とは思えなかった。
佐為は、辛そうに顔を歪めて言葉を続ける。
「光…貴方はそんな事に関わってはなりません。貴方の真っ直ぐな心を私は失いたくない。
光のそんな所が、私はとても好きなのですから…」
佐為の言わんとしている事を察知して、光は言葉を失った。
佐為は光の為に、光から離れようとしている。悲しさを押し殺して…。
泣きそうな顔で笑顔を作る佐為が、光はとてつもなく愛しく、そして悲しく思えた。
「光、貴方と過ごした時間、とっても楽しかった…今までもこれからも。
私にとって光が 一番大切な人ですから…ずっと」
そこまで聞いて、光は思わず佐為に抱き着いていた。我慢出来ずに溢れる涙で
ぐしゃぐしゃの顔を佐為の狩衣に押しつける。
「佐為、佐為…佐為!」
しゃくりあげる光を佐為は優しく抱き締めてその髪をなでつける。
いつまでもこうしていたいと思った。
(5)
やがて光が落ちつくと、そっとその身体を離す。
光は黙って佐為を見上げていたが、涙の残る瞳を袖で拭うと、懸命に笑顔を作って言った。
「佐為、お前がもし…宮中でいじめられたりして困ったら、真っ先にオレの所へ来いよ。
オレ、お前のこと絶対守ってやるから…絶対一緒にいてやるから」
「光…」
「だから、オレに黙って何処かに行っちゃうなんて、許さないからな」
万感の思いを込めて、光は佐為の首に腕を回して身体を摺り寄せるように抱き締める。
光の体温をその腕に感じながら、佐為は光の言葉を嬉しく思いながら、おそらくそれは
無理であろうと、予感していた。
(光は宮中の事を知らない…政敵に敗れたものがどんな末路を辿るのかも。
私はきっと最後まで光の元には行けまい…それでも)
佐為は額を光のそれと合わせる。己が心が少しでも光に伝わってくれるように。
(それでも、私の魂は光と共に有りたい…例え時間がかかったとしても)
光は佐為の真剣な表情に気遣わしげな顔をしたが、やがてくすぐったそうに笑った。
この笑顔をずっと忘れないでおこうと、佐為は瞳に焼き付けるように見つめつづけた。
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