霞彼方 1 - 5


(1)
「負けました」
勝つつもりだった。勝てると思っていた。
手が届くと思っていたのだ、今の自分なら。
悔しい。負けたことじゃない。自分が目指す高みの、まだその底辺にも
届いていないことが。
目指す頂点はあまりに遠く、いまだ、霞の彼方。
「成長したと思ってた……。二年前のオレはまだヘボで、先生との差は
 大きかったけど、今のオレは研究会で先生と打つ時だって気後れなんか
 してやしない。そう思ってた――でも、勝負の場での先生を越えられなかった。
 オレに足りない物が、まだ、ある」
「勝負の場での――か。棋士の恐さは勝負の場で向き会わねぇと見えんからな。
 ――だが、その扇子、おまえもカッコつけて持ち始めたわけじゃなかろう?
 おまえの何がしかの決意の表れなんだろ? くらいついて来るしかねぇな」
ヒカルは、手にした扇子を堅く握りしめた。
自分の力を信じるために。今はもういない、かの人と、積み上げてきたものが
無駄でないことを確かめるために。
階段の上からその男を見つめる視線は、師匠を見る目というよりは、親の敵を
見ているようだった。
それを真っ向から受け止めて、大人の威厳で跳ね返して見せる壮年の碁打ち。
「おい、検討終わったら、飲みに行くか?」
森下がニヤリと笑った。


(2)
夜の新宿。
ピンクや紫に色どられ、ケバケバしい電飾に飾り立てられたいかがわしい看板が
立ち並ぶ通りを歩きすぎると、そこには思いのほかひっそりとした暗い面持ちの
景色が広がっている。
そこに立ち並ぶ店のうちの一軒、地味だがしっかりした作りの寿司屋に、
二人の碁打ちがいた。
「おい、進藤! 遠慮するなよ、どんどん頼め!」
寿司屋というと回転寿司しか行ったことがないヒカルは、心なしか肩を小さく
している。
気さくな雰囲気の寿司屋ではあったが、それでも、こういった場所に慣れない
ヒカルは、やはりキョロキョロとしてしまう。
目の前にどんと置かれたのはマグロの赤身の寿司だったが、ただの赤身では
なかった。牛の舌の様にべろんと長い切り身。下のシャリの二倍はあろうかと
いうそれが、ヒカルの前に鎮座ましましている。
なんだか迫力があった。
森下が笑う。
「なんだ、昼間の勢いはどうした! マグロごときに気合負けしてたら俺には
 一生勝てんぞ!」
あきらかに面白がっている森下の口調に、ヒカルは負けてたまるかとアナゴを
注文する。
ヒカルの目の前で板前が、まずシャリを握り、その次に後ろのタッパーから
調理された中振りのアナゴを1匹取りだす。
その真ん中をダンと大きな音をさせて二つに切ると、その上半分と下半分を
それぞれシャリの上に乗せて、
「お待ちぃ!」
と、唖然と見守るヒカルの目の前に勢い良く置いた。タラタラと濃密なタレの
滴るアナゴ……当然ながら、先のマグロと同様、切り身が大きすぎて下の
シャリは見えない。
――河童巻きを頼んだら、もしかしてキュウリが丸ごと1本巻かれてきたりして。
と、嫌な想像をしてしまったヒカルの横で、森下が、若い板さんに声を張り上げる。
「『上善如水』一本くれ!コップは二つな!」


(3)
「へい!」
すぐに、日本酒の透明な四合瓶が出てきた。
森下の前と、ヒカルの前にもそれぞれ、コップとお通しが置かれる。
「先生、俺…未成年なんだけど」
「安心しろ、ちゃんと初心者でも飲みやすい酒を頼んでやったんだ」
「いやその、そうじゃなくて」
「大人になった祝いだ。オレが許す」
自分はまだ15才なのに…と言おうとして、気がついた。
森下が言っているのは単に年齢の事ではない。
森下は、自分を対等にやりあう「一人前」の棋士として認めてくれたのだ。
その感覚は誇らしくもあり、奇妙にくすぐったくもあった。
「いただきます」
「おう」
ヒカルは神妙な顔をして、そのコップ酒を受け取る。
日本酒なんて、お正月ぐらいにしか飲んだことがないヒカルには、それは唇に
ピリピリと辛かった。
そんな二人のようすに板前が軽口を叩く。
「モリさん、たまには女の子も誘ってあげればいいのに。たまに人を連れてきても、
 お弟子さんばっかりで。女泣かせだねぇ」
すかさず、もう一人の若い板前が笑いながら、ヒカルに話し掛けた。
「森下さんはね、これでもかなりモテるんだよ」
「まったくこんな朴念仁のどこがいいのか。奥さんも押掛け女房だったんだ」
ヒカルは意外に思って、森下の横顔を見た。

店を出ると、冷たい夜風がヒカルの髪を嬲った。
零時も近いというのに、かなり人通りが多い。皆、終電を気にしているのだろうか、
時計をチラチラと見ながら駅の方へと急いでいる。
「あら、森下センセ、こっちにきたならウチの店にも寄って下さいよ」
声を掛けて来たのは、藤色の着物を着こなした、上品そうな女性だ。手には大きな
梅の枝の花束を抱えている。
「こちらはお弟子さん? かわいいわねー」
「おいおい、男にかわいいは褒め言葉じゃねぇぞ」


(4)
はじめて間近にするといっても過言ではない大人の女性の雰囲気に、どぎまぎする
ヒカルの横で、森下が眉をひそめて返す。
「あらあら、あいかわらず硬派ねぇ。そこがセンセエはいいんだけど」
「先生って本当にもてるんだ…」
感心したようにつぶやいたヒカルの言葉を女は聞き逃さなかった。
「そうね、こんなに取っつきにくくて、お店に来ても、いきなり携帯用の碁盤を
広げてお弟子さん達と検討会をはじめるような人なのに……うちのお店の
女の子達は、そんな森下さんがかっこいいっていうのよ。碁の話をしている時の
この人の横顔がたまんなく色っぽいんですって」
その言葉にヒカルは、今日の対局前、碁盤の前にすわっていた森下の横顔を
思い出した。あれは、たしかに男の自分がみても…かっこいい、と思った。
「おだてても、今日はもう帰るからな!」
「先生、自分の成すべきことと正面から向かい合う男っていうのは、女には
 たまならなく色っぽく感じるものなんですよ」
森下が、照れたように口ごもった。
ヒカルは考える。この女の言うことは本当だ。
今日、対局前、碁盤を睨みつける森下の顔にたしかに痺れた自分がいる。
対局中も、その気迫に圧されまいと自分を鼓舞しながらも、自分の背中を自慰にも
似た蠱惑的な痺れが駆け抜けた。
そして、それと同じものを感じたのは今日が初めてではない。
プロになって初めて塔矢と対局したとき、自宅で伊角の迫力の懇願に負けて
本気の一局を打ったとき。塔矢名人と佐為との一局を見たとき。
この女の人は、もしかしたらそういうものを言ってるのかもしれない。
「オレ、わかる気がするよ」
「まぁ、この坊やの方が、先生よりは話がわかるみたいだわ」
女は、コロコロと口元をおさえて笑いながら、一礼して通り過ぎていく。
通りすぎざま、ヒカルに一言。
「ぼうやも、将来はあんな男になりなさい」


(5)
「まったく、女の考えてることはわからん。進藤、あんな女にはひっかかるなよ」
ぶつぶつと言いながら歩く森下の横でヒカルは考える。
今日、かいま見た、森下の棋士として勝負に臨む時の顔。自分も、盤上を見ている
ときはあんな風に見えるのだろうか。だったらいいな。自分も他人からそう思って
もらって初めて一人前の仲間入りといえるんじゃないか。でも、こんな事を考えて
るうちはまだまだなんだろうな。雑念ひとつ抱かず、ただあの十九路の世界に
没入できるようにならないと、きっと、かの人の着物の裾さえ掴めるレベルには
なれないんだろう……。
しかし、酒が入っていたせいで、その考えはフワフワと頭の中を通りすぎて、
うまくまとまらなかった。
いつのまにか歌舞伎町を抜けて大通りに出ていた。
「あ、先生。オレ、地下鉄なんで、ここで」
「おお、気をつけて帰れ」
横断歩道の信号が青だったので、ヒカルは走り出した。
そして、一回振り返る。
酔いも手伝っていたのだろう、ヒカルは周囲の人が思わず注目するほどの声で
叫んでいた。
「先生っ! 次は俺が勝ちますから!」
挑戦的な瞳で、自らの師匠を睨み据える。
表情から先ほどまで「ぼうや」と呼ばれていた面影は消え、そこにいたのは、
自分より大きなものに挑みかかる若い棋士。
森下はらしくもなく、その光景を口を開けたまま見つめてしまった。
コンクリートの匂いのする乾いた風に、金の前髪を揺らされ、雑踏の中に立つ、
少年の中性的とも言える雰囲気がざわざわと胸の奥を騒がせた。
前髪の間から、その目がまるで昼間に碁盤をはさんで向かい合っていた時の
ように、自分を睨み据えている。
なのに、アルコールのためにほんのりと桃にそまった目元が、その表情に色を
そえ、その姿は、ハッとするほどに豊艶だった。
ヒカルの大声に振り返った人々の幾人かもまた、その表情に、その場に釘で
留められてしまったように動けずにいる。
そんな事に気付かないヒカルは、その場で森下に深々と頭をさげた。
「ごちそうさまでした!」



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