敗着-透硅砂- 1 - 5


(1)
「塔矢、これ持ってかなくていいのか?」
「え…」
ざわつく教室で帰り際に声をかけられ振り向いた。
「え、じゃないよ。出席簿、職員室に持ってくの日直じゃねーの?」
「…そうだったね、ごめん」
教室から出て行くアキラの後ろ姿を見送った生徒の一人が、もう一人の生徒に話しかけた。
「なあ、塔矢ってあんなボーっとした性格だったっけ。最近抜けてるよなー」
話しかけられた生徒が遠慮がちに答えた。
「さあ…、俺もともと相手にされてないから分かんね…」

「失礼します」
お辞儀をして職員室の扉を閉めると歩き出した。
進藤と緒方さんの部屋で鉢合わせをしてから、幾日が過ぎただろう。
父があからさまに心配するほどに一時は落ち込んでいたが、日常生活はなんとかこなしていた。
教室へ戻る廊下でふと立ち止まり、方向を変えた。
人気の無い廊下までやって来ると窓を開けようと鍵へ手を伸ばす。その伸ばした手の指に目がとまり、思わず苦笑した。
自分でも分かるほど、ほっそりと痩せていたのだ。
(これじゃお父さんが心配するはずだ…)
窓を開け窓枠に手をかけると外の空気を吸った。制服は既に夏服に変わり、汗ばむ季節になっていた。
それでもこの場所は植えられた樹木の影が涼しい空間をつくりだしている。
校舎の外を歩く下校していく生徒たちの喧騒も、樹木に遮られ遠くに聞こえるだけだった。
あの日のことを思い出し唇を噛んだ。
突きつけられた現実――。
自分が結局は受け入れられなかったことを認めるには時間がかかった。
(進藤…)
目を背けたかった事実は体の一部になったように、いつも意識の何処かに潜んで自分を陰鬱にさせている。
だが不思議なことに、自分の気持ちに変化はなかった。
まだ進藤を、あきらめきれなかった。
顔を上げると、少し湿り気を帯びた木陰の空気を感じとるようにそっと目を閉じた。

進藤――。
キミは今、何を考えている?


(2)
エアーストンが柔らかい気泡を作り、水中へ静かに送り出していた。
水面に一粒、また一粒。
人工飼料が落とされ、しばらく水面を漂っているとやがて沈んで魚が飛びつく。
さっきから飽きもせずに、同じことを繰り返していた。
「おい、進藤。いつまでやってる気だ」
返事は期待せず気休めに声をかけたが、こちらを見ることもなく人の熱帯魚で遊び続けている。
あきらめて別のことでもしようと思った時、
「わ…」
ザラッと音がして振り向くと、粒状のタブレットが水面一杯に広がっていて進藤が手を突っ込もうとしていた。
黙ってそれを手でいさめると、ネットを取り出しこぼれた飼料をすくい出す。
「ごめん…」
容器の蓋をきちんと絞め直しながら、ヒカルが謝った。
「貸せ…もういいだろ…」
素直に容器を渡してくる。
アキラが飛び出していってから、進藤との間には沈黙が多くなっていた。
言葉を交わさずただ同じ空間にいるだけ、ということは以前にもあった。しかしそれは重い沈黙ではなく、むしろ心地の良いものだった。
だがあの日以来、進藤の真意をつかみかねていた。
抱いていてもうわの空で、まるで人形としているようだった。
椅子に座ると小さくため息をつき、手招きをした。
「なに…?」
ヒカルがトコトコと歩いてきた。
前髪をすくい、以前はくるくるとよく動いた瞳を見つめた。どこか遠くを眺めているようだった。
ヒカルの手をとり、座ったままの姿勢で一呼吸おくと尋ねた。
「進藤…。お前、今、何を考えてる?」


(3)
「和谷、それ取って」
「ホイ、」
和谷の部屋で、冴木が空のペットボトルを片付けながら和谷に訊いた。
「なあ、和谷。進藤ってさ…」
「ん?ああ、塔矢が言ってきてたの?とりあえず、俺の家には来てなかったな」
「嘘ついて外泊か。やるな、進藤。アハハ」
「……そんな風には見えねーけどなー…アイツ…」
片付けをする手が止まった。
「…それでさ、和谷…。進藤って…」
「進藤が?どうかしたの?冴木さん」
「……」
「……」
しばらく顔を見合わせていたが、和谷が慌てて言った。
「いねーよー!アイツ、彼女なんて。だってアイツ、全然ガキだし…」
和谷は心中穏やかではなかった。
(俺の名前使って…?)
それには気づかずに冴木が続けた。
「院生の時、そういう子いなかったの?」
「いないいない!あいつ、トーヤトーヤってばっかで、他のこと目に入ってなかったぜ」
「じゃあ学校では?共学だろ?進藤も。そういう話しないの?」
「……」
「……」
黙って顔を見合わせていたが、お互い、触れてはいけないことに触れてしまった気がして、何も言わずに空の弁当箱やパンの袋の片付けを再開した。
(進藤…あいつ…)
和谷が手に持っていた空き缶をペコッと握りつぶした。
(…あいつ……俺より先に…)
「一つ年上」というプライドが、微妙に傷ついた。


(4)
「ヒカル…、ねえ、ヒカルってば!」
「え?」
「え、じゃないわよ。もーお、ボーっとしてぇ!」
あかりの声で我に返る。そうだった。
緒方先生の部屋で塔矢と鉢合わせてからというもの、説明の出来ない気持ちが胸の中でくすぶっていた。
「せっかく来たんだから。進藤、一局打っていってよ。二面打ちでいいからさ」
「わあそれいい!いいでしょ?ヒカル」
「ああ、じゃあ用意しろよ」
腰掛けていた窓枠から立ち上がると、碁盤が置いてある机まで歩いた。
わけもわからず人恋しくなり、放課後に当て所もなく理科室を訪れた自分を、あかりと金子がそれとなく気遣ってくれていた。
「あかりィ、おまえ、石いくつ置く?」
手近にあったイスを引き寄せ座ると、二枚の碁盤を挟んであかりと金子の前に座った。
「…九個、かなあ」
黒石をつまんであかりが答えた。
「もっと置いちゃいなよ、相手はプロなんだから」
金子が石を並べながらあかりの方を見た。
「いいぜ、いくつ置いても。ちゃんとした碁にしてやるから」
「もー!相変わらず憎たらしいこと言うんだからー!」
理科室に笑い声が満ちた。
だけど自分が無理に笑顔をつくっていることが分かっていた。
胸に渦巻いている感情が、「喪失感」と呼ばれるものであることをヒカルは知らなかった。


(5)
パチャパチャと水を跳ねながら、ヒカルは本屋を後にした。
(碁のプロなんだ…。もっと勉強しないと…)
研究のために買った詰め碁集が雨に濡れないようしっかりと抱えて歩道橋を昇っていく。歩道橋を歩いていてふと前を見ると、向こうの方から薄水色の傘を差した少年が歩いてくるのが目に入った。
(塔矢……!)
驚いて立ち止まると目を見張った。

(雨…。鬱陶しいな…)
水が跳ねないように気を付けながら、下を向いてアキラは階段を昇った。
テストはまだ先のことだが、進藤の一件以来、授業についていくことが苦しくなっていた。大学に進む気はなかったが、成績が下がることは避けたかった。
(少し応用編が多い参考書を買えばいいのかな…。基礎は教科書を繰り返しやれば分かるだろう…)
歩道橋の中ほどまで来て、前に人が立っているのに気がつき足を止め顔を上げた。
(――!)
驚いて息をのんだ。
(……進藤…。)
透明のビニール傘の下で、向こうも困惑した顔つきでこちらを見ていた。
降りしきる雨の中を、真正面から向き合った。
進藤の傘に雨が幾筋もの跡をつけ、ぽたぽたとひっきりなしに水滴を落としている。
「よお…」
ヒカルが口を開いた。



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