恋 Part 2 1 - 5


(1)
「今日の対局は満足の行くものだったろう?」
僕が尋ねると、進藤は大きな目を瞠いて、「なんでわかんの?」と聞き返してきた。
「塔矢、おまえ盤上見てないだろ?」
僕は笑ってうなずく。
「ああ、見てないよ。盤上も棋譜もね。でも、僕にはわかるんだ」
「なんだよ、なんでわかるんだよぉ」
去年の北斗杯の前後から見違えるように大人びた進藤だったけど、時々出会った頃の彼そのまま、やんちゃな口調でじゃれついてくることがある。
いまもそうだ。二人きりのエレベータのなかで、彼は出来そこないのヘッドロックよろしく、僕の首に腕をかけ自分のほうに引き寄せ、「白状しないとデコピンお見舞いするぞ」と脅してくる。
「進藤…!」
彼はこういった手荒いスキンシップをよくする。だから、「好きだ」と告白した数日後には、僕は進藤の匂いを覚えてしまった。
いまもそうだ。
進藤の腕に頭を挟まれて、痛いとわめきながら、僕は彼の匂いに抱かれている。
それは、清潔な匂いだ。
髪から香るシャンプーの匂いは、シーブリーズ。僕と同じ匂いだ。
チャコールのダッフルコートは、クリーニングから帰ってきたばかりなんだろう独特の匂いがあった。
僕の家とはどこか違う洗濯石鹸の匂い。
そんなものが交じり合って、進藤の匂いになる。
「ギブギブ」
僕はそう言って、片手で進藤の腕をパンパンと叩いた。
これはプロレスのルールらしい。降参の意思表示だと進藤が教えてくれた。
ギブアップという意味なんだろう。プロレスを見たことのない僕だけど、そのぐらいの想像は出来る。
「おまえ、すぐ降参すんのな。碁を打つときはこれでもかっていうぐらいしつこいくせにさ」
進藤は腕を外すと、からかう口調でそう言った。
「残念ながら、僕はレスリングのプロじゃなくて碁のプロだからね」
進藤は、僕の拙い冗談に、くすっと小さな声をあげて笑ってくれた。
その笑顔を目にするだけで、幸せな気分になる。
「で、なんで塔矢アキラ先生には、今日俺が満足してるってわかんの?」
「癖だよ」
僕は少し乱れてしまった髪を手櫛で直しながら、答えた。
「癖?」


(2)
「そう、癖。君は、満足のいく内容で勝つと、必ずね。こうゆうふうに……」
僕はそこで一旦言葉を切ると、彼の癖を実演して見せた。
「塔矢?」
「斜め後ろを振り返るんだ。それで、そこで夢から覚めたように、瞬きするんだ」
ポンと、緊張感の欠ける信号音がして、エレベータが一回で停まる。
「今日もだよ。今日も、顎を少し上げて、後ろを振り返っていた。
僕は今日、君の後ろの席だったからね。目に入った。あれってなんだろう……、一種のトランス……進藤?」
僕は思わず驚いた声をあげていた。
エレベータから降りようとしない進藤をいぶかしんで振り向くと、彼は呆然と立ち尽くしていた。
「進藤? 降りないのか?」
「え? あっ、ぁ……ああ、降りる。降りるよ」
顔色が悪かった。エレベータを待っている僕に、話しかけてきた彼とは別人のように思えるほど、生気のない表情だった。
「進藤、気分でも悪いのか?」
しかし、進藤は僕の問いには答えなかった。
「俺、いつもそうしてんの?」
「え?」
「だから、『癖』だよ!」
進藤が突然大きな声を張り上げるものだから、外来の人なんだろう。横を通り過ぎたお年寄りがびくっと肩を震わせていた。
「進藤、声が大きいよ」
僕は慌ててたしなめる。
「いつもじゃないよ。さっきも言ったとおり、会心の一局とでもいうのかな、君でなければ打てないような、そんな内容のとき…かな」
「そうなんだ……」
「そうだよ。でも、癖って厄介なものだよね。自分ではわからないんだから」
僕がフォローにならない言葉を言い募る間、進藤はただぼんやりと自分の手のひらを見つめていた。


(3)
僕は、お父さんの碁会所に誘うつもりだった。
進藤の『癖』を久しぶりに見たんだ。ぜひとも並べてもらって、検討したいと思ったからだ。
でも、進藤は「悪りぃ…今日はちょっと」と、断ってきた。
嫌だとは言えなかった。
血の気の失せた顔で、力なく笑う人間に無理強いなんて出来るはずがない。
それに、進藤が僕との検討を断るのは、これが初めてのことだった。
よほど、具合が悪いのだろう。
「送ってくよ」
「いい……、タクシー拾うから」
僕はますます驚いた。
以前、サイン会に借り出されたとき、主催者側が用意してくれたハイヤーを進藤は本気で嫌がっていた。
そのとき、タクシーだって乗りなれてないのに、ハイヤーなんて息が詰まると言っていたのを覚えている。
そんな彼が、自分からタクシーを拾うなんて言いだすなんて。
「心配なんだ」
僕は少し強い口調で言うと、結局棋院の人に頼んで、タクシーを呼んでもらった。
半ば無理矢理押し込むようにして、僕は進藤と一緒にタクシーに乗り込んだ。
「相変わらず、強引なヤツ」
進藤がため息混じりに言った。
「当たり前だろ」
恋人なんだからと続けたかったが、第三者のいる場所で言葉に出来るはずもなく、
苦い思いで飲み込むかわりに、シートの上に投げ出されていた進藤の左手を、そっと握った。
氷のように冷たい指先が、僕を不安にさせる。
「大丈夫」
進藤がポツリと呟いた。
「大丈夫なんだ」
それは、僕に話しているというより、自分に言い聞かせているような、そんな呟きだった。


(4)
「誰もいないのか?」
まだ昼間だったけど、電気のついていない家のなかは薄暗かった。
「今日、木曜だろ? 手合いのある日は、母さん、祖父ちゃんの家に行ってる。
 祖母ちゃんが正月にぎっくり腰やってからさ、家事手伝ってんだ」
「ふーん」

音のない家は、ひどく寂しく思えた。
進藤の家は、いつ訪ねてもテレビがついているって印象がある。
茶の間と台所にテレピがあって、おばさんがどちらにいるのかすぐわかる。
はじめて進藤の家で夕食を呼ばれたとき、テレビがつけたままだったことに僕は驚いた。
テレビを見ながら食事をするなんて、僕の家では考えられない。
罪のないバラエティ番組を見ながら、その日あったことを進藤は親に話して聞かせる。
その日の話題は、進藤の幼馴染の女の子のことだった。
ぼくも何度か会ったことのあるその子が、三谷というクラスメートと付き合い始めたらしい。
その三谷という人間と僕も会ったことがあると、進藤は話を振ってくれたのだが、残念ながら僕はその人物のことをまったく覚えていなかった。
僕が三将として進藤と対局したとき、三谷君は岸本部長と対局したらしい。
覚えていないため、せっかく話を振られてもうまく答えることの出来ない僕に、進藤は呆れたように言ったっけ。
「塔矢らしいよ」
その言葉は、僕をほんの少し寂しい気分にさせた。


(5)

「横になったほうがいいよ」
進藤のコートをハンガーにかけながら、僕がそう言うと、進藤は「大丈夫だから」と青い顔で笑った。
「塔矢は心配性だな」
進藤が困ったように笑う。
顔色は相変わらず悪かったが、少しだけ表情は戻ったようだ。
「進藤、お茶でも入れてこようか?」
「塔矢にそんなことさせられないよ。それより、打つか?」
進藤はベッドに腰を下ろし、後ろ手で自分の体を支えると、顎で碁盤を指し示す。
打ちたいのは山々だった。
進藤の体調が悪くさえならなかったら、今頃お父さんの碁会所で市河さんの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、今日の一局を並べていただろう。
だが、いつになく疲れているような進藤が気になって、打つ気になれない。
「今日はいいよ。それより、少しでも横になって欲しい」
「そしたら、おまえ……帰っちゃうんだろ?」
ちょっと………、この一言は胸にきた。
「帰らないよ」
上目遣いで進藤が僕の言葉を待っている。
「僕たちは、ずっといっしょにいるんだろ」
去年、お互いの気持ちを確認したとき、交わした約束。
進藤は、ほっとしたような表情で、笑ってくれた。
「いつものように遅くなるって言ってあるから、帰らないよ。
 それより少し横になって、体調が戻ったら一局打とう」
「今からでも、すぐ打てるぜ」
「何を言っているんだ。まだ顔色が悪いよ。進藤、台所借りていいか?」
「台所?」
「本当にお茶か何か淹れてくる。後、体温計どこにあるかわかるか?」



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