恋 Part 3 1 - 5


(1)
電源が落ちると、途端に部屋の中は静まりかえった。
いま、PCのモニターに見えるのは、表情のはっきりしない僕の顔だけだ。
昼間から見るには刺激の強いサイトをいくつか巡回し、最後の確認を済ませたけれど、正直、自信はない。
進藤とセックスをしたいと願うようになって、もう一ヶ月以上になる。
男同士のセックスが、どこを使って行うかは、知識として理解していた。
でも、女性とさえ経験のない僕に、具体的な行為の手順がわかるはずもなく、またそれを誰に聞けばいいかもわからず、少なくとも一週間はただ悶々としていたと思う。
そんなある日、PCで棋譜の整理をしていたとき、ふと検索することを思いついた。
天啓だと思った。
僕は、データを保存すると、すぐネットを繋ぎ検索ページを呼び出した。
打ちこんだキーワードは「同性愛」と「初体験」。
営利目的と興味本意のページや掲示板の多さに閉口したけど、根気良くいくつかのキーワードをさらに加え、どうにか目的に合致するゲイサイトを見つけることができた。
男性役をタチ、女性役をネコというのも、それらのサイトで得た知識だ。
僕は進藤を抱きたいと思っている。
でも、セックスがしたくて、進藤を相手に選んだわけじゃない。
進藤をより知りたいという願いを叶える為の、一つの手段としてセックスもあるんだと、僕は思う。
勿論、セックスという行為から、強い快感を得ることができるのも知っている。
進藤とのキスは、僕に深い喜びを与えてくれる。
単純に、唇を触れ合わせることが、気持いい。
それに、キスしているとき、誰よりも進藤の近くにいるんだという幸福感を味わえる。
その上、キスのときに見せる進藤の表情。
上気した頬、潤んだ瞳、震える吐息。
唇を離して、至近距離で見るその表情は、キスをした僕だけに許されたもので……。
そう思うと、たまらなくなる。
進藤は僕だけのものだと、苦もなく信じられる。
進藤が僕の所有物ではないことぐらい、誰に言われるまでもなく理解している。
でも、「好きだ」という気持さえ言葉にできなかった頃、僕は進藤が同門の和谷君や冴木さんと親しく話しているだけで、苛立たしく思えてならなかった。
酷い話、進藤が緒方さんにからかわれているのさえ、悔しかったんだ。


(2)
つまらないヤキモチ。
彼の一挙手一投足が、僕の気持を振りまわす。
それは、今でもそんなに変わらないけれど、キスをするようになって、前よりは少し増しになった。
欧米なら、キスはありふれたスキンシップの一つでしかないんだろうけど、ここは日本だ。
日本の常識として、キスは恋人たちに許された行為だ。
男同士だから、人目を忍ぶ必要はあるけれど、進藤は嫌がらない。
むしろ、軽く唇を触れ合わせるバードキスだけだと、「もっと」と言って自分から積極的に舌を吸ってくる。
それも最近だと随分頻繁になって、人の気配がないと僕たちは結構、恥知らずだ。
棋院のトイレや、階段の踊り場で、長いキスを交わすのも当たり前になってきた。
それまで、対局場で和谷君たちと親密な彼の姿に、少し腹を立てていたとしても、キス一つで進藤を取り戻したような気持になる。
以前芦原さんに、もっと余裕を持てよと言われたことがある。
それは勿論囲碁に関してのことだったけど、僕はどうやら先を急ぎすぎるきらいがあるようだ。
囲碁に関しては、それでいいと思う。
神の一手を極めようと思っているんだ。
その境地は、いつ到達するかもわからなければ、どのような道を辿れば正しいのかもわからない。いや、正しい道などないのだろう。
正しい瞬間はあるかもしれない。でもそれは後になって振り返ったときに、気がつくことだ。きっとその時、僕という碁打ちの辿った道があるのだろう。
それならば、その瞬間、瞬間を大切にするだけだ。だから、余裕なんて要らないと思う。
いまはそう思う。
進藤との恋愛にも、余裕なんてない。
いまだに進藤の些細な行動に、僕は一喜一憂してしまう。
それでも、キスをするようになって、少しは変わったと思うんだ。
だから、それをもっと確かなものにしたいから、次のステップに僕は進みたい。
そのステップが、セックスじゃないかと思ったんだ。
できるなら僕が抱きたいけれど、進藤が望むなら、僕が抱かれてもいい。
どちらにせよ。この件に関しては、僕も進藤も初心者だ。
堂々と学ぶべき相手もいない。
そんな僕にとって、ネットはありがたい教師だった。
それだけじゃない。ネットがなければ、僕は必要な小物を手に入れることもできなかったろう。
コンドームはまだどうにかなったかもしれないけれど、ローションなんて思いつきもしなかった。
女性と違うということはわかっていても、女性そのものがわからないんだから、その違いの具体的な面なんてね……、わかるはずないよ。
あとは、僕の要求を進藤が受け止めてくれるか、どうかなんだけど……。
楽観視はしていないけど、希望はあると思ってる。
だって……、キスのとき、さりげなく体を愛撫しても、嫌がらないし……。
初めの頃は、ただくすぐったがっていたけど、いまは反応が違う。
キスをしながら、髪をかきあげたり、腰骨の辺りをゆっくり撫でてあげると、甘い声を聞かせてくれるようになった。
大丈夫だと思うんだ。
進藤は、きっと受け入れてくれると思うんだ。
誠意を持って、気持ちを伝えれば、きっと……。
おそらく。
多分………。
そうこうしているうちに、約束の時間はやってきた。


(3)
「前から一度聞いてみたかったんだけど……」
保護者のいない気安さで、缶ビールを何本か空にしながら、進藤は真面目な面持ちで僕に尋ねる。
「なに?」
「先生って……、海外行く時も、和服なのか?」
僕はなんだか、バカらしくなってくる。
これでも!
これでも必死になって、逸る気持を押し殺し、日が暮れるのを待ってたんだ。
それなのに! 真面目な顔でなにを聞くのかと思ったら………。
「スーツも準備するようだけど、基本は和服みたいだね。今回は母も同行しているから、10日間の日程とは思えない荷物だったよ」
笑顔を心がけ、穏やかに返しながら、苛立ちだけは募っていく。どうやって切り出せばいいのかな。
両親が留守の家に泊まりにこないかと誘ったんだ。
僕の心中をある程度、理解してくれていると思ったのは、甘すぎたか。
「10日もさ、おばさんいないと、飯とか大変じゃない?」
「別にこれが初めてじゃないしね。朝はパンにして、昼はだいたい出先で食べるし、夜は…さっきの店が多いかな」
「ああ、あの店いいな。小料理屋って大人の行く居酒屋ってイメージだったけど、家庭的なメニューだよな」
「あそこは、緒方さんが教えてくれた店なんだ。君の口に合うか心配だったんだ」
「なんだよ、それ」
ビールの缶を頬に当てて、進藤が笑う。
「俺だって、いっつもいっつも、ラーメンばっか食ってるわけじゃないんだぞ。
あれ、美味しかった」
「あれ?」
「茄子とがんもどきを煮たヤツ」
「うん、美味しかったね」
「あれも。あれ、串に刺した肉、目の前で焼いてくれたじゃない。小さな七輪で」
「あれは、柔らかくて美味しかったよね」
僕が応じると、進藤は目を細めぐいっと、ビールを呷った。
3本を空にした進藤の目元は、ほんのり桜色に染まっていて、僕は目を離すことができない。
僕たちは、しばらく言葉を忘れて見つめあっていた。
進藤は空になった缶を、また頬に押しつける。
汗をかいていた缶から、水滴が一滴、進藤の頬に移った。それが、ゆっくりと重力に引かれて滑り落ちる様を、僕は計らずも凝視していた。
「なあ」
沈黙を先に破ったのは進藤だった。
「今日は……」
「今日は?」
「今日はなんで、キスしないの?」
僕の胸が、怪しくざわめいた。


(4)
「いいの?」
「したい」
必死になって押し殺していたものが、一気に騒ぎ出す。
僕の内で、声高にその存在を主張する。
僕は、にじり寄った。
膝立ちで進藤の体を抱きしめると、腰を落として唇を合わせる。
軽く触れ合わせて、すぐ離れた。
進藤が上目遣いに僕に不服そうな視線を向ける。僕はそれに気づいていたけれど、素知らぬ顔で、僕の視線を奪った水滴を唇で探した。
それは、進藤のなめらかな頬に、しっとりとした痕跡だけを残していた。
無理だとわかっていたけれど、拭うつもりで唇を滑らせる。
「くすぐったい……」
「いや?」
「嫌じゃないけど……もっと……」
「もっと?」
「もっと……ちゃんとしたヤツ」
「ちゃんとした?」
「聞くなよ、バカ」
「激しいヤツ?」
「だから、聞くなって」
僕は、抱きしめていた腕を延ばすと、進藤の二の腕を両手でつかみ、正面から彼の瞳を見つめた。
「キスだけじゃすまないよ。それでもいい?」
進藤の大きな瞳が、軽く見開かれた。
「いい?」
僕は躊躇している進藤に、畳み掛ける。
「キスしてくれる……なら」
僕は苦笑を零した。
彼は、本当にわかっているのだろうか。
僕がなにを求めているのか、わかっているのだろうか。
「好きなだけ……、進藤が欲しいだけキスしよう」
進藤は、ゆっくりと瞬いた後で、幽かに頷いてくれた。


(5)
交代で、風呂に入った。
僕としては、できることなら一緒に入って、事前準備をしたかったけれど、ネットで得た知識だけでは自信がなかった。
排泄に使う場所だから、必要だとは思ったけれど、いきなりそんな手順で事を進めるのには、抵抗があったんだ。
少しでも進藤に負担をかけたくなかった。
きっと行為としては正しいんだと思う。でも、経験のない身でそこを洗うのは、お互い精神的な負荷が大きいと思ったんだ。
もしも、進藤が逆の立場を求めた場合を考えて、僕は自分で自分に行ったけど、かなり堪える。
生々しい。
自分でやっても、これだけ抵抗があるんだ。何も知らない進藤にできるはずがないし、自分でやってと言えるはずもない。
何事も経験。積み重ねが大事と、僕は割りきることにした。
風呂から上がり、自分の部屋に行くと、進藤はベッドに腰掛けてテレビを見ていた。
僕が襖を閉めると、チラッと盗み見る。
その一瞬の仕草で、進藤なりにわかっているのだと気がついた。
静まりかけた火が、また勢いを取り戻す。
中3の二学期、二年四ヶ月ぶりに進藤と対峙したあの日から、僕たちは随分親しくなった。
お互いの家に泊まるのも、いまではそう珍しいことではなくなった。
だから、わかる。
いま、進藤が緊張していることを。
昔と比べて、言葉数が少なくはなったけれど、進藤にはいつも陽のイメージがある。
うるさいわけではないけれど、決して寡黙なタイプでもない。
そんな彼が、バラエティ番組を無言で見つめている。
僕は、わざと彼の隣に腰を下ろした。
ぎしっとベッドが軋んだ。
彼の肩がわずかに強張った。
僕の心臓は凄まじい勢いで、鼓動を打つ。
僕は囁いた。
「好きだ」
始まりの言葉。
進藤は答えなかった、だが、上から覗き込む僕の首にそっと華奢な腕を絡ましてきた。
これ以上雄弁な答えがあったろうか? 
僕は進藤の唇に、優しくくちづけた。
僕を受け入れてくれた。
そう思った。



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