光彩 1 - 5


(1)
ゆっくりと名残惜しそうに、唇が離れた。
ヒカルは、どんな顔をして相手を見ればいいのかわからず俯いてしまった。
彼が自分に何を望んでいるのかは、おぼろげながらもヒカルにもわかっていた。
ヒカルだって、友人たちとその手の話題を口にしたことがないわけではない。
ただ、単語を知ってはいても、その言葉の持つ深い意味までは理解してはいなかった。
未知の行為に対する恐怖ととまどい、
そして彼に対する好意がない交ぜになってヒカルの頭を混乱させた。
自分が今どんな風に彼には見えているのか?
自分の顔色は青いのだろうか?それとも赤いのだろうか?
どうすればいいのだろうか?
考えれば考えるほど混乱し、ますますヒカルは顔を上げられなくなった。


「ごめん・・・。いやだった?」
自分よりも少し背の高いアキラがかがむようにして、ヒカルの顔を覗いてきた。
瞳がぶつかった。
まっすぐ見つめてくる瞳。
恥ずかしくて、ヒカルは思わず目を閉じてしまった。
アキラが自分の頬に触れかけた手を止めた。
しまった!今の態度はいやがっているように見えただろうか?
ヒカルは大慌てで首を激しく振った。相変わらず顔は俯いたままだ。
アキラが自分を見つめているのがわかる。
どうしようか・・・。どうすればいい?
ヒカルはそっとアキラの手を握った。
体がふるえる。
ヒカルにはそれが精一杯だった。

アキラがヒカルの手を握り返す。
「帰ろうか。」
俯いたままのヒカルに声をかけた。
アキラは、ヒカルの手を引いて歩き出した。
ヒカルは、アキラの一歩後ろをついていった。


(2)
アキラは大人受けのいい子だった。
物心ついたときから大人に囲まれて育ってきたので、自然と礼儀作法が身に付いたのだ。
それに引き替えヒカルは、言葉使いは悪いは礼儀はなっていないはで、
しょっちゅうお小言を受けていた。
注意されても、本人は悪びれず「ごめんなさい。」と舌をぺろっと出して謝る。
その様子から見ても本人は全く気にしていないのがわかる。
周りの大人たちは「しょうがない奴だ。」と言いながらも、
口元に笑みが浮かぶのを隠し切れない。
アキラもそんなヒカルをほほえましく見ていた。

ヒカルはアキラにとって初めての友人だった。
親しい人は大勢いるが、友人と呼べるのはヒカルだけだった。
年の近いものはアキラの大人びた雰囲気に圧倒され、
声をかけるのをためらった。
学校の級友たちでさえアキラに近づけずにいた。
アキラはそれを気にしたことはなかった。
そんなことより、囲碁の方が大事だった。


出会ったときのことを思い出す。

初めて自分を負かしたヒカルにアキラは一目おいていた。
それなのに次にあったときは囲碁を侮辱した。
頭にきた。そんな相手にアキラは完膚無きまでに叩きのめされた。
自分が不甲斐ないのだと努力した。そして、再びあったときの彼は・・・。
アキラはヒカルを見限った。
自分が見限った相手を周りはみんな気にする。
見込み違いだと思いながらも、自分も心のどこかでヒカルを気にしていた。

ヒカルのことを考えると頭に血が上る。
自分が冷静でなくなることは自覚している。
普段の自分ではあり得ないことだった。
初めてあったときからそうだ。
ヒカルに腹を立てるからそうなるのか。それともほかに理由があるのか。
自分を感情的にさせるのはとにかくヒカルだけだった。
見捨てておきながら、気になってしょうがなかった。
自分はヒカルに振り回されていると思った。

あの対局の後、ヒカルは知人から友人へと昇格した。

そして今・・・自分はヒカルとの関係をどうしたいのだろうか。

心は決まった。


(3)
ヒカルを囲碁の世界へ導いたのは佐為とアキラだった。
師匠の佐為は、海へと続く大きな川の流れの様であった。
緩やかに、優しく時に厳しく海へと送り出してくれた。
アキラは、星だった。北極星の様な・・・。
道しるべであり、目標だった。
いつでも見上げればそこにアキラの背中が見えた。

アキラは自分と同じ年とは思えない相手だった。
礼儀正しく冷静で、いつもうるさい自分とは大違いだった。
そうかと思えば、案外気性は激しく、炎のように自分を責め立てた。
ヒカルは、アキラの囲碁にかける情熱の凄まじさに圧倒されながらも、
うらやましく思っていた。
自分もいつかアキラの様になりたいと思っていた。

そのアキラが自分を好きだと言う。
ヒカルはまだ子供だった。
もちろんアキラを好ましく思っていることに間違いはない。
でもその感情の意味は分からない。
今までならわからないことは、佐為に何でも相談できた。
佐為は大人で、お互いにふざけあっていても、
それは自分にあわせてくれていたのだと、ヒカルにもわかっていた。
もう佐為はいないのだ。
自分はちゃんと決別したのだ。それでも・・・。
「佐為・・・あいたいよぉ」
口に出してみた。
涙が出てきた。


(4)
アキラはヒカルの唇の柔らかさを何度も思い出していた。
ヒカルが情緒的にはまだ幼い子供と同じだと言うことはわかっている。
そんなヒカルが愛しいのだからしょうがない。
自分が早熟だったのでよけいにそう思う。


アキラにとって緒方とのことは、好奇心からだった。
緒方にとっても、ただの退屈しのぎだったのに違いない。
もちろんその行為はお互いに快楽をもたらすものだ。
でも、それだけだ。
緒方との関係は対局に似ている。
お互いに相手をいかにねじ伏せるか。
相手の手を読み自分を有利に運ぶにはどうするか。
そんな感じだ。

アキラはヒカルへの思いを自覚した後も、緒方との関係を続けていた。
ヒカルを思い、体が熱くなってたまらないときに、緒方に冷まして貰うのだ。
アキラは、緒方を利用しているのだ。
緒方も同じ様なものだろう。

緒方の手が自分の体に触れる。
緒方の指―あのしなやかな自在に石を操る指先―が
与えてくれる快楽を追いながらも、頭のどこかがさえていた。
口づけを交わしながら緒方を盗み見た。
緒方も冷めた目で自分を見ていた。
体はこれ以上ないくらい昂ぶっているのに、気持ちは冷めている。
ボクと緒方さんは似ている・・・。そう思った。


ヒカルとだったらどんな気持ちだろうか・・・。
思うだけでもうたまらなかった。
緒方との行為を自分とヒカルに置き換えてアキラは自分を慰めた。
ヒカルの体に触れたい。
ヒカルの体に口づけたい。
心臓の鼓動が早い。呼吸がどんどん荒くなる。
「進藤・・・進藤!!」
目の奥が熱い。何も考えられなくなった。

手の中に吐き出したものを始末しながら、ため息を一つついた。


(5)
朝がきても、まだ、ヒカルは自分の気持ちを整理できていなかった。
いくら考えてもわからない。
アキラが好き。これは間違いない。でも・・・。
キスをされたとき、驚いた。
そんなこと考えたこともなかった。けど、抵抗もしなかった。
アキラは大事な友人でライバルだ。本当にそれだけ?
嫌か?と聞かれてあわてて首を振った。これも事実だ。
ただアキラが離れていくのは嫌だった。それだけは絶対に嫌だった。

みんな自分の気持ちにどうやって折り合いをつけているんだろうか。
自分が子供だから理解できないのだろうか。
大人になればわかるようになるのだろうか。

佐為に側にいてほしい。
「佐為・・・」
佐為はいない。
誰かに聞いてほしい。
「佐為・・・オレわかんねぇよ・・・」
誰かに助けてほしかった。


階下から母の呼ぶ声が聞こえる。
「起きなさい。ヒカル。遅れるわよ。」
今日は大事な手合いの日だった。
大きなため息がでた。


ヒカルは棋院に行きたくなかった。
混乱した頭のままでアキラにあいたくなかったからだ。
どんな顔してあえばいいんだ。
どうしよう。遅刻していこうか。
朝はあわずにすんだとしてもアキラのことだ、
早々に勝負をつけて自分を待つに違いない。
そんなことをあれこれ考えているうちに、目的地に着いてしまった。



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