邂逅 1 - 5


(1)
 「それでね…緒方さん、進藤が……」

 興奮の冷めやらぬ口調で、アキラは熱っぽく語る。互いを熱く貪りあったばかりのアキラの目には、
まだ欲情の色が濃い。目を潤ませ、頬を上気させたままの彼の口から紡がれる言葉は、
ヒカルのことばかりだ。
 最近は、何時もそうだ。アキラの口からヒカルのことが語られない日はない。セックスをした後は、
特に饒舌になるようだった。

 緒方は軽くガウンを羽織ると、ベッドを降り、キッチンへと向かった。片手に缶ビール、
もう片方の手にはミネラルウォーターのビンを持って寝室に戻ると、アキラが少し拗ねた様子で
待っていた。話の途中で、出て行ったのが気に入らなかったらしい。
 無言で、ビンを差し出すと、自分の喉が渇いていることに、今まで気が付いていなかったかのように、
アキラはそれを一気に呷った。「ふー」と、小さく息を吐きながら、手の甲で口を拭う。その
仕草が妙に艶めいて見えた。そのまま視線を落とすと、白い胸や腹に無数の紅い痣が浮かんで
いるのが目に入った。緒方は思わず視線を逸らした。そのまま見ていたら、せっかく鎮まった
欲望がまた、頭を擡げそうな気がした。


(2)
 アキラと関係を持って、もうそろそろ二年になろうとしていた。あのころの彼は、酷く自棄になった。
全てに対して、無関心で、それまで彼の全身を包んでいた覇気がまるっきり消えてしまっていた。
と、同時に毎日うるさいほど語っていたヒカルのことをまるで口にしなくなっていた。

 気晴らしにと、緒方は彼を自分のマンションへ招いた。珍しい棋譜が手に入ったので、
それを見せるつもりだった。

 和やかに時間が過ぎていった。
「飲むかい?」
緒方はアキラにビールの缶を振って見せた。それに対して、アキラも優しい笑顔で返した。
「いただきます。」
彼がビールを飲むのは初めてではなかった。緒方が教えたのだ。アルコールだけではない。
良いことも悪いこともみんな教えた。時には、真面目な芦原が、眉を顰めることもあったが、
こういったことを教えるのは年長者の役目とばかりに、積極的にアキラに勧めた。そして、
アキラも飲み込みの早い優秀な生徒だった。

 とりとめのない話を続けていたが、何気なくヒカルのことを口にした途端、アキラの形相が
一変した。
 切れ長の瞳は怒りに満ち、激しい輝きを放っていた。唇を一文字に引き結び、怒声を必死で
堪えるかのように振るわせた。


(3)
 その姿を美しいと思った。もともと容姿が優れていることもあったが、怒りが彼の美しさを
より一層引き立てているような気がした。怒りが彼の原動力であるかのように、酷く輝いて見えた。
 緒方は、吸い寄せられるように彼の側へと近寄った。繊細な顎を軽く持ち上げ、そこに自分の
唇を重ねた。たかだか、コップ一杯の…五パーセントばかりのアルコールに酔っていたのかもしれない。 
 アキラは抵抗しなかった。緒方の手が身体をまさぐり、シャツのボタンを外し始めても
身動ぎもせず、 黙って身を委ねてきた。
 アキラが自分に対して恋だの愛だのと言う感情を持っていたとは思わない。彼はただ、
性に対する純粋な好奇心と、心の中の靄を吐き出す場所を求めていただけだ。
 ヒカルへの絶望と怒り…そして、切り捨てようとしても何故か出来ない自分への苛立ちと
戸惑いが彼の胸の奥で荒れ狂っているのがわかった。


(4)
 初めてだというのに、アキラは貪欲に緒方を求めた。その烈しさに緒方の方が不安になった。
「ん…ァ…緒方…さん…もっと…」
荒い息の下から、苦しげに求めてくる。緒方はそれに応えるように、腰の動きを早めた。
 快感よりも苦痛の方が勝っているのは、表情を見ればわかる。それでも、緒方はやめようとはしなかった。
アキラの潤んだ瞳が、掠れた甘い声が、それを許さなかった。
「アァ…」
くぐもった呻きを上げ、アキラが果てた。瞼を閉じて、荒く胸を上下させている。
「大丈夫か?」
額に張り付いた前髪を払ってやると、アキラは億劫そうに目を開けた。 その目は緒方を
すり抜けて、どこか遠くを見ているようだった。

 それからしばらくの間、アキラは緒方に近寄ろうとしなかった。緒方もアキラに無理強いは
しない。二人とも表面上は以前のように、仲のよい兄弟弟子として振る舞っていた。
 あれが一夜限りの夢だというなら、それはそれでよかった。実際、夢の中のように、現実感が
伴わない不思議な時間だった。


(5)
 緒方はアキラを手に入れたいと思っていたわけではない。あれは―そう…成り行きだ。
雰囲気に飲まれただけなのだ。そう思って、忘れることにした。彼も同じだろう。緒方もアキラも
互いに近づきすぎないように気を張っていた。
 しかし、これと、不抜けたアキラを放っておくこととは別問題だ。自分は切り札を持っている。
それが彼の起爆剤になればと思った。研究会の日、緒方はアキラを誘った。

「今度の日曜あいているかな?」

その一言が二人の危うい均衡を崩すことになってしまうとは思ってもいなかった。


 緒方はアキラを棋院に連れて行った。
「なんだ…棋院じゃないですか…ここで何をするんです?」
シートベルトを外しながら、アキラが問いかけてきた。
 緒方は含み笑いで返した。アキラは不快そうに眉を寄せたが、それを口にはしなかった。
「車を止めてくるから、先に行っててくれ。」
言われるまま黙って自動車を降り、六階の大広間へと向かう。その後ろ姿を緒方は楽しそうに
見送った。


 その夜―アキラは緒方のマンションへやってきた。



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