敗着─交錯─ 1 - 5
(1)
棋院のドアを潜り抜け、フロアを横切る。
「進藤、オマエ最近元気ないなあ。何かあったのか?」
「何もないけど・・・?」
「ふうん」
和谷にしてみれば、いつもは元気一杯という感じの進藤が、今日は塞ぎ込んでいるように見えた。いや、ここ数日、進藤からは以前のような生気が感じられなかった。
エレベーターが開き、見覚えのある顔が出てきた。
ぺこりとお辞儀をしながら隣を盗み見る。
進藤も小さく一礼しただけで、すれ違った。
「おい、進藤」
その人物が完全に向こうへ行ってしまったのを確認してから、尋ねた。
「お前、緒方十段とは顔見知りじゃなかったのかよ」
「え?別に・・・」
曖昧に言葉を濁し、口の端を無理に上げようとしている。
「研究会にも誘われたのに?」
「前はな・・・」
「ふうん・・・」
腑に落ちなかったが、今日は森下師匠の研究会の日。進藤は以前に塔矢門下の研究会にも誘われたことがあるが、今は森下門下で研究を重ねている。今更誘われても困る。
気を取り直して扉を引いた。
「緒方先生、こちらです」
「ああ・・・」
うわの空で返事をする。
進藤の顔を見たのは、あの日以来初めてだった。
(完全に無視してやがる・・・あのガキ)
何故だか心が苛立っていた。
だが声をかけることは憚られた。プライドが邪魔をしていたのと、なにより何と言って話しかければ良いかが思い浮かばなかった。
久しぶりだな──
(オレはタイトルホルダーだぞ・・・)
体は大丈夫か?
(何をしたんだ・・・)
整理のつかない頭で部屋に入った。
(2)
水槽に取り付けた蛍光灯が淡い光を放っている。
前に座り、じっと熱帯魚を見つめている進藤の顔を仄青く照らしていた。
何をするわけでもなく、さっきからずっと水槽を眺めている。
仕事を終えマンションに帰って来て、ドアの前にしゃがみ込んでいるコイツを見た時は回れ右して駐車場に引き返しかけた。
棋院ですれ違った時から数時間と経っていない。
ブスッとした表情で口を尖らせ、あからさまに機嫌が悪そうだった。
「おい、ここで何をしてるんだっ」
「別に、何もしてねーよ」
「…とにかく入れ。寒かっただろう」
「いーよ、オレ帰るっ」
立ち去ろうと向きを変えた肩を掴むと、引き寄せ耳打ちした。
「…制服がウロウロしてると目立つんだ。言うことを聞け」
「制服の女がうろついてるよりはマシだろ?」
「おまえオレを何だと思ってるんだ」
憎まれ口に付き合いながら、鍵を開け金属製のドアを開いた。
それからだ。
入ってくる時はうるさかったのに、部屋の空気に触れた途端だまりこくってしまった。
上着を掛け戻ってくるとソファに腰掛ける。
(誰が座って良いと言ったんだ…)
ちゃっかりと自分の椅子に座っている進藤は、立てた膝に顎を乗せ、もう片方の脚を投げ出し水槽を見つめている。
(…海王の制服よりは地味だな)
有名進学校の制服を思い浮かべると、進藤の変哲のない学ランと比べた。
(3)
「アキラとは、もういいのか?」
我ながら偽善的なことを訊いた。
「・・・・・・・・」
少し顔を横に向け、また水槽の方へ向き直る。
「・・・・あのことなら、もういいぞ」
「・・・・?」
椅子を回した進藤の、驚いて困惑した顔が見えた。
「アキラの代わりは、もういい。あれは反故だ」
「ホゴ・・・」
「もうあれきりだ。アキラの部屋へ行くなり何なりお前の好きにすればいい。オレはお前達二人に付き合う気はない。帰るんだ」
何かを言いたそうな口の動きを無視して続ける。
「もう、ここへは来るな」
沈黙が流れた。
進藤は俯き、立てた足の爪先をいじっていて表情が読めない。
「帰れ。親御さんも心配してるだろう」
”先輩棋士”らしく諭す。
「・・・・泊まってくるって言ってきた・・・・」
「・・・何処にだ」
靴下の先を引っ張りながらもそもそと答える。
「オレと同期の、プロ棋士。今日、一緒にいた奴、そいつん家。そいつ、一人暮しだから」
昼間の光景が頭に浮かぶ。隣にいた同じ年恰好の少年か。
(───お泊まりしにいく女子高生か、おまえは・・・)
呆れてものが言えなかった。
「他に行く当ては──」
「緒方先生っ」
急に立ち上がると言った。
(4)
「オレ…」
顔を上げ、何かを言おうとしたがまた俯く。後が続かないようだった。
「…とりあえず今日は家に帰れ。送っていこう」
車のキーを取り進藤の脇を通り抜けようとしたその時
「先生、」
進藤の腕が首に絡みついた。ぶら下がるような格好で抱きつかれ、思わずバランスを崩しそうになる。
「進藤、…帰れ」
言葉とは裏腹に、引き離そうと肩を持った手に力が入る。そのまま背中に摩るように滑らせて、背伸びをしている体を支えた。
「…進藤…帰るんだ…」
髪の毛が顎に触れシャツの襟元に吐息がかかる。
「オレ、帰らない、ここにいる」
駄々をこねるように縋りついてくる。
進藤の頬が顎をかすった。
「帰らない…」
繰り返された囁きに理性を失いかけた。
首に回された腕に力が込められ、進藤の顔が近づき幼いキスを受け入れる。
「…帰れ…」
吐息が重なり唇を吸い合う。
小さい体を抱きしめ膝を折り、崩れるように床に倒れ込んだ。
(5)
進藤の体は前と同じ味がした。
「ん…」
足を絡ませると、硬いものが当たった。
「早いな…」
「るせえよ…」
抵抗されないのをいいことに、学生服のボタンに手をかける。
「…今度は、破るなよ…」
「分かってる…」
慎重に脱がせると、もう一度顔を見た。
「先生も、脱いでよ…」
頬を染めてワイシャツに手を伸ばしてくる――が、
「……」
ネクタイのノットに指を挿し込み困惑していた。
「ネクタイには慣れてないのか…」
(もういいよ)と進藤の頭をなで、軽く手を握って離させた。
片手でネクタイをほどいて、遠慮のない視線を感じながらシャツのボタンを外していく。
肌を露にすると、飛びつくようにしがみついてきた。
少し鳥肌が立つような感覚と、人肌の温もりに包まれる。
「向こうへいこう…床は冷える」
「ん…」
素直に頷くと、おとなしく抱きかかえられた。
シーツが手の平にあたり、その上に進藤の髪が敷き込まれる。
「こら、離せ…」
抵抗はしなくなったが、まだ不安なのかぎゅっとしがみついてくる。
訳のわからない感情が湧き上がり、また消える。
体重をかけないよう注意して抱き合い、頬をなでると閉じられた瞼を指でなぞった。
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