眩暈 1 - 5


(1)
折りしもラッシュアワーでごった返す時間帯。
乗りこんだ満員電車で、ヒカルは人の波に押し潰されながらも、車両の角の壁に
顔と体を向けて、電車が振動するたびに倒れそうになる衝撃と息苦しさに眉を顰めた。
疲労もしていたし、冬だと言うのに熱気を帯びているような満員電車の空気に辟易は
したものの、先ほどまでの友人達と過ごした時間を思い出して、ヒカルは少し心が軽くなる。
今日は対局の帰りに、未成年にも関わらず、和谷と冴木と一緒に居酒屋へ赴いた。
その店は冴木の知り合いの店であり、棋士も良く足を運ぶと言う。初めての居酒屋に
はしゃぎまくってハメを外してしまった恥ずかしさもあったが、それよりも何よりも楽しかった。
ほろ酔い気分のまま、また行きたいなあなど考えていたその時―――。

背後から脚の付け根、臀部に至る線を何者かの手にまさぐられた、ような気がした。
しかし、もしかしたらこの満員電車の中で、他の客の荷物が当たっただけかも知れない。
背筋が震えそうになるのを必死で抑えるヒカルに、その手はやがて明確な意思を持って
ヒカルの下肢を弄び始めた。ジャージのズボンの上から、緩やかな双丘のラインを
確かめるように撫で回していたが、やがてその割れ目に強く指の腹を押し付けるような
動きに変わる。ヒカルは体を竦ませながら、大胆な手の動きに息を呑んだ。
(……まさか、痴漢?)
男の自分が?―しかし、今だ成長過程にあるヒカルは、それほど高い身長ではなかったし、
骨格も男性特有のがっちりとしたものではない。おそらく間違えられたのだ。
しかし、抗議も助けを求める声を出す事も出来なかった。男のくせに、男なのに、
痴漢に遭ってしまった…そんなことを言えるはずが無い。ヒカルはただ黙って
耐えるしかなかった。ヒカルの様子に気を良くしたのか、手の動きは無遠慮に、
更に大胆なものへと変わっていくのだった。


(2)
ヒカルが冬にはいつも好んで着る少し丈の長いダッフルコートのおかげで、行為は殆ど人の目に
触れられるものではなかった。第一この満員電車の中で、誰が他人を気にかける余裕が
あっただろうか?ヒカルの前は角の壁であり、背後から密着している人物は一人なのだった。
割れ目を分け入るようにしていた手が、今度は腰のラインを伝って、前へと伸びる。
腰を抱えられるようにされて、ヒカルは「ヒッ」と息を詰めた。人と人、壁の間を縫って
股間に手を伸ばされて、ヒカルは更に体を強張らせたが、僅かに安堵もしていた。
そう、これで女性だと言う誤解も解ける、この痴漢も驚いて行為を止めるに違いない。
…しかしその期待が実ることはなかった。まるで最初からそれが目的だったかのように、
腕はしっかりとヒカルの腰を抑えつけ、その股間をやわやわと揉みしだくようにしてきた。
声を危うく漏らしそうになってしまって、ヒカルは慌てて歯を食いしばりはしたものの、
それでも息が上がるのを抑える事は出来ない。だが、満員電車の中の様様な雑音に掻き消されて、
ヒカルの熱い吐息は誰にも気付かれる事は無かった、ヒカルを追い立てている手を除いては。

布地の上から触れていたその手は、今度はヒカルのジャージの紐を解いて、大胆にも
ズボンの中に手を突っ込んできた。これには流石のヒカルも我慢できずに、後ろを振り返って
声を出そうとした刹那、反対側の手に唇ごと顎をつかまれて声と動きを封じられてしまう。
ヒカルのペニスは先ほどからの悪戯ですでに勃ち上がり始めていたが、下着の中にすら
侵入してきた手に包むように握りこまれると、更に顕著に反応してしまう。
下肢から送られてくるダイレクトな感触と、口元を抑えられて上手く息が繋げず酸欠状態に
陥るような錯覚に両足は震え、腰を支えられていなければまともに立っている事すら難しかった。
ヒカルの大きな瞳には涙が溜まり、抑えつけられ反らした喉元からはくぐもった吐息が
弱弱しく洩れていた。ペニスを包む手の動きは緩急をつけて扱き始め、ヒカルを更に追い詰め
高みへと導いていく。先走りの液体に助けられ、擦れる感触が滑らかなものになる。
容赦の無い手の動きに攻め立てられ、ヒカルは限界が近い。その目から、一筋涙がこぼれた。


(3)
ヒカルの口元を抑えつけていた手が不意に動いて、その頬に落ちた涙を拭う動作をした。
その気遣わしげな手つきに驚いて、ヒカルは大きく肩を震わせる。
何故だろう?こんな事を…こんな酷い事をされているのに、どうして優しくされていると
感じてしまったんだろう?自分自身で、内から湧き上がった感情が理解できずに戸惑う。

ふと。
ヒカルのうなじに、サラサラとした感触が落ちてきた。それは、綺麗に切りそろえられた、髪。
まさか…?ヒカルは必死に自分の考えを否定する。嘘だ、そんなはずはない。
何故なら、それは余りにもヒカルが良く知っている感覚だったから。
少し自由になった首を動かして、恐る恐る振りかえる。そこには…。
そこにはやはり、ヒカルが思い描いた人物の、綺麗な綺麗な笑顔。
「…と……ッ…!」
悲鳴を上げてしまいそうになるヒカルの口を手で再び塞ぎ、そのペニスに伸ばした
手の動きを再開する。亀頭を集中的に弄くられ、ヒカルは息も絶え絶え。
しかしその嬌声は行き場を失って、くぐもった音を出すだけだった。そして…
「……―――っ!!」
くりくりと尿道を広げるように指を動かされた瞬間、ヒカルはついに我慢しきれず、
大きく痙攣したかと思うと、下着の中に射精してしまった。

電車は駅に到着し、車内アナウンスと共に大勢の客がぞろぞろと降りていった。
さっきの満員電車が嘘のよう、車両の中にはもう人の姿はまばらで、空席が目立つ。
既に解放されたヒカルは、列車が再び動き出すと、へたりとそこへ座り込んでしまった。
ダッフルコートのお陰で他人の目に触れる事は無かったが、濡れた下着の感触が
気持ち悪かった。未だに荒く息をつくヒカルに、その原因を作った背後に立つ人物が
楽しそうに声をかける。妖しいほど綺麗な笑みを浮かべたままで。
「そのままじゃ気持ち悪いんじゃないか?」
車内の壁に凭れ掛かるように座り込んだヒカルが、潤んだ瞳でゆっくりと見上げたのは、
塔矢アキラその人だった。
「ボクの家、近くなんだけど。良かったら、来る?」


(4)
アキラの誘いに答えず、ヒカルはただ黙って息を整えていた。そんな様子に苛立ったのか、
アキラはヒカルの返事を待たずに、その腕を取って引っ張り起こすと、次の停車駅で一緒に降りた。
ヒカルは何も言わずに、手を引かれながらふらふらと着いて行く。
歩くたびに濡れた下着の感触が不快ではあったが、ヒカルは黙って足を動かした。
冬の夜道の風は頬に冷たく突き刺さる。熱っぽい体と頭を急速に冷やしていった。
男が二人で、手を繋いで歩いてるなんて。やっと頭が回転して来たヒカルは、急に気恥ずかしくなった。
今は人通りがないから良いものの、誰に見られるか分かったものではない。
「塔矢、離せよ。一人で歩けるから…」
少し怒ったように声をかけるが、手を離してくれる気配は無い。もう一度声を出そうとすると、
アキラは立ち止まってゆっくりと振り返った。その顔は街灯に照らされて、いつもより青白く見えた。
「でもキミは、手を離すとどこかへ行ってしまうじゃないか?」
「どこにも行かねーよ。ちゃんと歩けるさ」
「どうだか」
アキラは揶揄とも安堵ともつかないような笑い方をした。ヒカルにはそれが余計に不気味だった。
繋いでいた手が離れたと思ったら、今度は肩を掴まれてキスをされた。触れるだけのキスだった。
「おまっ…こんなところで!誰か来たらどうするんだ!」
「お酒臭いね」
「人の話聞いてんのか?おい!」
「同門の人達と飲んで来たんだろう?未成年の癖に」
「な、何だよ?お前には関係ないじゃん…」
ヒカルのその台詞に、アキラの瞳の色が変わった。


(5)
「…随分はしゃいでいたようだったね。同門の人達と過ごすのは、そんなに楽しかった?」
ヒカルは絶句した。あの居酒屋にアキラが?全然気がつかなかった。まさか…。
「僕も芦原さんに連れて行かれたんだよ。もっとも、僕は烏龍茶しか飲まなかったけど」
ヒカルからは見えないように席を取り、ヒカルが店を出るのを見計らって会計を済ませたのだと、
アキラは説明した。芦原は店で酔いつぶれていたので、置いて来たらしい。
そこまで聞いて、ヒカルはさっきの出来事を思い出してしまった。真っ赤になりながら口を開く。
「だからって、何でお前…電車であんな事を…お前、おかしいよ…お前…」
「あんな事って何?こんなこと?」
口の端を曲げて笑いながら、アキラはヒカルのズボンに手を突っ込んだ。
冷たい指で揉みしだかれると、さっきまでの熱が浮上してくる。ヒカルは身を捩って抗議した。
「あぅっ!…や、やめろ…やめろよ、こんなところで、塔矢!」
「…ボクの前ではあんなに楽しそうに笑った事は無いのに、友達の前だと随分素直なんだね?」
「な、なに?お…まえ、何いって…はっ……」
「ボクより、彼らと一緒にいた方が楽しい?ねえ、進藤…?」
「や、ヤメ…やめろって、塔矢!」
ヒカルが大きく体を揺すると、アキラはあっさりとその体を解放した。
しかしヒカルはまた体の中に熱が燻り始めたのを自覚したし、アキラはそんなヒカルを見て愉快そうに笑う。
「お楽しみは家まで取っておく事にするよ。おいで」
そう言ってアキラは再びヒカルの手を掴んで歩き出した。
…まただ、眩暈がする…まるでまとまらない意識の中で、ヒカルは考える。
―――最近の塔矢は異常だ…どうしてオレ達、こんな風になっちゃったんだろう?



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