身代わり 1-5


(1)
「……佐為……」
視線がからまった瞬間、ヒカルはほとんど条件反射で軽く唇を突き出した。
佐為とキスをするようになったのは、ヒカルの見ていた洋画がきっかけだった。
何でもないシーンで交わすキスを、不思議に思った佐為が尋ねたのだ。ヒカルはこのキスは
あいさつであり、また親愛の情をあらわしているのだと説明した。
すると佐為は興味深げにうなずいたあと、ふいに身体をかがめてきた。
あっと思う間もなく、ヒカルの眼前には佐為の秀麗な顔があった。
触れる感触はしなかったのに、ヒカルはたしかに佐為の唇を感じていた。その証拠に、胸の
鼓動の音が大きくなっていた。
ヒカルは文句を言ったが、それは照れていたためで、本当はうれしかった。
そんなヒカルの感情はもちろん佐為にも伝わっており、その後たびたび唇を寄せた。
街中で、人目をはばからずに―――もっとも、佐為の姿はヒカル以外の者の目には映らない
のだが―――何度も何度も。
そしてそのたびに怒るヒカルに、悪びれもせずほほえんでいた。
ヒカルはいつも目を見開いたまま、くちづけを待つ。
佐為の唇が自分の頬や手、そして唇に触れるのを、視覚で感じとるためだ。
そんなヒカルがいじらしく、また愛しいと佐為は思う。だが今日は憎らしく思ってしまった。
佐為は直前で顔をすい、と離してしまった。とたんにヒカルは頬を紅潮させた。
「なんでェ! 勝手に拗ねてろよ!」
原因はわかっている。新初段シリーズのことだ。
ヒカルはプロ試験に合格した。
これでようやくヒカルはアキラの前に立つ資格を得ることができた。
アキラとの対局を何よりも心待ちにしていたヒカルだが、新初段シリーズの相手が塔矢行洋
であることを知り、ひどく興奮した。
だが佐為がそれを冷ますかのようなことを言った。
《私に打たせてください、ヒカル》
ヒカルは一瞬あぜんとした。思ってもみない言葉だった。
そして理解すると、無性に腹が立った。こっちの身になってほしい。
ヒカルは佐為にすげなく背を向けた。もうわがままにつきあってなどいられない。
それ以来、何も言ってこなかったので忘れていたが、やはり佐為は根に持っていたのだ。


(2)
ふてくされた気分のままヒカルは布団に入った。
佐為もなかなか逆立った心を鎮められずにいて、唇を引き結んで脇に座っていた。
相手が起きているのは分かっている。しかし二人とも長いあいだ身じろぎもしなかった。
そのまま沈黙が続くと思われたが、不意にヒカルが小さな吐息をこぼした。
ヒカルは覚えのある衝動に身体をごそごそとさせた。
(どうしよう、出したくなっちゃった……)
ジャージの上から熱を訴えてくる自身に触れた。いつもは気にせずにするのだが、なんだか
今はできない。そう思ってしまうのはもちろん、佐為のことがあるからだ。
我慢してさっさと寝ようと思うのだが、身体がそれを許してくれない。
切なくて泣きそうになってくる。
佐為はそんなヒカルの心情と、若い性の衝動に表情をやわらげた。
《ヒカル、こっちを向きなさい》
できるだけ優しく呼びかけたのに、佐為の声にヒカルは全身を硬くさせた。
「な、なんで、オレもう寝てん……」
《わかっているんですよ》
そう言われるとヒカルももう意地を張ってなどいられなかった。
起き上がると、ベッドに腰掛けた。そしてズボンを下着ごと自棄気味にずりさげた。
すでに勃起している未成熟な性器に、佐為は手を這わせた。するとそれはさらに上向いた。
ヒカルが佐為の手に自分の手を重ねてくる。そして一緒になってしごきだした。
「ふっ、ふぅ、んぅん……」
ヒカルの目には佐為の手が映っているため、まるでしてもらっているような錯覚がする。
薄闇でも、ヒカルの恍惚とした表情が佐為にはよく見えた。
こうしている時、佐為はいつも不思議な感覚に囚われる。
暑さも寒さも感じない、もうないはずの我が身。それなのに熱くなるのだ。
(もし今、私に肉体があったなら……)
そう考えて首を振る。なくて良かった。ヒカルを泣かすようなことはしたくない。
「んぁっ、さいぃ……っ」
佐為の手が集中していないことに気付いたヒカルが呼びかけると、すぐに応えてやる。
するとヒカルの膝がしらが、みっともないくらい震えだした。


(3)
《ほらヒカル、先端のここを指の腹で押さえてごらんなさい》
すでに精液を流し始めているそこを、ヒカルは言われたとおりに愛撫する。
「くふぁ……っ」
快感がヒカルの身体につぎつぎと襲ってくる。
《私の動きに合わせて……》
佐為の濡れた声が頭のなかで響いた。
ヒカルは目をつぶりそうになるのをこらえて、佐為の手の動きを必死になって追った。
ひっきりなしに掠れた声が口から漏れる。ヒカルは変声期を迎えており、昔に比べてかなり
低くなっている。だが艶めかしさはいっそう増したように佐為は思えた。
ヒカルは将来、まぶしいくらいの若者になると佐為は確信している。
そしてそのヒカルの一番近くにいるのは、他ならぬ自分だ。
《ヒカル、手を……》
シャツを上げるよう示唆する。ヒカルがまくりあげると、とがった乳首が見えた。
きれいな薄桃色をしたそれを佐為は咥えた。
舌でそっと舐め上げる。ヒカルの味を感じることができないのがたまらなく残念だった。
ヒカルに見せ付けるように、佐為は何度もそこを己の舌と唇でねぶった。
「や、ぁぁっ、オレ……さ、いっ……もっ」
視覚だけでも刺激的で、性に関してまだまだ幼いヒカルはさらに煽られた。
手のなかのペニスはもうじゅうぶん膨らみきっていた。佐為はそれを解放すべく、軽い音をたてて、くちづけた。ヒカルにとって触感など問題ではなかった。
「ぉ……うん、くっぅ、んん!」
ヒカルは吐精した。指の隙間から精液があふれ、床にこぼれおちた。
薄い陰毛だけでなく、その奥の秘門までが濡れてしっとりとしている。
だがそれらをぬぐう気力もなく、ヒカルはベッドに倒れこんだ。
せわしなく息をついていると、佐為がおおいかぶさってきた。その重みは感じられない。
それが少し淋しかった。


(4)
ヒカルがうるんだ瞳を向けてきた。
「……ん、さい……」
舌足らずに呼ぶ。それがどんなに佐為の心をかき乱すか、わかってはいないのだろう。
ヒカルがこうして甘えてくるのは、自分を信頼して安心しきっているからだ。
それが時おり佐為を苦しめる。
《……なんですか?》
「佐為は、オレみたいにはならないの?」
またこの質問か、と佐為は軽く苦笑した。答えはいつも同じだ。
《身体がありませんから》
ヒカルは濡れていない左手を佐為の下肢にやった。その無邪気な仕草に佐為は緊張する。
股間に触れてみるが、ヒカルの手は空をかいたのと同じ状態だった。
だが手を動かして揉んでみる。すると不思議なことに、本当にしている気分になってくる。
一方の佐為は、そこが変化するはずはないのに、うろたえていた。
身体をずらしてヒカルの手から逃れた。
《昔は、ヒカルみたいになったこともありましたよ》
「ふーん、じゃあ」
セックスは? そう聞こうとして、ヒカルはやめた。
いつもそうだ。どうしても尋ねることができない。理由はわかっている。
もし「ある」と答えられたら、イヤだからだ。自分だけの佐為でいてほしいのだ。
しかし、そう思ってしまう自分を嫌悪する感情もあった。
それに佐為が嫌がるかもしれない。こんな身勝手で子供っぽい独占欲など持った自分を。
(佐為にきらわれるのは、イヤだ)
少し気持ちが沈んでいるのに、佐為は能天気な声で話しかけてきた。
《さあさあ、後片付けをなさい。いつまでもそんな格好でいると身体を壊しますよ》
ヒカルは飄々とした様子の佐為に腹が立った。
(どこの世界に、オナニーの後始末を言われるヤツがいるんだ。ちぇっ)
自分ばかり変な気分になって、バカみたいではないか。
少しふてくされながらもヒカルはティッシュで汚れたところを拭いて、服も着なおした。


(5)
佐為は急にヒカルが気持ちが重くなったのを感じていた。
だが不用意にそこに立ち入ることはできない。ヒカルの心はヒカルのものであるからだ。
自分はヒカルの心のすみに住まわせてもらっているだけなのだ。その理由はただ一つ。
神の一手を極めるためだ。そう、これは千年経った今でも変わらない。
まぶたを閉じ、深呼吸をする。余計な感情は捨てなければならない。
《ヒカル》
「なんだよっ」
勢い良く顔をあげたヒカルは、押し付けられた唇にどきりとした。
だがようやくのキスをすぐにヒカルは受け入れた。
《ヒカル、大好きですよ》
なんのてらいもない言葉に、ヒカルはみるみる赤くなった。
そんなヒカルを見ながら、佐為はもう一度、心のなかで言った。誰よりも大好きだと。
けれども、自分にはヒカルよりも大切なものが、譲れないものが、ある。
佐為は決心をした。そして心のなかでヒカルに詫びた。
ヒカルは佐為を睨むようにして見ていたが、やがてほほえんだ。
「オレさ、佐為とキスするの、すごい好きだ」
ヒカルは佐為とぎくしゃくしていたものが無くなったのがうれしかった。
だが佐為はほほえみ返すことができなかった。それをごまかすようにまたキスをした。
「へへ、目が覚めちゃったよ。一局打とうぜ」
《明日、起きられなくなりますよ》
たしなめるがヒカルはもう碁盤の前にいる。
「大丈夫だよ。ほら、オレが先番な」
碁石を置く小気味良い音がした。惹かれるように佐為も座った。
結局その夜、ヒカルは眠らせてもらえなかったのだった。



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