望月 1 - 5
(1)
対局を終えるとヒカルは急いで控室に向かった。
ふすまを開けると、アキラが一人、棋譜を見ていた。
互いに目を見交わすと、なにも言わずに二人は部屋を後にした。ヒカルの頬が赤く染まったのは、
照明の影になって気付かれなかった。
勝敗は確かめるまでもない。アキラは順調に名人戦の3次予選を勝ち抜いているはずだし、
ヒカルはたった今、本因坊戦の1次予選を突破してきたはずだ。だが、二人にとってそれは
次へ続く階段でしかない。
「なんの棋譜?」
「碁聖戦の第5局だよ。」
「あぁ、先週あったやつか。オレ、もう見た。緒方先生、惜しかったな。」
「倉田さんに勢いがあったね。鋭い手の連続だ。」
「倉田さん、初タイトルだよな。今度会ったら、お祝い言わなきゃ。」
電車の中ではずっとその棋譜の検討が続いた。
駅を降りると、アキラは帰り道とは違う方向に進んでいった。
「どうしたの。そっちじゃないだろ。」
ヒカルが尋ねた。
「ケーキ買わなきゃ。誕生日なんだから。きょうは1次予選も突破したんだろ?一緒にお祝い
しなきゃね。」
アキラがニッコリ笑っていった。
「お祝いなんていいよ。だって1次予選だぜ。お前なんか、今年もリーグ戦入ってるじゃないか。」
ヒカルが口を尖らせた。
「でも、ケーキは好きだろう。」
「そりゃあ好きだけど…。それより、早く帰ろうよ……。」
ヒカルは妙に照れたように口ごもった。
(2)
そんな話をする間にすぐ目当ての店に着いた。小ぶりなケーキを買って、アキラの家に向かう。
「これでようやく2次予選だ。早く桑原先生から本因坊のタイトルとりてェなぁ。」
「それにはまず2次予選と3次予選を突破して リーグ戦でボクに勝たなきゃならないぞ。」
気負いこんで話すヒカルに、アキラがやさしくいさめた。
「ヘヘッ。若獅子戦で優勝をオレにさらわれたのは誰だったっけ。」
「あれは、キミが左辺で内からノゾいたりしたから…。あんな悪手、普通なら左下辺全部持って
いかれるところだ。」
「ヘッヘッ。でも、お前、受け損なったじゃないか。なに言ったってダメだね。次も勝つさ。
勝って桑原のじーちゃんに挑戦だぁ。」
ますます調子付くヒカルにアキラは苦笑していた。
「去年、本因坊戦の第7局、山形であったんだけどさ、オレ、時計係やったんだ。慣れてなくて
大変だったんだけど。そんなことより、タイトル戦すぐそばで見てて、すげーワクワクした。
タイトル賭けた空気がピーンと張り詰めてた。それで2日あるからジックリ考えて、厳しい手
打ってくるんだよ。オレも早くこんな風に打ちたいって思った。
桑原先生、対局中ブツブツ独り言言ったり、扇子でバタバタやったり、なんかおかしーの。
緒方先生、調子狂わされてさ。
でも、逆転の勝負を決めた桑原先生の8三にハネた手はスゴいなと思ったよ。コワくてなかなか
打てない手だった。」
ヒカルは空を見上げながら、タイトル戦挑戦の夢を語った。
棋院を出る頃にはまだ明るさが残っていたのに、すでに辺りは暗くなり始め、空には丸い月が
昇りかけていた。
(3)
足早に塔矢邸に向かった二人は、家を前にして立ち止まり、顔を見合わせた。
門灯が点いていたのだ。
家の中からもほのかに明かりが洩れている。
両親は台湾に滞在中で、家はアキラひとりのはずだった。
「お父さんたち、帰ってきたのかな。」
アキラは少し慌てながら門を開けた。
果たしてアキラの両親が帰宅していた。
「あぁアキラさん、お帰りなさい。」
奥から母の声が聞こえてきた。
あーあぁと失望を隠せない顔で二人はもう一度目を見交わして、家に入っていった。
「あら、進藤くんね。いらっしゃい。お夕飯用意しているところだから、食べてらっしゃい。」
「予定、変わったの?」
失望のそぶりも見せずにアキラが尋ねた。
「そうなの。お相手の棋士のスケジュールが変わったので、早めに帰ってきたのよ。」
「お父さんは?」
「今、お風呂に入っているわ。」
ヒカルはそばに立ったまま、アキラと母の会話を聞いていた。せっかくの誕生日だったのに…。
早く帰ったほうがいいのかな。ガッカリした。
アキラの母、明子が目敏くケーキの箱に目をとめた。
「アキラさん、それなぁに。いいもの持っているわね。ふふ、甘いもの、苦手じゃなかった
かしら。」
「あの、えっと、これは、きょう進藤が誕生日で、それに、本因坊戦の1次予選を突破したから、
お祝いに買ったんだ。」
「まぁ、それはおめでとう。私たちも一緒にいただいていいのかしら。」
(4)
風呂から上がった名人をまじえ、4人で夕食を食べた。
刺身、煮物、茶碗蒸。ヒカルの家とは違う純和風な料理。苦手な酢の物も並んでいて、ヒカルは
目を白黒させていた。海外から帰国したばかりで、サッパリした和食が食べたかったらしい。
もっとも、アキラの話では普段から和食が中心で、ヒカルの家のようにハンバーグやグラタンと
いった今風なメニューが塔矢家の食卓に並ぶことはあまりないという。
無口な名人は食事のときはあまり会話に加わらず、もっぱら明子の話す台湾での食事や買い物の
話を聞かされることになった。くだけた会話だが、名人がそばにいると思うとヒカルはどこか
固くなってしまう。
食後、みんなでケーキを食べた。小さなケーキは4人で割ると小さくなってしまったけれど、
みんなが祝ってくれるのはちょっとこそばゆくてやはりうれしい。
棋士が3人集まれば、話題は自然、囲碁が中心になった。台湾のプロの話から各国の棋戦、
棋風の話になると、さすがに名人の口から興味深い話が次々に出てくる。ヒカルはむさぼるように
話を聞いた。この春、北斗杯を戦って以来、ヒカルにも海外の棋戦への興味が生まれていた。
海外の棋士と戦うのは、北斗杯だけでなく、富士通杯、三星杯、今年誕生したトヨタ・デンソー杯と
たくさんある。国内戦とは違った雰囲気を持つ国際棋戦でまた戦いたいというのはヒカルの望みの
一つだ。もちろん、その願いはアキラも同じだ。
「じゃあ、進藤行こう。」
アキラが声をかけて、ようやくアキラの部屋に引き上げることになった。ヒカルは正直、
ホッとした。
4人での会話はなごやかなものだったが、ヒカルは知らず緊張していた。二つも秘密を抱えていた
せいだ。ひとつは佐為のこと。名人はsaiについて一言も口に出さなかったけれど。そして
もうひとつ。アキラとの関係に秘密があるからだ。
(5)
月明かりに照らされた廊下をいくと、中ほどにススキを活けた花瓶と団子の置かれた台、
それに里芋やら栗やら野菜の置かれた盆がある。
「なんだい、これぇ。」
緊張から放たれた開放感もあって本来の調子に戻り、ヒカルは素っ頓狂な声をあげた。
「お月見だよ。あぁ、きょうは中秋の名月っていってたっけ。キミのうちではやらない?」
「やんないよ、そんなの。なに、団子とか飾るの?」
「そう。中秋の名月のときにはこうやってススキや団子や秋の収穫をお供えするんだ。」
「ふぅん…。あ、ホントだ、満月。キレイだな。」
ヒカルは花瓶からススキを1本スッととり出すと、アキラの頬に向けていたずらをした。
アキラににらまれると、ヘヘッと笑って、今度はその柔らかな穂を自分の頬にあてて撫ぜる。
その目はそのまま見事な満月に吸い寄せられ、ヒカルは彫像のように動かなくなった。
――佐為、塔矢名人、引退してから海外を飛びまわって碁を打ってるよ。もうオマエとは
打たせてあげられないけど、思う存分碁を打っててイキイキしてるから、いいよな。オレ、いつか、
名人と打てるかな、あのときみたいな碁を。
でも、オレがあんな碁を打てるようになるのはまだまだ先だな。でもって、相手は名人じゃなくて、
やっぱ塔矢かな。
佐為、オマエの目指してた神の一手って、いつになったら辿りつけるんだろう。
|