七彩 1 - 5
(1)
白磁の肌に長い睫が蒼い翳を落としている。
眦は切れ上がって瞳は翡翠色に煌き、鼻梁は細く、品良く薄い唇は薄紅の
花びらのよう。
白皙の美貌と形容されて然るべき容姿の少年が、どこもかしこも美しく
創られた中のほんの一部、細長い手指の先で白石を摘む。碁盤の上に白い手の
甲がかざされ、摘んだ石を器用に並べる。指先から小さな碁石が離れる度に、
ぱちり、ぱちり、と小気味良い音があがった。
ぱちり。
盤面へと視線を落とし、静かに棋譜並べをする伏し目がちなアキラの表情を、
ヒカルは息を凝らしてじっと見詰めていた。
目の前に座るアキラは人形のように美しい。男なのに、クラスの女子以上に
綺麗だった。だから思わず言ってしまったのだ。ヒカルはつい、ぽろりと。
「オレ、おまえが好きだ・・・・・・・・・塔矢」
(2)
塔谷行洋の碁会所はいつも盛況だ。
だが今は遅い時間帯のせいか人気が少ない。まばらに席を埋める他の客達は
マイペースに自分の碁を愉しみ、若先生方の周囲に取り巻きはいない。
アキラは碁石を摘む手を休め、盤を挟んで向こうに座るヒカルの顔を見詰めた。
「・・・・・・・・・なんだって?」
そこでヒカルはやっと我にかえった。魅入られていたのだろうか、ぼんやりと
していたのが急に現実に引き戻され、しかも先の無意識の発言内容に慌てて
パニックに陥ってしまう。
「・・・いやっ!何でもない!!気のせい、何も言ってない、今の無しっ!!」
アキラは終始無表情だった。何の感情も見えない顔でヒカルを見据えている。
「・・・出ようか」
アキラは海王中学からエスカレーター式で海王高校に進み、ヒカルは高校進学
していない。よってヒカルはアキラに比べて時間に余裕があり、もっぱら
ヒカルがアキラのスケジュールに合わせて打つ約束をしている。二年に進級
した春頃からアキラの背丈は益々伸びて、冬を迎えた今ではヒカルと五センチ
以上の身長差がついている。
緋色の夕日が道に二人の細長い影をゆらゆらと描いている。
ガードレールがある歩道を、アキラとヒカルは黙々と歩く。長い影をひっそり
連れて。
「・・・ボクが好きなの?」
「・・・・・・・・・うん」
「恋愛感情か?」
「・・・・・・・・・うん」
ヒカルは既に隠す事を諦めていた。
最初はごまかしていたのだが、碁会所を出てからアキラにしつこく言及され
続け、とうとう観念させられたのだ。
(3)
ヒカルが通っていた中学校の女子よりも綺麗な顔をしたアキラが、今は
能面のような無表情で前を見据え、いつもより更に口数少なくひたすら
歩いている。ヒカルは切なくて惨めで泣きたくかったが、アキラに見えない
ところで拳を固めて我慢していた。これ以上アキラに迷惑をかけたくなかった。
海王高校の中学と同じで白の上着に青灰色のスラックス。左胸を飾るワッペンの
デザインが少しだけ違うが、それ以上は変わり無い。清潔でモダンな印象は
アキラにこの上なく似合っている。対してヒカルは今、私服だ。いつもの
ジーパンにトレーナー。でもシューズだけにはちょっと拘りがある。ヒカルの
足元はいつもお洒落だ。
沈黙に耐えられなくなったヒカルは隣を歩くアキラの顔を盗み見た。
「・・・ごめん。もちろん返事、いらないから。・・・・・・・・・マジでごめん。
キモイよな。オレもさ、自分の事キショって思うんだよ。・・・でもさ、おまえって
すごい奴だろ。尊敬・・・・・・とか、憧れ、とか。そーゆーのがごちゃごちゃに
なっててさ。・・・すごい奴だと思うんだ、ほんとに・・・」
ヒカルはアキラを追ってプロ棋士にまでなった。追うのがアキラだったから、
ヒカルはやる気になったのかも知れない。先に待っているのがアキラで
なかったら、もしかしたらここまで燃え上がらなかったかもしれなかった。
しかし、それをアキラに言う気は無い。碁を愛するアキラに不純だと取られる
ことを恐れたのだ。アキラだったから、確かにそれも理由の一つだが、
ヒカルは真剣に碁が好きなのだ。でもそういった事を上手に説明出来る自信が
無かった。ぼそぼそと想いの丈を綴るうち、ヒカルの目に涙が浮かんできた。
(佐為・・・・・・)
大丈夫ですよ、頑張って。そんな風にいつもいつも励ましてくれた、慰めて
くれた佐為は、今はもうどこにも居ない。どうしようもなく佐為に会いたかった。
「・・・・・・」
日の入りが何て早いんだろう。今日の最後の輝きを放って家々の間に沈んでいく。
今のヒカルには朱金のそれが、この世の何かが死に往く間際の最期の悲痛な煌きに
見えた。電柱の張り紙が頼りなく、今にも風に剥がれそうに揺れている。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
(4)
ちょうど街灯の点った電柱まで差し掛かった時、アキラがふいに足を止めた。
つられてヒカルも俯いたまま立ち止まる。ヒカルはこれから来るだろう最後通牒に
心を鎧い、覚悟を決めた。しかし恐ろしくて、アキラの顔は見られなかった。
「――――いいよ。付き合おう」
ヒカルは目を閉じ、痛い拒絶に対して「そうだよな、ごめんな」と再び謝ろうと
思った。そしてこんな馬鹿げた告白は無かった事にして、これからも気兼ねなく
碁を打って欲しいと願い出るべく口を開いた。
だが実際に発した声は、本人の意に反して気が抜けた間抜けなものだった。
「・・・・・・・・・は?」
「付き合おうと言ったんだ」
「え・・・・・・?」
「その代わり、ボクが打ちたいと誘った時は、何より優先してボクと打って
欲しい。ボクもそう無理を言うつもりは無いが・・・」
「――――もちろん!ああ、ああ、いいぜっ、もちろんそうする、絶対!
そんなんでいいのか!?そんでオレと付合ってくれるの!?ほんと?
嘘じゃない!?――――――ウソ―――――――マジ!?」
「ああ」
アキラは飛び上がって喜ぶヒカルを冷静な目で見詰めている。
ヒカルは―――――――嬉しかった。プロ試験に通った時よりも、ずっと。
今や一度死んだ夕日は蘇り、甍の波の隙間から光の名残りをヒカルの目に神々しく
映していた。
(5)
棋院の事務室は改装されて随分小奇麗になっていた。
「塔矢君、それでは先の件、よろしく頼むよ」
「はい、・・・ご期待にそえるか分かりませんが、全力を尽くします」
棋院職員の男は目を細めた。目の前の棋士は常に謙虚で礼儀正しく篤実であり、
実に好ましい。今日も頼もしい返事で安心させてくれる。男はアキラに仕事を
依頼していた。近日開催される碁の交流会のスポンサーは地元の代議士である。
当日は貴賓として迎える彼は当然失礼の許されない相手だが、担当が塔矢アキラ
なら心配あるまい。
男は、頭を下げて辞退したアキラの後ろ姿を見送っていた。
「まじめだなあ、塔矢君は」
アキラの姿は完全にドアの向こうに消えてから、男はぽつりと呟いた。
品行方正、温厚篤実、眉目秀麗の塔矢アキラは棋士としても人間としても、
元名人の息子としても常に完璧である。
(・・・だが、面白味に欠けているのが玉に傷だな)
男はデスクに向かいながら鉛筆で頭を掻き、目の前に溜まった書類の山をどう
片付けるかに意識を戻した。
後日、アキラは棋院の期待に応えて仕事をそつなく完璧にこなした。
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