朧月夜 1 - 5


(1)
既に日は落ち、朧な月が東の空にぼうっと浮んでいる。
ぬるい風が頬を撫でた。
その湿った匂いに、雨が降るのかもしれない、と思った。
雨が落ちてくる前に辿り着けるだろうか、と思いながら、夕闇が次第に色を濃くしていく中、彼は足を急がせた。

薄闇に浮かび上がる誰もいないはずの屋敷の中に、何かが動くのが見えた。
何かを探すようなその動きに彼は眉をひそませた。
見捨てられたはずの主のいないこの屋敷に誰が何の用で?
盗賊?それとも何か妖しが?

音を立てぬようにそっと足を進める。
確かに、人影が動いている。
明かりの漏れぬよう手に持っていた灯りを塞ぎ、すぐにでも封じ込みの印を結べるように両手を開けて
、足音を潜めて忍び寄る。何者かを確かめようとした時に、衣が足元の草にかかったのか、かさり、と
音を立ててしまった。
瞬時に振り向いた人影に向かって大声で呼ばわる。

「そこにいるのは誰だっ!?」
「おまえこそ!何者だ!?」

闇の中から抜き身の太刀が翻り、彼はそれに対抗しようと一歩下がり、印を結ぶために両手をかざす。
と、風が吹き渡ると同時に気紛れな月が姿をあらわし、互いの姿を浮き上がらせた。

「…近衛…?」
「…ア……賀茂…?」


(2)
雲がまた月を隠し、ぱたりと雨粒が落ちてきた。
「何を…」
二人の声が重なった。
呆気にとられたまま、アキラはヒカルに向かって突き出していた手をゆっくり下ろし、ヒカルはかまえて
いた太刀を鞘に収めた。
どちらからともなく笑いが漏れ始め、次いで笑いながら互いに近づき、再会を確かめるように軽く抱きあう。
それからパラパラと降りだした雨を避けるようにヒカルはアキラの肩を抱いて、屋敷の中へと促した。

「ああ、驚いた。」
「オレだって、びっくりしたぜ。」
「盗賊か、それとも何か妖しかと思ったよ。」
「オレだってさ。」
「他に人が来るなんて思わなかったから…」
アキラの言葉に、ヒカルははたと思いついた。
「もしかして、おまえ、ずっとここに来てくれていたのか?」
「…ああ。」
家というものは人が住まなくなるとあっという間に寂れ、朽ちていく。
けれど主を無くしたこの屋敷は、まだその静謐な佇まいを残したままだった。それは、誰かがずっと
ここを心にかけ手入れを欠かさなかったからだという事に、今まで気付かなかった。
ここを、ここの思い出を忘れてしまいたくて、そして己を取り戻してからも、主のいない屋敷を見るのが
怖くて、ここを訪れる事ができなかった。その間、ずっと、ヒカルがこの家を意識の内から追いやって
いる時でさえ、忘れずに心にかけていてくれた人がいるから、ヒカルは悲しさや寂しさよりも懐かしい
思いで、再び訪れたこの家を見ることができたのだ。
「…ありがとう。」
「礼を言われるような事ではない。僕がそうしたかったから、そうしたまでの事だ。」
彼は静かに微笑んで、そう言った。


(3)
「月が…綺麗だな。」
屋敷の縁側に腰を下ろし,ぱらつく雨をしのぎながら空を見上げてヒカルは言った。
「ああ、朧月夜だね。そういえば雨も降っているのに。」
パラパラと降っては止み、また落ちてくる、もう冷たくはない雨が地面を濡らす匂いに混じって、どこ
からか、甘い香りが漂ってきていた。
くん、と鼻を動かしたヒカルに、アキラが言った。
「藤かな。確か庭の向こうに見事な藤棚があったような気がするが…」
「そうか、もう咲いてるのか。早いな、今年は。」
「そうだね、もう随分と暖かいから。」
あれは冬だった。いつの間にか季節は巡り、あの時、ぴりぴりと冷たく肌を刺した空気は、今では温く
穏やかに彼らを包み込んでいる。
「……久しぶりだね。」
「ああ…そうだな。」
あれ以来、姿を見かけることはあっても、言葉を交わしたことはなかった。
日々の忙しさに紛れ、失くしてしまったものを、遅れてしまった自分を取り戻そうとする内に、いつの間
にか空気はこんなにも柔らかく暖かく軽やかなものへ変わっていた。
「また今度、僕の家にも顔を出してくれ。君さえ、嫌じゃなかったら。」
「…いいのか?」
「なぜ?」
思いもよらなかった事を聞いたようにヒカルを見返すアキラに、ヒカルは戸惑いながら応えた。
「だってオレ…あそこにはもう行っちゃいけないのかと、思ってた。」
「そんな事…」
戸惑いがアキラにも移ったかのように、彼が口篭らせながら言う。
「僕が…君に、君はここにとどまってはいけないと、言ったから?」
「…うん。」
「あれは…」
困ったような顔をして、アキラは俯いた。
「もう来るなという意味ではなかったんだが…」
「うん……そうだよな。言われてみりゃそうなんだけど…」
「僕は…君が来てくれれば嬉しい。よかったらまた遊びにでも来てくれ。」
「……うん。」


(4)
オレがいなくなって、寂しかった?
ちょっとだけ、そう聞いてみたかったけど、言わなかった。
きっと優しい彼の事だから、「寂しかったよ」という答えが返ってくるのはわかりきった事だったから。
いつからこんなに臆病な人間になってしまったのだろうか、とヒカルは思う。
この屋敷に足を踏み入れるのも、彼の屋敷を訪れるのも、なんだか怖くて、尻込みしている間に
こんなにも季節は巡ってしまった。
変わらぬ静かな彼の笑顔に、なぜだか小さく胸が痛むのを感じて、ヒカルは視線を彷徨わせた。
そうして目に入ったこの部屋の光景が、更にヒカルの胸を痛ませた。
すっきりと片付きすぎた部屋はそのまま、ここで生活するものがいない事を告げていて、余計に主
の不在を際立たせているようにさえ思わせた。

あの頃、幾度となく足を運んだこの屋敷のこの部屋も、あの頃はこんなに寂しい場所ではなかった。
きれいに片付けられていても、それでもそこに住まうひとの匂いが、気配が、いたる所に感じられて、
それが心地良くて、ヒカルはすっかりくつろいで部屋の中央に転がった。
「佐為の衣、いー匂いだなあ。」
香の焚き染められた衣をぎゅっと握り締め、床にゴロゴロと転がっていると、
「お行儀が悪いですよ、ヒカル。」
と、優しくたしなめられた。
佐為の衣に包まれていると、佐為に包まれているような気がした。
そうやってうっとりと佐為の薫りに浸っていたのに、いつまでもそうしていたかったのに、結局は佐為
にその衣を奪い取られてしまった。
「せっかく香を焚き染めたというのに、台無しじゃないですか。
ああもう、こんなにしわくちゃにしてしまって。」
そう言ってぷんぷん怒る佐為が可愛いなあ、と思った。
本気で怒っているわけでもないのも、嬉しかった。


(5)
けれどその人はもういない。その薫りはもはやここには残っていない。
今、この部屋の隅に置かれている几帳に、かつてかけられていた衣も、今はない。
胸が締め付けられるような思いで部屋を見回していたヒカルの視線が、吸い寄せられるように、
部屋の隅に置かれた碁盤の上で止まった。
ヒカルの視線を辿ったかのように、アキラが言う。
「打つかい?」
「…うん。」
涙声になりそうなのをこらえながら、ヒカルはうなづく。
「うん、打とう。」
ヒカルは腰を上げ、部屋の隅に置かれていた碁盤を月明かりに照らされる縁側へと運んだ。

「賀茂?」
長考に入っていたヒカルがふと顔を上げると、対局者の姿はそこには無かった。
先程話にした藤を見にいったのだろうか。そう思って、ヒカルも庭に降り立つ。
香りに誘われるように足を進めると、やはりそこに、彼が立っていた。
「おまえの番だよ。」
声をかけると、彼は静かに振り向いた。
柔らかな月明かりの下、薄紫の花の甘やかな香りが漂う春の宵闇を、乱さぬようゆっくりと振り
返る彼に、目を奪われた。
「…香りが濃くて、すぐ下にいると酔いそうだよ。」
アキラが頭上の花を見上げて言った。
「どんな手を返してきた?」
そう言って、仄かに明るい薄紫の花の下で微笑む白い面から、目を離せなくなってしまった。
「あ…」
何か言おうとして、けれど言葉が出てこずに口篭るヒカルに、アキラは小さく首を傾げながら、
ヒカルの横をすっと通り過ぎて、元いた場所へと足を運んだ。
慌ててヒカルも彼の後を追った。



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