温泉旅情 1 - 5


(1)
旅行に行きたいと言い出したのはヒカルのほうだった。

会話の途中に、何の脈絡もなく、彼は「旅行に行きたいな」と言った。
ヒカルが、思いつきをそのまま口にして、話題が脱線していくことなど
そう珍しいことでもない。
「どこにだ?」
あまり深くも考えず、俺は質問した。
「行くなら、温泉がいい」
「温泉?古風だな」
「じじむさいって言いたいの?」
笑いを含んだ俺の口調が気に入らなかったらしく、頬を膨らませてヒカルが不服そうに言う。
その子供っぽい表情は、彼を年齢よりいくらか幼く見せた。
「そういうつもりはない。歳のことを言うなら俺のほうが随分年寄りだ」
自嘲的な台詞で言い訳すれば、「まだ充分若いだろ」と慰められた。
他人に気遣われることには慣れていないので、彼の不器用な言葉がくすぐったかった。
「なんで温泉なんだ?」
「温泉、嫌い?」
「嫌いじゃないが、夏なら海とか、遊園地とか、他にももっと賑やかで刺激のある
 観光スポットがいくらでもあるだろう」
若いんだからと、つい言いそうになって慌てて口を噤む。
「海も遊園地もいいけどさ、オレ、でっかい湯船にゆっくり浸るのも好きなんだぁ」
その、情景を想像しながらの、うっとりとした幸せそうな顔に、視線が釘づけられる。
「日帰りだと、そうゆっくりもしていられないだろう?」
「だから、泊まるんだよ。美人女将のいる旅館で一泊して、体を休めて疲れを取るんだって」
彼の頭の中にはすでに宿泊のプランが出来ているようだった。
「浴衣着て、風呂上りにはピンポンして、美味しい日本料理食べて、心ゆくまで碁を打って…」
聞いているうちに温泉に行きたくなった。今後の予定は詰まっているが、どうにかしようと思って
どうにもできないわけではない。ふらり出かけてみるのもいいと思う。
「どう、行きたくなった?」
無邪気な問いに、つい首を縦に振りそうになる。しかし、よく考えてみれば、男ひとりで
温泉旅情もないものだ。


(2)
「そんな虚しいことできるか」
「べつに、虚しくないだろ」
「男ひとりで温泉旅行なんて、虚しい以外の何でもない」
だいたい、碁も卓球もひとりではできない。美人女将に余計な勘繰りをされるのも
ごめんこうむりたい。
「ひとり?」
ヒカルに怪訝そうな視線を向けられる。口調は急に不機嫌なものになっていた。
「ひとりじゃないだろ」
「誰と行くっていうんだ」
俺が仕事以外で密に付き合っている人間はそういない。その中に、温泉に行こうと声をかけて
着いてくる酔狂な友人は思い当たらなかった。
「あのさ、オレとじゃ、嫌?」
聞き流してしまいそうな小さな声だったが、その響きは真剣だった。
視線を落としてヒカルを見る。すぐに俯かれたのでその表情はわからなかったが、
彼の耳は赤くなっていた。
「もしかして、誘われていたのか?」
「そうだよ、気がつかなかった?」
非難するようにヒカルが言う。けれど、その口調は柔らかかった。
「察してよ。相手の心を読むのも商売のクセに、こういうところはてんでダメ」
それはお互い様だろうと思う。
「思いつきでも冗談でもないんだ。ずっと誘おうと思ってたんだけど、
 うまく言いだすタイミングがつかめなくて。
 でも、本気だよ。誘ってるんだ。温泉、行かない?」
照れているのを隠すように、彼が早口でまくしたてた。
「ひとりで行ったってつまんないじゃん」
ヒカルが、急に顔を上げる。
「・・・ていうかさ、それは口実で、一緒に行きたいんだ、オレ」
彼が無意識でする、縋るような視線は、可愛らしい小動物のそれに似ている。
「緒方さんと」
不安そうに見つめるその顔から、目を逸らすことができない。
「ダメ?」
上目遣いに首を傾げて、甘い口調でねだられれば、逆らう術などもうどこにもない。
頷く代わりに、彼の桜色をしたやわらかな唇にくちづけた。


(3)
夕暮れ時の海岸線沿いの国道を愛車で飛ばす。
助手席に座った少年の、西日に照らされた横顔は、普段よりもいくらか大人びて見えた。
なのに、潮風に揺れる色素の薄い前髪を邪魔そうに掻き上げるしぐさはいつものままで、
そのアンバランスさに苦笑する。
「なに?」
笑う気配を感じたらしいヒカルが、首を傾げて俺を見る。
「何でもない」
彼の表情を横目で伺っていたことを認めるのが気恥ずかしくて、なるべくそっけなく言う。
その様子から何を思ったのか、ヒカルが不安そうに視線を揺らした。
「やっぱり迷惑だった?」
潤んだ大きな目で見つめられながら問われる。いくらか速まったように感じる鼓動を無視して、
意識をむりやり運転に集中させた。
「オレ、自分の都合ばっかりで、わがまま言って・・・ゴメン」
申し訳なさそうに言って、ヒカルが俯いた。
実際のところ、温泉に行こうという提案を受け入れはしたものの、本当に行くことになろうとは
思ってもみなかった。すぐに忘れられて流れるだろうと思っていた話が、翌日にはすでに形になって
いたのだ。若者の行動力には恐れ入る。
彼が「旅館に予約入れたいんだけど、大丈夫かな」と言って指定した日にはすでに先約が
入っていたが、どうせたいした用事でもない。午後からなら大丈夫だと伝えると、受話器越しに
「よかったぁ」と、嬉しそうな声がした。
それが、ほんの数日前のことだ。


(4)
「でも、オレ、楽しみにしてたんだ」
消え入りそうに小さくなる声を聞いて、混乱する。
今まで、年相応に自分の感情をストレートに表現する子供と接する機会に恵まれたことがほとんど
なかった。慣れていない状況に、どう対処していいかわからない。
「俺も楽しみだった」
自然と口をついて出た言葉は、けれど嘘ではなかった。
手帳を確認するたび、手合い前の緊張感とは違う、期待と不安の入り混じった高揚した気分になった。
それは、遠足の前日、なかなか寝付けない夜に感じたものとよく似ていた。
あれはもう随分昔のことになる。
「迷惑なんかじゃない」
それどころか、柄にもなく楽しみにしていたのだ。けっして言うつもりはないが。
「・・・良かった」
ヒカルは、安心したように息を吐き出すと、花のつぼみが綻ぶように笑う。視界の端に映った、
その無邪気な笑顔が眩しくて、目を細めた。


(5)
車は、起伏のない、特に面白味もない真っ直ぐな緩い坂道を走っていた。
特に共通の話題もないので、車内での会話は滞りがちだった。
程よい揺れと、心地好い風が眠気を誘うのだろう。ヒカルはシートにもたれて眠そうな目を擦っている。
日程を調整するために、彼も少なからず無理をしたのかもしれない。
「寝ててもいいぞ。着いたら起こしてやる」
「運転してもらってそういうわけにはいかないよ」
俺にしては珍しい親切は、妙に律儀な理由で断られた。
電車とバスを乗り継いで行けば着くと言ったヒカルに車で行くことを提案したのは自分だった。
年の離れた男の二人連れが、家族連れや団体旅行客に紛れて、公共交通機関で浮き立つことを考えれば、
数時間の運転など苦痛でも何でもない。
それに、ヒカルとふたりでいるのは嫌いではない。
彼は、目を見張る美人というわけではないが、よく見ると整った顔立ちをしている。
だが、そこに造り物めいた硬さはない。
中身は、初めて会った頃とたいして変わりはないようで、くるくる変わる豊かな表情は、
見ていて飽きない。いたずらっぽく笑うところも変わってはいない。
しかし、まだ子供のままだと侮っていると、ときおり見せられる、幼さと色気の同居する表情に
どきりとさせられる。目が離せなくなる。
何をしでかすかわからない危うさも、無謀さも含めて、自分は、彼を気に入っているのだろうと思う。



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