灑涙雨 (さいるいう) 1 - 5


(1)
久方ぶりに帰ってきた京の都は、やはり暑かった。日が落ちても尚、熱く湿った空気が身体に纏わり
つくようで、どうにも不快だ。だが、先程まではそよとも吹かなかった風だが、僅かな空気の流れを
感じて立ち止まる。空を見上げると、天頂に輝く半円の月に雲がかかりつつあった。
遠くで雷鳴が微かに聞こえる。どうやら一雨きそうだ。雨が来ればこの澱んだ空気も払われて少しは
涼しくなるかもしれない。それは嬉しいけれど、やはり雨の降る前に彼の屋敷へ着いてしまいたい、
そう思って、彼は心持ち足を速めた。
新しく斎宮となられた姫と共に伊勢に下る一行の警護役として都を離れていた近衛光は、二月ぶりに
やっと帰京し、一旦、寮へ戻って旅の汚れを落とした後に、真っ直ぐ彼の屋敷を目指した。
離れているのが、逢いたくても逢えないのがこんなに辛いとは思わなかった。
いつの間にか心の中にしっかりと住み着いてしまった人の、美しい白い横顔を思う。しなやかな黒髪と、
深い透明な黒い瞳を思う。熱い肌と力強い腕を思う。二月前、旅立つ前の最後の逢瀬の夜を思い出し
てしまうと、顔が熱くなる。ただでさえ暑いのに、あの熱を思い出してしまうと、更に身体の奥から熱が
湧き出してきてしまう気がして、はやる心を抑えようとしながらも、その足は次第に早足になっている。
やっと、逢える。
もう、半ば駆け足のような状態で彼の屋敷の門に辿り着いたヒカルは胸を押さえ呼吸を整え、それから
そっと門に手をかけようとした時に、それは内側から静かに開けられ、静かな声がヒカルを迎えた。
「ようこそ、主人がお待ち申し上げておりました。」


(2)
案内された部屋の中へ一歩足を踏み入れると、部屋の中央の文机に向かっていたひとが振り向いて、
静かな笑顔をヒカルに向けた。
「お帰り。無事に帰ってこれたようで、安心したよ。」
二月ぶりに見るその人は、思い描いていたよりも更に美しく、その笑顔は記憶に残るものよりも更に
優しいもののように見えて、ヒカルは言葉を失ってそこに立ち尽くしてしまった。
彼は立ち上がり、ヒカルの様子に小さく首を傾げながら近づいてくる。
「ヒカル?」
その声さえも懐かしくて、ヒカルは思わず彼の身体に抱きついた。
「逢いたかった……!」
ヒカルの抱擁に驚いて一瞬身体を強張らせた彼は、次の瞬間には強く抱き返してくれた。
頬にかかるさらさらとした髪の感触が、胸いっぱいに吸い込んだ彼の香りが懐かしくて、嬉しくて、ヒカル
は彼の背に回した腕にぎゅっと力を込めた。目を開けるとすぐそこに彼の深い黒い瞳があって、吸い寄
せられるように唇を重ねた。
ああ、この唇に、ずっと触れたかった。
二月の間満たされなかった飢えを満たすように、彼の口内を探る。初めは驚いた様子でヒカルの口付け
を受けていた彼だったが、それでも彼にもはやり渇えはあったようで、気付いた時には逆に激しくヒカル
を貪るように口内を荒らした。
息をする間も惜しむように互いを貪りあいながら、自然、折り重なるように床に倒れこむ。
その身体の重みが、衣を通して伝わる体温が、懐かしくて、嬉しかった。
覆いかぶさる彼が息継ぎをするために離れた隙をついて彼の顔を両手で固定して、うっとりと見上げる。
「逢いたかった…アキラ……」
「ヒカル……」
一瞬、彼は泣きそうな顔になって、そのままヒカルの肩口に顔を埋める。
「…僕だって……」
逢いたかった、と、唇だけが動いて、それはそのままヒカルの目元に触れ、それからそこかしこに口付け
の雨を降らせた。


(3)
「斎宮様はどんな方?お目にかかった事はあったの?」
「ああ、まだお小さい姫様だから、俺みたいな下っ端の警護役にも笑いかけてくれたりして。
乳母君が、はしたないからと叱るんだけどね、それでも翌日には顔を見せてくれて。
本当に可愛らしい姫様だったよ。」
伊勢へ下る旅の様子を語るヒカルに、アキラは微笑みながら耳を傾ける。こうして睦み合いながら他愛
も無い話をする事ができるのが嬉しくて、小さく笑いながら、彼の胸元を擽った。こら、と押さえようとする
手を逆に捕らえて、指先にそっと唇で触れる。くちづけたまま、そっと上目遣いに彼を窺い見ると、自分
を見る彼の目はもう笑ってはいなく、熱い熱を帯びている。その眼差しを受けるだけで胸が痺れるように
感じた。引き寄せられるままにまた唇と唇を重ね、重なり合った胸の間で響く自分と彼の鼓動を感じて
いると、満ち足りた幸福感で胸がいっぱいになる。
そうして静かに寄り添いあっていると、ふと外から、ぱらぱらと乾いた土に雨の当たる音が聞こえてきた。
やはり降ってきたようだ。
先ほどまで暑苦しく淀んでいた空気も雨の訪れで動き出したようで、清涼な風が室内に流れ込んできた。
空気の流れを感じとろうと、ヒカルは身体を起こして脱ぎ捨てた単を軽く羽織った。
「雨だね。」
「そうだね。」


(4)
彼も身を起こし、単を羽織って立ち上がり、雨に誘われるように部屋を出て、庭に面した廊下に立った。
ヒカルも後をついて彼の横に立ち、静かに降りしきる雨を眺める。
「やはり降ってしまったな。」
雨が降れば涼しくなっていいと思っていたヒカルは、少し残念そうなアキラの声の調子を不思議に思う。
その様子に気付いて、アキラは振り返って、ヒカルに微笑みかけていった。
「今日は7月7日だから。」
そしてまた視線を庭に戻し、静かに降る雨を見ながら言う。
「今日降る雨を灑涙雨と呼ぶんだ。涙を灑(そそ)ぐ雨、と。
この雨に一年に一度の逢瀬を妨げられた恋人同士が悲しみの涙を灑ぐだと。」
アキラの言葉に、ヒカルは今日が七夕だった事に気付く。
「そうか、雨が降ると逢えないんだっけ。」
幼い頃に聞いた、織姫と牽牛の御伽噺を思い出す。
「今日が駄目ならまた一年逢えないのかあ。」
そうして庭に目を戻すと、雨は変わらずさあさあと降り続いている。
空を見上げても星の見えようはずもない。黒い空からただ雨粒だけが絶えず降り注いでいて、夏の夕立
というのに静かに降りしきる雨は、確かに恋人たちの流す悲しみの涙のようにも見えた。


(5)
降りしきる雨の音を耳にしながらヒカルは思う。
一年に一度しか逢えないのは悲しいけれど、一年ぶりに逢えるのはそれ以上の喜びだろう。
けれど朝が来てまた別れなければならないとしたら、彼らの胸にあるのは、何だろう。
あと、一年は逢えないのだという哀しみだろうか。
一年経てば逢えるという希望だろうか。
かささぎの渡す橋を渡って出会った二人はどうやって別れていくのだろう。
納得ずくで、一年後に逢える日の事を想って背を向けて歩き出すのか。
離れたくないと抱き合った二人を天が無理矢理に大河の両岸に引き離すのか。

一年後に、必ず逢えると保証されているのなら、しばしの別れにも耐えられるかもしれないけれど、その
一年後が、自分にも相手にも必ず訪れるという保証など、どこにも無いだろう。
人の儚さをもう知ってしまった自分には、例え一日先でも、確実に信じられるものなど無いと思ってしまう。
ましてや自分も、彼も、日々危険に身を晒しながら生きているのだ。

自分にも、彼にも、それぞれ在るべき場所があり為すべき事がある。それらの合間を縫ってのほんのひと
時の、束の間の逢瀬。明日の朝、笑って別れたとしても次にまた逢えるという保証などどこにも無い。
それでも。
だからこそこのひと時が愛おしい。
為すべきことを放棄して神の怒りをかい、引き離された恋人たちを、責めようとは思わない。けれどまた、
自分は彼らのように全てを投げ打って恋人の下にいることは出来ないだろう。そして彼も、それを許す男
ではないだろう。



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