しじま 1 - 5
(1)
ボクはずっと眠れなかった。
静かな暗闇のなか、進藤の声だけが耳の奥でこだましていた。
――――おまえが好きだよ、塔矢。
そう、進藤は言った。
もっとその言葉を聞きたいと思った。だけど進藤は、神戸でのあの朝、熱を出したんだ。
原因はいろいろ思いあたりがありすぎた。
午前中もイベントはあったけど、結局ずっと進藤は寝ていた。
本当はそばにいたかった。でもボクは北斗杯の代表選手だから、そう言うわけにもいかず、
仕事のあいだじゅう気もそぞろだった。
戻ったボクを、進藤がうれしそうに迎えてくれたとき、不覚にも目がうるんでしまった。
それだけではない。帰りの新幹線で、進藤はボクの隣に座ったんだ。
熱を帯びた進藤の身体が寄りかかっているあいだ、ボクはとてもドキドキしていた。
こんなふうに幸せな思いで東京に帰れるとは、変わっていてほしいと願って、それがこんな
ふうに叶えられるとは、行きしなには思いもしなかった。
だけど、帰ってからが大変だった。
なかなか進藤の熱は下がらず、ちっとも会うことができなかった。
ボクは進藤の体調が心配だったけど、それよりも彼の気持ちが熱とともに冷めてしまったら
と思うと、不安で寝つけなかった。
だから今日、棋院で進藤を見つけて、彼がボクに走り寄ってくるのを、すっきりしない頭で
見ていたんだ。
進藤はボクを見て、すぐにその表情をくもらせた。ボクはそれにどきりとしてしまう。
「……なに?」
「おまえ、顔色がちょっと悪くないか? ちゃんと食ってる? 両親、今いないんだろ?」
その言葉にボクは安心した。もしも「ごめん。あのときのことは忘れてくれないか」なんて
言われてたら、ボクはきっとショックでこの場で卒倒していたかもしれない。
「平気だよ。それよりもきみのほうこそ大丈夫なのか?」
そう聞くと進藤はニカッて笑って、「ぜんぜん平気!」と言った。
たしかに目のまえの進藤からは病の“や”の字も思い浮かべられない。
(2)
ふとボクは、進藤に確認したい衝動に駆られた。
「あのさ、進藤」
「なんだよ」
きみはボクを選んでくれたんだよね? たとえきみにとってそれが恋ではなくても、ボクは
きみを恋人だと思ってもいいんだよね?
そう言いたかったけど、しつこい気がしたし、何よりも進藤のなにも考えていなさそうな顔
を見たら失せてしまった。
だいたい進藤は、こう言っては悪いけど、あまり物ごとを深く考えることはしないんだ。
「……手合いの日に、体調が戻って良かったね」
一緒にエレベーターに乗り込みながらボクは言った。
「ああ、お母さんにはまだ休んだらとか言われたけど、そう言うわけにもいかないだろう?
それにおまえに会いたかったしさ」
ともすると聞き逃してしまいそうなほど、それはあっさりとした口調だった。
ボクがもたもたとその台詞を反芻していると、また進藤はボクを驚かす発言をした。
「なあ塔矢、今日おまえんちに行ってもいい?」
「なんで?」
思わずそう言ってしまっていた。
「なんでって……」
そんなふうにボクが聞き返すとは思ってなかったんだろう、進藤は口ごもった。
ボクは自分が気の利かない、野暮な男のような気分になった。
「もちろん大歓迎だよ。その、泊まる、よね?」
「おまえがイヤじゃないなら」
進藤、ボクが嫌だと思うはずがないだろう!
胸がつまりそうなほどの幸せを感じる。
ボクは進藤の肩に触れようとした。だけど六階に着いてしまい、進藤はさっさと出て行って
しまった。行き場のなくなった手をしかたなくボクはおろした。
「塔矢、ぼうっとしてんなよ」
進藤がボクを呼ぶ。動悸とめまいがした。
今日の手合いは負ける気がしなかった。
(3)
一刻も早く家に帰りたくて、ボクは棋院からタクシーを呼んだ。
それを見て進藤は苦笑いをした。
「オレ、別に気は変えないから、電車でも平気だぜ」
まるでボクが急いで進藤を連れ込もうとしているかのような口振りだ。
……進藤には、そう見えているのだろうか。
ボクはタクシーに乗っているあいだずっとうわの空で、進藤が話しかけてきても生返事しか
できなかった。気付くと進藤はタクシーの運転手とおしゃべりをしていた。
ボクはなにをやっているんだ。
けど、いきなりこんな展開になって、どうして落ち着いてられる?
部屋は片付いているだろうかとか、ちゃんとコンドームの枚数が足りているだろうかとか、
潤滑剤はあるだろうかとか、気になることがたくさんあった。
そうこうしているうちに家に着いた。
タクシー代を払うという進藤を無理やり外に押し出して、ボクは財布を取り出した。
なかをのぞいて一瞬かたまる。
ない。お金が入っていない。そんな馬鹿な。
いや、そう言えば昨日たしか新しいのに入れかえたんだったんだ。
なのにボクは間違えて古いほうを持ってきてしまったんだ。
一日中それに気付かなかっただなんて、ボクはとんだ間抜けだ。
「どうしたんだよ、塔矢。あ、お金が入ってないじゃん。バッカだなあ」
呆れたように言うと、進藤はお札を運転手に渡した。おつりの小銭の音を聞きながら、ボク
は自分の不手際に目のまえが暗くなった気がした。
「ほら、早く開けろよ」
進藤は気にしていないらしく、玄関のまえで催促している。
こういうおおらかな―――と言っていいのだろうか―――ところが、ボクにないものだから
うらやましさを通りこしてあこがれる。
家に入るなり、進藤はいきなりボクを引き寄せてきた。
驚くまもなく慣れ親しんだ感触が唇のうえに広がっていった。
(4)
柔らかな進藤の唇がボクのそれをついばみ、舌先でちろちろと刺激する。
なのにボクはそれに応えられず、デクの坊のように突っ立ったままだった。
「塔矢?」
怪訝そうに進藤はボクの名を呼んだ。
ボクは何て言っていいかわからなかった。ここでボクが同じように、いやそれ以上に激しい
キスを返さなくてはいけないことはわかっている。
だけど身体がうまく反応しないんだ。
「……夕飯を食べよう。お腹が空いただろう?」
取ってつけたような言い方だった。進藤はため息を吐くと、ボクから離れて靴を脱いだ。
「だれが作るんだよ」
「ボクが」
進藤はとても驚いた顔をして、それから「できんの?」と聞いてきた。失敬だな。
しかし数分後、ボクは唖然とした進藤の顔を見ることになった。
「オレならもっとうまく炊けるぜ。塔矢、水の分量まちがったんじゃないのか」
水っぽいご飯を見て、進藤はそう言った。ボクは黙って焼きすぎた卵焼きを置いた。
お母さんの作るのはもっと形もきれいで、黄身もわずかに半熟が残ってやわらかそうなのに、
ボクのそれは見るからにごわごわとして固そうだった。
焦げなかったのが不幸中の幸いだ。
他にタクアンとキュウリの漬物を出した。これは門下の人が持ってきてくれたもので、絶対
に進藤もおいしいと言うはずだ。
けど食卓を見て、そのあまりの貧相さに嘆息してしまった。
進藤にこんなものを食べさせるのか、ボクは。
泣きたくなった。
「おまえさ、オレんちに来るとき、いつもうまいもん持ってきてくれてたけど、おまえ自身
は料理は下手なのな」
「……なにか店屋物を頼もう」
「いいよ、せっかく作ってくれたんだし、食べるよ」
進藤は茶碗を引き寄せると、一口食べた。そして顔をしかめた。
「やっぱりベシャッてしてるな」
(5)
ボクも食べてみて、言葉につまった。
このお米も門下の人が持ってきてくれたものだ。粒も味もしっかりしていて、家族で大絶賛
したものなのに、ボクの手にかかると、なんでこんなふうになってしまうのだろう。
「……進藤、食べるな」
「なんかお粥みたい」
だから食べるなと言ってるだろう!
進藤は次に卵焼きに箸をのばした。口に放り込むと、すぐにおかしそうに笑った。
いったい今度はなんなんだ。
「塔矢、口を開けろよ」
箸で切り分けた卵焼きをボクのほうに差し出してきた。
言われたとおりにすると、進藤が口のなかにそれを入れてきた。
ボクは進藤の使った箸をくわえたことに気を取られた。だから塩のかたまりが舌を刺激した
とき、思わずのどの奥で悲鳴をあげてしまった。
進藤はボクのその様子を見て笑い声をたてた。
「ものすごくしょっぱいよな。どうせ塩と砂糖をまちがえたんだろ? お約束なヤツだな」
その通りでなにも言えない。
「おまえさあ、こんなんでいつも食事はどうしてんだ?」
「お父さんの門下の人が来てくれる。でもちゃんと一人でなんとか……」
そう、一人でなんとかはなった。
だけどだからと言って、ボクはまともに作ったことなんてないんだ。
出来合いのものや、門下の人や市河さんが差し入れしてくれたものを温めたりしただけだ。
フライパンをふるったり、包丁をにぎったりなんて、していない。
本当にボクは碁以外、なにもできないヤツなのかもしれない。
「なあ、台所どこ?」
「台所なんかになんの用があるんだ」
卵焼きを作るだけでも、ゴチャゴチャにしてしまった台所をボクは思い浮かべる。
あんなところに通したらますますボクは呆れられる。
だけどそんなボクの心情を知らない進藤は、笑顔で言ったんだ。
「オレが作ってやるよ。ちっとはましだと思う」
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