束縛 1 - 5


(1)
 桜を見に行こう、とヒカルは言った。
 高段者との手合いの日。棋院のロビーでアキラはヒカルを待っていた。
 ロビーを通る人間達は、必ずアキラを横目で見ていく。
「あの」塔矢アキラがこんなところで誰を待っているんだろうといった視線。
 名人の息子であり、自身も若手第一位の実力者として
 名を馳せる彼に注目が集まるのは当然だった。
 いや・・・そうでなくてもアキラは周囲の注視の的だったろう。
 それだけアキラの完璧な美貌、そして清冽な表情は
人に忘れられない印象をもたらすものだった。

「塔矢ー!ごめんな、待たせた?」
 エレベーターが開き、ヒカルが降りてきた。
 こちらはうってかわって無邪気な子供っぽい少年。
 色素の薄い大きな目が子犬のようだった。
 アキラを見つけ、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「いや、ボクもついさっき終わったばかりだから・・・キミも早かったね」
「うん。今日の相手、弱かったから」
 あっさりというヒカルに心の中で苦笑する。
 そうか、キミの「弱かった」相手、あれでも七段なんだけどな・・・。
 段位には関係ない。自分たちと互角かそれ以上に競える棋士は
すでにトップ棋士の一握りに過ぎなかった。
 その自分ももちろん今日の手合いに勝利を収めている。
 その帰り。手合いの後は待ち合わせをして
 二人でアキラの碁会所に行き、そこでその日の対局の検討をするのが
いつのまにか習慣になっていた。


(2)



「桜?」
「オレ達っていつも碁会所で打ってばかりじゃん。たまには息抜きもしたいなあって」
 だめか?と上目遣いでこっちを見てくるヒカルに逆らえるはずもない。
 ため息をついて答える。
「いいよ・・・いつ行くの?」
「今から!」

 いい場所を知っているから、というヒカルにつられるがままに電車に乗った。
 桜は満開だった。まだ冷気を含んだ風に枝が揺らされ、
薄いピンク色の花弁があとからあとから舞い降りてくる。
 ヒカルがアキラを連れて来たのは小さな公園。
 ちょっとした桜並木道がある。
 休日でないことを差し引いても不思議なくらいに人がいなかった。
 並木道をゆっくりと歩く。道は花弁に覆われ、夢のような光景だった。
「へえ・・・ちょっとした穴場だね」
 その言葉にそうだろ?とうれしそうにヒカルは言う。
「小学生の時にここをみつけてさ・・・ちょっと駅から離れているだろ?
だからあまり人が来ないんだ。ずっと来てなかったからどうなったか確かめたかった。
・・・変わってなかったな」
 何かを思い出すような表情。
 アキラは取り残されたような落ち着かない気分になる。
 ヒカルはじぶんにとって最初は碁のライバルだった・・・もちろん今も誰よりも対抗心を
かきたてられる相手だ。
 しかし、自分はそれを含めて・・・ヒカルを欲しいと思っている。
 ヒカルの表情、そのすべてを自分のものにしたいと思ったのはいつからだろう?
 自分の感情に翻弄されながらも、外には表さず、ただ歩く。


(3)
ヒカルはアキラのちょっと前を歩いていた。
 返答を期待していないように、ぽつりぽつりと言葉をつむぐ。
「オレってさ・・・こんなとこ一緒に来てくれる友達っていないんだよな。
囲碁部の友達も、院生になってからは距離を置かれていたしさ。
修学旅行だって手合いがあったから行かなかった」
 中学時代は碁が生活の中心だった。それはアキラも同じ。
 いや、ヒカルよりプロになったのが早かった分、ましてそうだった。
「ボクも修学旅行なんて行かなかったよ」
 神の一手を極めるために、全てを犠牲にしてきた。ヒカルはそれを後悔しているのか?
 自分とヒカルをつなぐものは碁しかなかった。
 ヒカルが棋士としての道を選んだことを悔いているとしたら。
 自分はどうすればよいのだろう?
 不安を押し殺しつつ尋ねる。
「棋士になって失ったもの、手に入らなかったものははとても多いよ。
でもボクは後悔しない。キミは後悔しているの?」


(4)
 ヒカルはちょっと考えている様子だった。
 碁を始めなかったら、いまごろきっと高校に行っていたろう。
 そして放課後に友達と遊びに行ったり・・・普通の高校生活を送り、
 平凡な会社員にでもなっていただろう。
 別にそのような人生に未練があるわけではなかった。
「いや、悔いてなんてないさ・・・でもたまにさびしくなるんだ」
 失ったものに。得られなかったものに。
 こんな桜の下ではそれらに愛惜の念が生まれる。
 ちょっと笑みを浮かべながら、うつむき加減に話すヒカルに目を離せない。
「オレの周りには和谷や伊角さん、それにおまえくらいしかいないんだな」
でも・・・。ヒカルは立ち止まった。いつのまにか風が吹き始めている。
 振り向いて言う。
「でも、おまえは友達なんかじゃない」
「・・・!」
 その言葉に思わず絶句する。
「おまえはオレのライバルだから。馴れあったらだめだよな・・・戦えなくなる」
棋士である以上、孤独は覚悟しなくては。わかっているつもりだった。
そのまま前を向いてまた歩き出す。
 アキラはその背中を見つめたまま、しばし立ち尽くした。


(5)
 アキラはしばらく動けないままだった。
 それに気付かないように、ヒカルはアキラを置いて歩いていってしまう。
 風に桜が舞っている。ヒカルと自分との間が桜によって遮断されていくような、
薄桃色のもやの中にヒカルが消えていってしまいそうな。
 目を離したら、すぐヒカルは自分の手から逃れていってしまう。
 そんな錯覚を覚え、思わず足を速めてヒカルに追いすがる。
 じっとヒカルの横顔を眺めた。
 ヒカルは物思いにふけっているようだった。
 

 そう、オレは碁のためにいろんなものを捨てたんだな。
 気付けばオレのまわりには誰もいない・・・。後悔なんかしないけど・・・。

 ああ・・・でも一人いたな・・・友達で先生で、兄弟のかわりで・・・。
 ・・・ずっと一緒にいてくれた。
 この場所はおまえと見つけた。桜の見事さに子供のように喜ぶおまえを覚えている。
 ここに来ても・・・おまえは、佐為は・・・もう、いないんだけど・・・



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