他愛のない話 1 - 5
(1)
「進藤」
棋院を出ようとしたところで、声をかけられた。
聞き覚えのあるその声に、心のなかで肩を竦め、ヒカルはゆっくり後ろを振り返った。
「いま帰りか?」
案の定、声をかけてきたのはいつものように白いスーツに身を固めた、緒方十段だった。
「こんにちはぁ」
ヒカルはこの人物を苦手としている。
院生試験を受ける時、便宜を図ってくれた恩人ではあるのだが、ほんの短い期間ネットを騒がした最強棋士saiと、自分に関わりがあるのを見抜いている数少ない人物でもある。
ましてや、saiと打たせろと、数度にわたって絡まれているのだ。
ヒカルが緊張するのも無理はない。
先日もそうだ。
先週の金曜日、ヒカルはこの緒方とともに栃木にいた。
日本棋院主催のイベントに招かれたのだ。
それぞれ女流棋士と組み、壇上でぺア碁を打ったのだが、ヒカルにとって初めての体験で、面白くもあれば歯痒くも思える対局だった。
昼に始まったイベントは夕方には終わり、その日はその地で一泊した。
いつかと同じく、話しかけたそうな緒方を最後までかわすことができたのは、伊角つながりで面識のある桜野プロのおかげだった。
姉御肌の桜野プロと行動をともにすることで、緒方を牽制することに成功したのだ。
現在、二冠を保持するトップ棋士が、saiを忘れずにいてくれることに、ヒカルは素直に感動を覚える。
偶さか目にした佐為の碁が、緒方には忘れられないものだったのだ。
藤原佐為という人物は、千年の歳月に埋没したかもしれない。
歴史というものは、平凡な日常の積み重ねである。
人々の記憶に残り、歴史書に記される"事件"は、営々と積み上げられた事実のなかの、一握り。
言うなれば、砂浜で輝く桜貝のようなもの。誰も、砂の一粒に目を留めはしないが、一粒の砂が無数にあってこそ、初めて砂浜は砂浜となりうる。
歴史書を紐解いても、藤原佐為の記述はない。
だが、ヒカルには記憶がある。
自分と共に在った、3年間の記憶がある。
それは、誰とも共有できるものではなかったはずだ。
それでも―――――
(2)
千年を永らえた情熱は、隠しても隠し切れるものではなかったのだ。
インターネットという、至極現代的な事物が、佐為を現代に蘇らせた。
それをヒカルは、奇跡だと思う。
「送ってやろうか?」
緒方は車の鍵をちらつかせながら、口の端で笑う。
それは随分、邪気に満ちた笑みだった。
ヒカルは両手を掲げて、「ご遠慮します」と尻込みしながら断った。
眼鏡の奥で細められた瞳は、なにかを企んでいるとしか思えない。
「そんなに警戒するな」
緒方が苦笑で言った。
「別にsaiと打たせろなんて言う気はないからな」
そう前もって断るほうがかえって怪しいと、ヒカルはますます身構える。
打たせてあげられるものならば、打たせてやりたい。
これほどまでに望んでいるのだから、打たせてやりたい。
でも…………、それは永遠に叶わないことだから。
ヒカルはしばらく考えてから、静かに口を開いた。
「駅まで……、駅まで送ってくれますか?」
「おかしな奴だな」
緒方がそう言うのも無理はない。棋院から最寄駅まで、歩いたところでたかが知れている。
だからこそ、緒方にもわかったのだろう。
ヒカルがなにか話したいのだということを。
ふたりきりで。
それも、長時間ではなく。
「いいだろう」
短く答えた緒方の横顔を、ヒカルは言葉もなく見詰めていた。
不思議と心は穏やかだった。
(3)
「saiは、いない……?」
隣で繰り返す緒方の声は、うめいているようにヒカルの耳には聞こえた。
「佐為は、"この世には"いません」
ヒカルは自分自身確かめるように、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「………そうか」
緒方は、大きく息を吐きながら呟くと、ハンドルを切った。
少しそれが乱暴だったのは、幾許かの動揺があってのことだろう。
「塔矢先生は?」
「機会があれば、話したいって思ってます。俺の言葉で」
「そうだな……、うんそうだな」
信号待ちもあったし、緒方はゆっくり走ったようだが、赤いスポーツカーはもう駅前に着いていた。
「それじゃ」
緒方が、路肩に車を止めると、ヒカルは助手席のドアを開けた。
「あ、進藤」
緒方が引きとめる。助手席側に身を乗り出し、体半分既に外にあるヒカルを呼びとめる。
「悪かったな」
ヒカルは、無言のまま大きく首を横に振った。
「聞かせてくれて、ありがとう」
今度は小さく。「いいえ」と言いかけたが、口を開けば泣いてしまうような気がした。
言葉にするのはいつでも辛い。
佐為の存在を、自分が消してしまうようで辛い。
緒方のなかの佐為は、これからどう変化するのだろう。
"いつか打ってみたい存在"が、どのように変わっていくのだろう。
だが、どこかでけじめはつけなければいけないのだ。
まだ、これからも生きていかなければならない人間に、それは大切なことなのだ。
ヒカルは、それを知っている。
勿論、胸は疼く。
疼きはするが、一生この思いを抱きしめて生きていくのだと、覚悟は疾うにつけた。
(4)
――――誰が忘れても、俺だけはおまえのこと覚えているからな。
胸の痛みは、その証なのかもしれない。
ヒカルはそう思うと、少しだけ微笑むことができた。
幽かな微笑を口元にたたえ、緒方に視線を戻す。
なにか、言いたそうな表情は見なかったことにして、軽く頭を下げる。
「送ってくれてサンキューでした」
緒方が、軽く笑った。
「お礼が言えるようになったんだな。大人になったもんだ」
ニ冠のトップ棋士は、人間的にも大きいようだ。彼の一言で、重苦しい空気が色を変える。
夕暮れだった。
秋の空は、金から茜にゆっくりと染まっていく。
街は、甘く優しい香りで満たされていた。金木犀の香りだ。
駅前の雑踏の中にいるというのに、秋の香りはここまで漂ってくる。
どこで咲いているというのだろう。
姿は見えないのに、隠し様のない――香り。
また、胸が疼く。
「あれ、進藤君?」
今日はよくよく声をかけられる日だと思いながら、ヒカルはまたしても後ろを振り返った。
よく知った顔がそこにいた。ヒカルがその人物の名前を口にする前に、緒方が声を上げていた。
「芦原じゃないか。おまえ、なにやってんだ」
「それはこっちの台詞ですよぉ」
緊張感に欠ける口調は、芦原の特徴だった。
(5)
「進藤君と緒方さんって、めずらしい取り合わせじゃないですか」
ヒカルの横に立ち、車のなかの兄弟子に、話しかける芦原の手には、ケーキの箱があった。
「芦原さん、それ一人で食べるの?」
ヒカルは思わず尋ねていた。大きな四角い箱が、二つ。20個は入っているだろう。
「まさか、今日これから研究会でね。差し入れ。
緒方さんも参加されるんでしょ? 乗せてってくださいね」
「それは、別にいいけど。どうした風の吹き回しだ? ケーキなんて」
「いやね、先週アキラ君が買ってたの見たんですよ」
「先週?」
緒方が先を促す。
「ええ、先週の金曜日、この店で丸いのを。バースデーケーキの一番小さいヤツ」
「アキラ君の誕生日は、12月じゃなかったか?」
「ええ、たしか。でも、子供の頃、思いませんでした? バースデーケーキまるまる一個食べたいって」
そんな事を話しながら、ヒカルと入れ替わるようにして、芦原が緒方の車に乗りこんだ。
「先生と明子夫人が留守の間、食事の心配はしても、おやつの心配はしたことなかったなって」
「16の男のおやつの心配をしてやったって訳か」
「僕も久しぶりに食べたいかなって思ったんですよ。それにアキラはこんどの誕生日で16になるんですよ。緒方さん」
緒方は苦笑を浮かべると、ヒカルに目配せをする。
ヒカルは、明るい笑みでそれを受けた。
「それじゃ、またな」
「気をつけて」
会釈をし、ドアを閉めてやる。
緒方の車のテールランプを見送りながら、ヒカルはポケットから携帯電話を取り出した。
自惚れでないのなら、アキラの買ったケーキは、バースデーケーキのはずだ。
ヒカルは考える。
どんな言葉でそれを確かめればいいのだろう。
あの、強情で負けん気で頑固なヤツは、すぐに認めたりはしないだろう。
先週の金曜日。
9月20日にケーキを買ったことを、認めたりはしないだろう。
「バッカじゃねーの」
ヒカルは、呼び出し音を聞かせる携帯に囁いた。
「一人で食ったって、うまかないって」
胸の疼きが軽くなる。
誰かが誰かを思っているという、そんな―――他愛のない話。
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