番外編1 Yの悲劇 1 - 5
(1)
その日、大手合いを終えたヒカルは棋院の玄関口でサインを求められた。
棋院の売店で売っている白扇とサインペンを持って佇んでいた青年は、
エレベーターを降りて帰ろうとするヒカルを見つけると真っ直ぐにヒカルに近
づいてきた。
「進藤プロですよね。サインをお願いできますか。」
「えっ、オレ?オレなんかでいいの?」
「ええ。期待の新人と伺っています。よろしくお願いします。」
駆け出しの新人の自分にわざわざサインを求めるのは不思議な気がしたが、そ
ういわれれば満更でもない。なにしろサインを求められるなど、プロになって
初めての経験なのだ。
「オレ、字ヘタだけど、いいかな?」
「もちろん、構いません。」
そう言われれば書かないわけにもいかない。字がヘタなのはちゃんと言ったし、
何よりむこうが望んでいることだ。
「あっ、脇によしたけ君へ――って書いてもらえますか。」
青年は微笑みながら付け加えた。
その名前の漢字は、説明されてもヒカルにはまったく思い浮かべることができ
なかった。希望を叶えるためには、嘉威はカバンをかき回して学生証を示さな
ければならなかった。
しかし、その込み入った漢字はやっかいだったので、進藤ヒカルと書いたサイ
ンとほぼ同じ大きさの為書きが並ぶ不恰好な扇面となってしまった。
(あちゃー!まっ、しょーがねェよな、こんな難しい漢字書かせるんだもん。)
内心の焦りを隠して、ヒカルは扇とペンを渡した。
(そういえばプロ入り前に倉田さんと一緒にサインしたっけ。あの時もこんな風に名前、並んでいたっけな。サインなんてするの、あれ以来か。)
こうしてプロになって初めてのヒカルのサインは、嘉威の手に渡った。
(2)
嘉威がヒカルのファンというわけでは、残念ながら、なかった。
嘉威はプロが無名のうちにサインを一通り集めておこうという、単なるサイン・
コレクターだったのだ。狙いは父が趣味にしている囲碁のプロだった。
テレビ番組の影響で将来のお宝をゲットしようと中学生の頃からコレクター道
に精を出してきたお蔭で、コレクションは気鋭の若手・塔矢アキラはもちろん
のこと、芦原、冴木、辻岡、真柴といった若手のサインを網羅している。若手
の中から逸早くタイトルを獲得した緒方十段のサインがないのは返す返すも残
念だが、すでに頭角を現している倉田には、まだ四段の頃だったせいか、気軽
にサインに応じてもらっている。ヒカルの同期、越智と和谷のサインもとうに
入手済みだ。
塔矢行洋、桑原本因坊、一柳棋聖といった大御所は恐れ多く頼むことができな
かったが、先物買いがいいんだと強がっていた。もっぱら若手ばかりではある
が、燦然と輝く嘉威のコレクションに欠けているのは、しばらく手合いに出て
こなかったヒカルのものだけだったのだ。
(オイ、これがサインかよ。)
チラッと見ただけでコレクションの中でも最低の字であることを確信した嘉威
は、かすかに引きつった笑顔でヒカルに握手を求めた。
「期待してます。いつかタイトルとって下さいね。」
「うん、がんばるよ。」
お宝化の期待は早々に消えつつあったものの、とりあえず社交辞令をいい、嘉
威はヒカルの手を握った。
その時だった。
「おい小僧、またメシでもくいにいかんか。」
手の中のヒカルがビクッと震えた。後ろには、桑原本因坊が立っていた。
(さすが本因坊ともなると、同じプロでも緊張するんだ。)
目を大きく見開き、固まっているヒカルを見て、実力の世界の厳しさを垣間見
た気がした。
(3)
「す、すみません。これから指導碁の予定があって。」
あやまるヒカルは気後れしているように見えた。
千載一遇のチャンスを逃す嘉威ではない。
すかさずカバンから新たな白扇を出すと、桑原に向かってサインを求めた。
「桑原本因坊、サインをお願いできませんか。」
「ほう、構わぬよ。じゃが、ワシは立ってサインせん主義でな。」
猿のような老人は目を細めて青年を見た。
「ワシはこれからメシをくうんじゃが、一人ではうもうない。
若いのに碁を打つとは感心じゃ。つきあわんか。」
(こんなことがあっていいのだろうか)
戸惑いと緊張を感じながらも、嘉威はタイトル・ホルダーとの食事とサイン獲
得の誘惑を断わるほど遠慮深くはなかった。
「じゃあ小僧、また次の機会にな。」
軽く右手を背中に向けて振ると、桑原本因坊は歩きはじめた。
嘉威も慌てて後を追った。
追いながら振り向いて会釈すると、ヒカルはしきりに睫毛をしばたたかせてい
た。
(まだ緊張しているのか。それにしても、目、大きいんだな。)
余計なことに感心しながら、自分が共に食事をすることになったこの老人の囲
碁界における存在感を改めて思い知らされる気がした。
(4)
タクシーで連れて行かれた場所は高級そうな料亭だった。
いかに社会的地位のある人物とはいえ、まさかこんな贅沢な食事になるとは予
想もつかなかった。一人あたり数枚の万札が飛んでいくだろう。何枚になるか
は見当もつかない。せいぜいちょっとしたレストランか料理屋に行くものだと
思っていただけに、普段は周りから厚かましいと評される自分でも言葉がでな
い。
桑原も黙ったままだった。
なじみの店であるらしく、女将に軽くうなずくと、スイスイと奥へ入っていく。
静かな廊下を遅れないにようについていくしかない。
掛け軸やら花やらの飾られた座敷につくと、ほどなく仲居が酒と料理を運んで
きた。
「まぁ、飲まんか。」
ようやく老人が口を開いた。
「もうすぐ本因坊戦が始まるでな。その前に精をつけようと思っておったのじ
ゃ。あの小僧をつれてこようと思ったが、まぁよい。若い者なら楽しめよう。
気にすることはない。」
気分が少し軽くなる気がした。
取り寄せているらしい日本酒は、少し苦い気がした。
酒は好きだが、普段は発泡酒や酎ハイばかりだ。高級な日本酒には縁がないせ
いだろう。だが、酔って気分がほぐれれば十分だ。
お目にかかったこともない料理も前に並んでいる。
勧められるまま、酒を飲み、棋戦の裏話を興味深く聞いた。
少し、過ごしたか。いや、さほどには飲んでいないはずだ。入ったこともない
店にきて、緊張して酔いが回ったか。店というより目の前の人物に気押されて
いるせいかもしれない。嘉威は呂律が回らなくなり、次第に意識が遠のいてい
くのを感じた。
(5)
ニヤリと笑った細い目が自分の方に近づくと、意外に手強い力で隣の部屋に体
を押した。
襖のむこうには準備よく布団が延べられている。
ここで寝ろということか。朦朧とした頭では、食事をした部屋の隣に布団があ
ることが、まったく不自然に思われなかった。
上着を脱いでそのまま布団に入ろうとすると、桑原はシャツのボタンを外そう
とする。申し訳ないと思いながらも、なにか言うのも億劫でなすがままにまか
せる。布団に横たわり、ズボンも靴下も脱がされ、何かがおかしいと感じたの
はその手がブリーフにかかった時だった。
「あうっ、ヤメロ」
叫ぼうとするが、言葉になったかどうか、わからなかった。
力のきかない体からたやすく下着は剥がされた。
小柄な体に似合わぬ大きな手が、嘉威のうなじを這い回り始めた。
ヌメリとした桑原の唇が嘉威の唇をふさぐ。熱い舌が歯列を押し入って口腔の
そこかしこを愛撫していく。
これはおかしい、やめてくれ、思いながら嘉威は前にも増して呼吸が荒くなっ
てくるのを感じた。
熱い舌は耳朶から乳首、脇の下と次第に下方へ移動していく。
「うっ、…ふぅ…」
体が熱くなってくる。
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