番外編2 冷静と狂気の間 1 - 5


(1)
日本海に面した東北の温泉町を目指して、俊彦は夜行列車に乗っていた。
――青春18切符のある時期でよかった。そうじゃなきゃ、行きたくても
  ちょっと難しかったな。
点々と灯るわずかな明かりが流れていくさまを見つめながら、俊彦は慌し
く過ぎたこの1日を思い返していた。

――きょうでもう1週間になる。
  明日はあいつのところに訪ねていこうか。
1日、2日大学をサボルのは珍しいことではなかったが、さすがに1週間
となると長い。携帯でも連絡がつかない。課題の出ている授業もある。
心配していた俊彦の前に嘉威が現れた。
だが、久しぶりに見せたその姿は不安を増すものでしかなかった。
2限目にようやく登校してきた嘉威の目は虚ろで、欠席中のノートや課題
の話をしても、まともな返事が返ってこない。それどころか、好きなアニ
メや囲碁の話をしても一向にノッてこないのだ。
「どうしたんだ。」
肩をつかむとビクッと怯えた目で俊彦を見た。
講義が始まったが、耳に入っているのか。ノートもとらずボーッと黒板を
見ている嘉威を、俊彦は横目で睨んだ。
授業が終わると、何を聞いても「ああ」とか「いや」といった曖昧な返事
しかよこさないまま、嘉威は帰っていった。

――あいつに何があった。
迷った末に、やはり俊彦は嘉威の家を訪ねることにした。一番気の合う友
人は嘉威だった。
――苦しいことがあるなら、力になりたい。
俊彦はコンビニで発泡酒を買うと嘉威の家に向かった。


(2)
俊彦の訪問は明らかに迷惑そうだったが、強引に上がりこんで話すことに
した。
「どうしたんだ。昼間もいったけど、お前、ヘンだよ。
こんな時は酒でも飲みながら悩みをブチまけるのが一番だ。いっちまえ
よ。」
部屋に入っても沈黙が続いた。
これまで断わったタメシなどなかったのに、酒を勧めても、
「イヤ、オレはいい」
と断わる。隅で膝をかかえてうずくまったまま、嘉威は動こうとしなかっ
た。
「俺は飲むぜ。」
見回しても、部屋の中に変わったところはなさそうだった。
長い沈黙に耐えられず、俊彦は急ピッチで発泡酒を1本空にした。
「俺じゃダメか。役には立たないか」
そういいながら、新しい缶に手を伸ばした。
突然、ウッという嗚咽が洩れてきた。嘉威は体を丸めて泣いていた。
しばらく気の済むように泣かせた後、俊彦は嘉威のそばにいった。肩に手
を掛けようと思ったが、昼間の姿が目に浮かんで、声をかけるだけに留め
た。
「落ち着いたか」
「オレがバカだったんだ。でも、本因坊ともあろう人があんなことをする
なんて…」
「飲むか」
改めて酒を勧めると、今度は素直にうなずいて口をつけた。
「この味、この味だよ。オレにはこの味があってるんだ。分相応にこの味
で満足してりゃあ、あんなことにはならなかったんだ。」
ポツリポツリと話し始めた内容は、俊彦を驚かせるのに十分だった。
棋院の前でサインを求めた桑原本因坊に連れられて高級料亭にいき、酒を
飲んで前後不覚のところを犯されたというのだ。桑原本因坊――。嘉威の
影響で碁を始めた俊彦でも名前くらいは知っていた。
「だってお前、酒強いじゃないか。そんなに飲まされたのか。」
「ううん。酒、日本酒だったんだけど、あの中に何か入ってたんだと思う。
体が全然きかなくなっちまって…」
話しているうちにまた声がうるんできた。
「ちょっと苦い気がしたんだ。でも、いつもの安酒と違うから、オレ、舞
い上がっちまって…」
「今から思うと、あれはヤメロって合図だったのかもしれないな。本因坊
の前に進藤って若手にサインをもらってたんだけど、オレが本因坊と話し
てる時にしきりに目をパチパチさせてて…。オレ、本因坊の前で緊張して
るのかと思ったんだけど…」
重荷を解き放って、嘉威は少しずつ平静さを取り戻してきたようだった。
一方、俊彦はふつふつと怒りがこみ上げてきた。
――本因坊ともあろうものが。しかも、ジジイだろう。やっていいことと
  悪いことがある。そいつに謝らせずにおくものか。でも、本因坊なん
  て、いったいどこにいったら会えるんだ。
ふと頭をあげると、机の上に手付かずで放り出されていた「週刊碁」が目
に入った。この中になにか書いてあるかもしれない。手にとって裏側にな
っていた1面をみると、『粘る桑原』なんと当の桑原の本因坊戦の勝利を
伝えている。俊彦は猿のようなその老人の顔を脳裏に刻み込んだ。めくっ
ていくと今週の手合いの欄に本因坊戦最終局があさって開始とある。だが、
会場は東北だ。どうする。この問題に一刻も早くケリをつけてやりたい。
一瞬悩んだが、いい考えが頭に浮かんだ。行こう、と俊彦は心に決めた。「週
刊碁」は借りて帰ることにした。
部屋を出る時、嘉威は呆けたように缶を手にしていた。
「でも、痛いだけじゃなかった。よかったんだ。」
背中から聞こえたつぶやきに思わず振り向いた。嘉威の暗い瞳は、俊彦を
ゾクリとさせた。


(3)
――そうだ、今なら青春18切符がある。夜行で行けば明日のうちには会
  場のホテルにつける。
簡単な旅支度をディバッグにつめ、明日のコンビニのバイトは交代を頼ん
だ。夜行列車・ムーンライトえちごに乗るため、俊彦は駅へ急いだ。

怒りにまかせて列車に飛び乗ったものの、なんといって謝らせたらいいの
か、俊彦は頭を悩ませていた。
――嘉威の前で土下座をするとでも約束させようか。それとも慰謝料を請
  求してやろうか。いや、それじゃあまるで恐喝みたいだ。週刊誌にい
  うぜとでも言えば青くなって詫びを入れてくるかもしれない。でも、
  ホテルにいけば本因坊に会えるんだろうか。だいたい勢いでこうして
  出てきたが、これでよかったのか。嘉威は早く忘れたいだけかもしれ
  ない。じゃ、謝ってほしくないのか。それはないよな。
嘉威の部屋で発泡酒を飲んでいたというのに眠気は訪れず、どうどう巡り
をする俊彦の頭はますます冴えてくるばかりだった。早朝、夜行列車は、
ほとんど一睡もできないままの俊彦を乗せて終点の村上に着いた。本因坊
戦の開かれる町はそこからさらに鈍行で半日近くかかる。
ようやく目指す駅についた頃には昼はとうに過ぎていた。耐え難い空腹が
迫り、目の前のラーメン屋に飛び込んだ。
「チャーハン、餃子」
出てきたものを野犬のようにガツガツと腹に収めた。考えると昨晩からま
ともなものを食べていない。ようやく人心地がついたところで、ラーメン
を追加した。
入り口の戸がガラッと開くと前髪がヤケに明るい少年が入ってきてラーメ
ンを注文した。カウンターの隣に座った少年は、ディバッグに差した「週
刊碁」を取りだしバサッと広げて読み始めた。
――こんなところで「週刊碁」を見るなんて…
ちょっと驚いて見ていると、少年もその視線に気づいて問いかけるような
目をする。俊彦は脇にある自分のディバッグに差した「週刊碁」を引き抜
いた。
「お兄さんも碁打つんだ。」
少年はニコッと笑って話しかけてきた。
「まだ始めたばっかであんまうまくないけどな。」
「オレもそうだよ。まだそんなに強くない。でもさ、碁って面白いよね。
碁盤は宇宙なんだよ。そこにさ、石をひとつひとつ置いていくと星をひと
つひとつ増やすみたいだろ。どんどん宇宙を創ってくんだ。オレは神様に
なるんだよ、碁盤の上で。」
ビー玉のような目をキラキラさせて話す少年に、俊彦は思わず引き込まれ
ていく。ラーメンを食べると少年は快活な挨拶を残し去っていった。
――俺はジジイと対決するんだよな。
気合を入れて俊彦も席をたった。


(4)
明るくラーメン屋を出たヒカルだったが、本当は不安を二つ抱えていた。
ひとつは明日の記録係がうまくやれるかどうか。最初は和谷に教えられて
もできるわけないと思った記録係の仕事だが、何度かこなすうちにそれな
りに務まるようにはなってきた。しかし、明日は初めてのタイトル戦の記
録係だ。タイトル戦を間近で見られるという利点はあるが、緊迫する対局、
失敗しないか自分でも自信がない。
もうひとつの不安は、その場に出てくるのが桑原本因坊だということだ。
桑原からは先日も怪しい誘いを受けた。その時はなんとか逃れたが、今晩
また声を掛けられたらなんといって断わればいいんだ。こんな時、塔矢が
そばにいてくれたらいいのに。急に心細くなってきた。
本因坊戦の会場となる温泉ホテルの前で、ヒカルと俊彦は再会した。
「あれ、さっきのお兄さんじゃん。どうしたの。」
「お前こそ、こんなところになんか用事でもあるのか。」
「オレは明日、本因坊戦の記録係でさ。」
――えっ、こんなガキが…もしかしてプロか。まだ子供だろ。
俊彦は唖然とした。
「お兄さんはなんの用?観戦なら明日でしょ。」
「桑原本因坊に会う用事があるんだ。」
「なんだそうなんだ。そのうち来ると思うから、ロビーで待ってたらいい
よ。関係者の打ち合わせが6時からだから、もう少ししたら来るんじゃな
いかな。荷物、部屋に置いたら一緒に待っててあげようか。」
――助かった。目の前のヤンチャなガキが天使に見えてきた。
2人でロビーで碁を打った。もちろん、俊彦の九子置きだった。
――子供のようでもさすがプロだ。大したもんだな。
「あっ、桑原先生だよ。」
振り返ると、「週刊碁」でみた老人が入ってくるところだった。
「おう小僧、記録係でもやるのか。」
「はいッ。よろしくお願いします。えっと、それで、この人が先生に会い
たいって。」
ヒカルは俊彦を引き合わせると、姿を消した。
桑原が俊彦を見た。
「どこぞで会ったかの?」
「いえ、友人の代理で来ました。先日あなたに料亭につれこまれた嘉威の
友人です。」
いくぶん目を細め、桑原は改めて俊彦を見た。
「ふむ。ワシはこれから打ち合わせがある。遅くなるから部屋で待ってい
るがよい。その後で酒でも飲むか。」
「あなたと酒なんか飲まない。なにを飲まされるかわかったもんじゃない
からな。」
「ふん。まぁよい。とにかく部屋で待っておれ。なんなら温泉につかって
いてもよいぞ。」
フォッフォッフォッとわざとらしく笑うとフロントから鍵をもってきて、
俊彦に手渡した。


(5)
迷ったが、あまり長い間ロビーにいるわけにもいかず、言われた部屋で桑
原を待つことにした。504号室。次の間のついた贅沢な造りの和室が本因
坊に用意されていた。鍵を預かっていたので、ドアは細めに開けておいた。
時間がかかるとはいったが、待てども待てども桑原は戻ってこない。9時
を過ぎるあたりまでは覚えていた。しかし、昨夜の睡眠不足と長旅の疲労、
そしてこれまでの緊張が次第に俊彦の意識を蝕んでいった。いつしか座卓
にもたれ、深い眠りに引き込まれていた。

口の中に何かを押し込まれる違和感に意識が戻った。咥えさせられている
のはタオルのようだった。気づくと、前方に投げ出した俊彦の両手首は、
浴衣のものらしい紐で固く結わえられている。桑原の仕業であることは瞬
時に理解した。
――しまった。俺はジジイを甘く見ていた。
幸いまだ足は自由だった。背後の桑原をつきとばすと、俊彦は逃げ道を求
めた。だが、ドアに通じる襖は閉じられていた。意外と重い。足で引き開
けようとしても思うように動かない。体を起こした桑原が、薄気味悪い笑
みを湛えながらジリジリと迫ってきた。
「う、う、うぅぅ」
牽制のため発した声は、タオルのせいで言葉にはならず、獣のようにしか
響かなかった。睨み合いが続く。近づく桑原に足蹴りで対抗する。
――ジジイの狙いはわかった。嘉威の二の舞になるのはゴメンだ。でも、
  どうやったらこの部屋から出られるんだ。
暗澹たる思いを抱きながら、俊彦は遮二無二足を前に蹴り上げた。しかし、
縛られた両手を頭上に上げたなさけない格好ではむやみに足で防御しても、
限度があった。次第に息が上がり、肩が激しく上下に揺れ始めた。力なく
上げた左足を引かれると、俊彦はたやすく転がった。疲弊した両足の上に
桑原と絶望的な運命がのしかかってきた。



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