天涯硝子 1 - 5
(1)
いつもの研究会が終わり、皆でエレベーターホールへと出た。
誰かが冗談を言って笑わせるなか、和谷が急に大声でネットで対局した一局がどうこうと言い出した。
「そういうことはなぁ、もっと早く言うもんだ」
森下九段がたしなめる。
「今日はもう終わったんだぞ」
「メシ食って帰りますかー?」
誰も和谷の言うことなど聞く耳持たぬといった風で和谷はムッとふくれる。
運動靴を履き損ね、ひとりモタモタと皆の後に続いたヒカルの前で、
冴木がジーンズのポケットを探るのが見えた。
「あ…いけね、鍵」
対局室に戻ろうと振り返った冴木は、ちょうど真後ろにいたヒカルにぶつかった。
「あ、ごめん」
「…すみません」
エレベーターのドアが開いて皆が乗り込む。
「俺、ちょっと忘れ物したんで」
冴木はそう言うと小走りに対局室へと戻って行った。
「何忘れたんだよう!冴木さんっ」
和谷が腹立ち紛れに叫んだ。
「おっちょこちょいって云うのか?ああいうの?」
のんびりとした声に皆が笑い、ドアが閉められる。
そして、ふと気づいた。ヒカルがエレベーターに乗っていなかった。
「あれ?進藤は?」
ヒカルはエレベーターの前で動けずにいた。
もちろん皆と一緒に下に降りていくつもりだった。
冴木とぶつかった時、何か前にもこんな感じのことがあったなと思い、
何だろうと考えていてエレベーターに乗り損ねたのだ。
−−−何だろう、この感じ…。
思い出しかけては引いていく、この感じ…。
ぼんやりしてるなと思い直し、ヒカルは冴木を待った。
冴木は指先にクルクルと鍵を廻しながら戻ってきた。
「あ?進藤、一緒に行かなかったのか?」
「ははは。ちょっと…」
「うん?」
「冴木さん、何忘れたの? その鍵?」
冴木は嬉しそうに笑った。
(2)
「新しい車を買ったんだ。新古車だけどな」
「新古車?」
エレベーターが来たので、ふたりして乗り込んだ。
操作ボタンの前に立ち、ヒカルは1階のボタンを押してから少し迷い、冴木に聞いた。
「2階に寄って行く? さっき和谷がネットの対局がどうとかって…。対局場にいないかな?」
「そうかな? 帰ったって云うか、皆1階にいそうだけどな」
「…そうだね」
ヒカルは振り返って冴木を見た。
左後ろ、冴木が笑顔でヒカルを見ていた。
「−−−」
検討の時や練習手合いの時の合間に見せる苦笑混じりの笑顔ではない。
欲しかったものを手に入れ、小さな子供のように喜んでいる顔だった。
そして何より、ヒカルが振り返り少し見上げたその高さは、
佐為がいつも笑顔で自分を見つめていてくれた場所だった。
忘れないだろうと思っていた、佐為の感覚…。
佐為が消えて、もう1年以上が過ぎた−−−。忘れていたのだろうか。
いや、そうではない。
佐為と重なるものなどないと思っていた−−−だから、冴木とぶつかった時に
佐為と向かい合っていた頃の感覚が蘇ったものの、それがすぐさま佐為と重ならなかったのだ。
思い出しそうで引いて行った、懐かしい感覚。
ヒカルは、泣き出しそうな気持ちでいっぱいになった。
佐為と冴木が重なる−−−そう思い始めると、冴木の肩幅も、その胸の厚さも、手の形も顔も、
佐為に似ているような気がしてきた。
「……」
ヒカルは向き直り、少し高ぶった気持ちを落ち着けようと大きく息をついた。
1階に着いてドアが開く。
いるだろうと思っていた和谷たちはいなかった。
「…やっぱり2階かな」
声がうわずっているような気がする。
「…いいさ、今日はもう終わりだ。帰ろう、進藤」
「…うん」
ゆっくりと歩き、冴木の後に着いて棋院から出た。
棋院から道路に出ると、冴木は右手を上げてヒカルに手を振った。
「さよなら」
ヒカルが左に折れ、駅に向かおうと歩き出そうとすると、急に冴木が思い出したように声を掛けてきた。
「進藤! 送って行こうか」
「え?」
「駅までじゃなくて、進藤の家までさ」
「えっ、でも」
「ホントはさ、新しい車を転がしたくてしょうがないんだ。乗っていかないか?」
ヒカルはそう冴木に 誘われて、何だかとても嬉しかった。
嬉しくて笑顔になってしまうのを何とかして止めようと、口を真一文字に結び、そして大きく頷いた。
(3)
ヒカルは乾いた自分の唇を、何度も舐めていた。エアコンの乾いた空気のせいだった。
冴木が話す車の話などよくわからないが、新しい車の匂いに自分も楽しい気分になった。
最初はヒカルの自宅までだと言っていた冴木も、まだ時間が早いこともあって、今は少し郊外までドライブしようと言い出していた。
ヒカルは翌日の大手合いがあることを気にしながらも、機嫌のいい冴木の傍にいたくて冴木の言葉に同意していた。
窓の外の流れる街の灯りが少しづつ減っていく。行き交う車の数も減り、もの淋しい感じがしてきた。
少し郊外へ、と言っていたのに街灯があるのも珍しいような場所を車は走っている。
行く先もはっきりとわからない、こんなに暗い道を走る車に乗っているのは初めてだ。
アスファルトの道なのに、両端は木々が迫り道はくねって先が見えない。
「進藤、見てみろよ」
冴木はアスファルト道路を少し広くした駐車場のような場所に入り、車を停車させ、ライトを消し、エンジンを止めた。
「あの先だよ。街の灯りが見えるだろ?」
冴木が指差した先を見るが、木の間からちらちらとしか光は見えない。
「よく見えないよ…」
ヒカルは心細くなった。
「よし、降りて見るか」
ドアを開けて外へ出る。
都会の街中ならば、夜でも蒸した昼間の熱気が残っているところだが、
ヒカルには全く場所のわからない山の中に来ただけはあって、空気は冷たく肌寒かった。
辺りは暗く静かで、都会で育ったヒカルには経験したことのない闇が広がっている。
冴木が傍に歩いてきた。
「冴木さん、暗くて歩けないよ」
「ん?」
「…恐いな」
冴木がもっと近づく気配がして、ヒカルは思わず冴木にしがみついた。
「おい、子供みたいだぞ。…って、子供か」
冴木はヒカルの細い肩を抱き、歩くように促した。
ヒカルは両腕を冴木にまわして抱きついていたせいで、足をもつれさせ転びそうになった。
「しょうがないな」
冴木はそう言うと、ヒカルの足をすくい、抱き上げた。
「軽いな、進藤は。俺の首に手をまわして。ちゃんと捕まって」
冴木に抱き上げられ、ヒカルはホッとした。
何も見えない冷たい闇の向こうに、得体の知れないものが潜んでいそうで、恐くてしかたなかったのだ。
軽々とヒカルを抱き、冴木は少し歩いた。
「あ、ほら。ここからならよく見える」
車の中からは、ちらちらとしか見えなかった街の灯りが、宝石箱を引っ繰り返したという形容そのままに眼下に広がっていた。
「わあっ! オレ、夜景って初めて見るーっ」
ヒカルは思わず大きな声を上げた。
「見たことなかったんだ?」
「うんっ。冴木さん、ありがとう。きれいだなー」
「ふうん。…進藤、女の子ならよかったのにな」
冴木はそう言うと、素早くヒカルの頬に音を立ててキスをした。
−−!?
冴木はヒカルを降ろして立たせ、その手を取って歩き出そうとした。
その冴木の手を、ヒカルはぐいっと強く引いた。
「…抱かないとだめか? 歩けないかな?」
「……」
冴木はもう一度、ヒカルを抱き上げようと身をかがめると、
その体にヒカルが絡みつくように抱きついてきた。
「進藤?」
「……」
ヒカルが何か言っているのがわかるが、よく聞き取れない。
「…オレ、男だけど…ダメ?」
暑くなって、窓を開けるために一度エンジンをかけた。
外の冷たい空気が流れ込んできて、熱くほてった身体に心地よかった。
シートの背もたれを倒し、冴木とヒカルは身体を隙間なく寄り添わせていた。
(4)
ヒカルは冴木の首にしがみつき、頬を寄せて耳の下に口付けた。
暗闇の中、そうしなければ辿り着けないとでも言いたげに、頬に唇をすべらせ冴木の唇を探す。
そして、薄く柔らかな冴木の唇を見つけると、ついばむように浅い口付けを繰り返した。
冴木はヒカルにそうされ、急激に高ぶった。ヒカルを勢いをつけて抱き上げると大股で車まで戻る。
ヒカルは車の助手席に乱暴に座らされても、冴木の首にしがみついて離れようとしなかった。
「…離しちゃ、イヤだ」
ヒカルはやっと喉の奥から声をしぼり出した。
「進藤、…わかったから…」
冴木はそのままヒカルの身体を跨ぐようにして助手席に乗り込み、ヒカルに覆いかぶさりながらシートを倒した。
ヒカルは少し身体を浮かされるようにして冴木にきつく抱き締められた。
両足を冴木の足に挟み込まれ、全く身動きが取れない。冴木が深く口付けてくる。
自分の舌を冴木の舌に絡め取られ、強く吸われる。
苦しさを覚えながら、それでもヒカルは冴木の頭をかき抱いて、口付けに応えた。
背中を大きく撫で擦っていた冴木の手が、Tシャツの中に忍び込んでくる。
少し汗で湿った肌に冴木は手をすべらせ、するするとヒカルの胸までたくし上げ、
そのまま服を脱がせた。
そして自分もシャツの前をはだけ、右袖だけ脱ぐとヒカルと裸の胸を合わせた。
呼吸を重ね、お互いの身体の間に隙間を作るまいとするように肌を合わせ、ふたりは互いの唇を深く吸いあった。
「冴木さん、足が…」
冴木の両足に挟み込まれたヒカルの足が痛む。
ようやく唇が離れた隙にそう訴えると、冴木はヒカルの左足だけ解放し、足を大きく開かせるようにして膝を立たせた。
太ももを探り、布ごしにヒカルの中心に触れる。
そのまだ幼いモノの形を確かめるように手のひらに包み、撫で擦った。
「…んっ……ふ…」
他人からの手の行為に慣れていないヒカルの身体は敏感だった。下着とズホンに包まれたヒカルの中心はすぐに張り詰め、固くなる。
冴木の熱を持った手のひらで擦られるたびに、ヒカルの身体に甘く痺れるような快感が広がった。
息を弾ませて喉を反らせ、顎を上げて冴木の唇を求めてくる。
意識を集中させる先は下腹へと移り、
冴木の手の中で広がっていく快感をより得ようと、自分から腰をすり寄せた。
いつまでも布ごしにしか触れてこない冴木に焦れて、ヒカルは自分から脱いでしまおうとズボンのボタンに指をかけた。
それを見て取った冴木は「…ダメだよ」とヒカルに囁きかけ、ヒカルの手を止めた。
「…ん、苦しいよ…」
ヒカルは涙声で訴えたが冴木は何も言わずに、ただヒカルを包み込む。
自分の中心の熱い高ぶりを外に解放できないのならと、ヒカルは冴木の足の間へと手を伸ばした。
きついジーンズの中で冴木自身も張り詰めていた。そうとわかるとヒカルは冴木のベルトに手をかけて外そうとしたがうまく行かない。
「…ダメだって」
冴木がヒカルの耳を噛むようにして囁く。
「…だって、濡れてきちゃうもの…」
ヒカルが掠れた声で言うと、冴木はヒカルの中心を探っていた手の動きを止め、大きく息をついた。
しばらく呼吸を整えるように、じっと動かずにいた冴木がヒカルに尋ねる。
「いいのか?…本気にして」
ヒカルは冴木にわかるように、胸に頬をすり寄せ大きく頷いた。
(5)
「俺、進藤を傷つけちまう…」
冴木はそう言って、ヒカルのズボンのボタンを外し、一気に下着を下ろした。
弾かれたように、ヒカルの性器が現われる。ヒカルは足をばたつかせ、冴木が膝近くまで下ろしたズボンを脱ぎ、裸になった。
「…進藤、後ろに−−」
冴木は身体を起こしてベルトを外し、ジーンズを脱ぐ。
「−−後ろの座席に行って」
ヒカルはのろのろと這うようにして後部座席に移った。
移動しながら、自分の身体が震えているのに気がついた。
寒いのではない。いつまでも慣れない暗やみのせいでもない。
本当は冴木とこんな風になりたいと思っていたわけではなかった。
あの時、エレベーターの中で佐為と冴木の姿が重ならなかったら、冴木を意識することなどなかった。
抱き上げられ、頬にキスされて「女の子ならよかったのに」などと言われなかったら、
あんなに大胆に冴木を自分に引き込もうなどとしなかったろう。
女の子なら−−。冴木にそう言われた時、急に突き放されたような気持ちになった。
冴木に好意を寄せているのに、自分が男のために(そんなはずはないのだが)関係が切れてしまうような気がした。
−−オレが女の子だったら
−−オレが佐為がもっと碁を打たせていたら
何もかもが大きく違っていたら、こんなに淋しい思いをしなくても済んだかもしれない。
冴木が頬に口付けたのが始まりのような気がした。だから、口付けでなら冴木を繋ぎ止めることができるかもしれない。
佐為にやさしくされたように、冴木にやさしくされたい。自分だけが見えていた佐為と同じように、冴木を独り占めしたい…。
自分の口付けに応えて、身体を高ぶらせ、裸の胸を合わせているというのに、
いつまでも確信に触れてこない冴木に焦れて苛立った。
無意識に冴木を独占したい気持ちに駆られ、少し冷静になってみれば、自分でも思ってもみないほど冴木に大胆なことをした…。
しかし、ヒカルはもう裸になってしまった。冴木も同じだ。
身体に触れて唇を寄せるだけ。胸を合わせ、鼓動を重ねるだけではもう済まない。
男同士でも身体を繋げる方法があることを知識だけでは知っていた。
世の中の男の中には、女性と抱き合うより、少年や男と抱き合いたい者がいるのだということも、いつのまにか知っていた。
知ってはいたが、今、まさに自分がひとりの男を受け入れようとしているのだということに、ヒカルは震えだした。
他ならぬ自分が冴木を誘ったのだ。もう逃げるわけにはいかない。
ヒカルは冴木に抱き寄せられた。吐息が顔にかかる。間近に冴木がいるのに、闇に慣れないヒカルの眼には冴木の表情は見えない。
さっきと同じように、首に腕をまわそうとして手を冴木にぶつけてしまった。身体がこわばっているのがわかる。
そして冴木にも、ヒカルが先程とは打って変わって身体を堅くし、震えているのがわかった。
「どうしたんだ…進藤」
「…冴木さん、オレ…」
言うまいとするのに、思わずこぼしてしまった。
「…オレ、初めてで…その…」
声がうわずっている。ヒカルは冴木が怒り出すのではないかと思った。
しかし冴木はヒカルを抱きしめ、その顎を捕らえて、やさしく口付けた。
「大丈夫だから…。出来るだけ、やさしくするから…」
冴木はゆっくりと柔らかなヒカルの髪を梳きながら言った。
ヒカルは座席にそっと横たえされた。
冴木はヒカルの片足を持ち上げ、座席の背もたれの上に踵を引っ掛けるようにして大きく足を開かせた。
その足の間に、冴木が腰を当てて来る。続いてヒカルの上に覆いかぶさり、ヒカルの頬を両手で包み、額やまぶたに柔らかく口付けた。
少し浮かせた腰に冴木の堅く重くなった性器が押しつけられ、ヒカルはこれから起こるだろう痛みを想像して身震いした。
冴木はヒカルの頬から首に口付けを移動させながら、片手をヒカルの中心に添える。
ゆっくりと形をなぞるように指をからめられ、撫で上げられると秘そめていた声が思わず零れてしまった。
冴木の指の動きが気持ちいい。
先端からこぼれ出る雫を指で広げられ、張り詰めた中心をさらに強くこすられて、ヒカルは下腹をひきつらせた。
「…ん!…はぁっ…あ!」
冴木の手の動きにヒカルの身体が連続して跳ね上がる。
喉を反らせ、胸を反らせて股間から湧き上がる快感の波に身体を揺らし続けた。
無意識に、さらに快感を得ようと自ら腰を動かし冴木の手の動きに合わせて押しつける。
やがて甘く刺すような快感に支配され、さんざん嬲られた後、ヒカルは自分の精を冴木の手の中に喘ぎながら放った。
「…!!…ぅ…ん…」
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