失着点・展界編 1 - 5


(1)
携帯の着信音が鳴る音がする。ヒカルは即座に自分のではないと分かると
起き上がりかけた体を横にする。
「はい、もしもし、塔矢です。」
アキラが裸の上半身をおこし携帯を耳にあてて、何やら電話の向こうの相手と
打ち合わせの確認をしている。
ヒカルはむくりと起き上がると、やはり裸で電話中のアキラを背中から
抱き締め、耳を噛む。アキラはビクリッと肩をすくめながらもあくまで
冷静さを装って会話を続ける。
ヒカルは耳に舌を這わし、前にまわした手の指先でアキラの乳首を摘む。
「っん、あ…いえ、…何でもありません…、それで明日は…」
悪ノリしたヒカルはもう一方の手を毛布の下のアキラの下腹部へ伸ばした。
「…っ!…わ、…わかりました。それで時間は…」
アキラが片手でヒカルの手首を掴もうとするが、一瞬早くヒカルの手が
アキラのその部分をすっぽり包み、親指と人さし指で先端の果肉をくすぐる。
「…っは…はい、それで…っよろしくお願いします…。」
電話を切るなりアキラが振り返りキッと睨み付けてきた。
ヒカルは悪びれた様子も無く「ヘヘッ」と笑って舌を出してみせる。
だがどうやら本気でアキラを怒らせたらしく、アキラは無言でベッドから
出ると、バスルームの方へ向かった。
「おいおい、拗ねるなよ、塔矢ア。」
ヒカルも慌ててアキラの後を追ってバスルームに向かった。


(2)
バンッとアキラに鼻先でバスルームのドアを閉められてしまったが、
カギは掛けられなかった。中でシャワーの音が響き始める。
トイレと別とはいえ独身者専用の造りになっているのでバスルームは狭い。
ヒカルはドアがアキラの背中にあたらないよう必要最低限だけ中へ押し、
ネコのように隙間から浴室に滑り込む。アキラは振り向こうとしない。
ボディーシャンプーで手早く髪を洗っている。
ヒカルはそのアキラの背中に向かって何かを言おうとし、唇をかすかに
「オレ…」というかたちに動かした。だが声は出なかった。
そして泡が伝い滑り落ちる滑らかな白い背中に頬をくっつけてヒカルは
アキラの細い体をきつく抱き締めた。
シャワーの勢いがヒカルの色の薄い前髪を濡らし固く目を閉じたヒカルの
顔面に張り付かせて行く。
アキラは無造作に自分の前髪をかきあげ、お湯の吹き出し口に向かい何かを
考え込むように顔を流していたが、一度シャワーを止め、ヒカルに問いた。
「…何かあったの?」
「え?」
「いや、別にいいけど…、変にはしゃいでいるかと思うと急に黙り込んだり、
なんか、そういうのが時々あるからさ。」
アキラはもう一度シャワーのコックをひねってヒカルをくっつかせたまま
腕や胸を洗い流す。
ヒカルはアキラは鋭いと思った。だからこそ、いつかはなんらかのかたちで
伝わってしまうと思った。自分と和谷との出来事を。


(3)
「そ、そりゃあそうだろ。だって、お前としばらく会えなくなるんだから。」
それは実際そうだった。アキラは協会の要請で明日から五日間程中国に行く。
交流会のイベントで日本を代表する若手棋士として倉田と共にお呼びが
かかったのだ。
このあとアキラは自宅に戻り、明日の基院会館での大手合いが済んだら
直接空港に向かう事になっている。
その大手合いが問題だった。
和谷は前回の大手合いを休んでいた。伊角が心配そうにしていた。
最近和谷と連絡がとれないのだという。アパートにもいないらしい。
ふいにアキラがヒカルから離れた。中途半端に泡がついているヒカルを
シャワーの前に立たせて、スポンジにボディーシャンプーをつけて泡立てる。
自分は大雑把に髪を洗った程度なのに、ヒカルの背中をていねいに
洗い始めた。
「へへ、…くすぐったいや…。」
肩から指先、膝のうらから足首と、それが済むと体の前を、母親のように
アキラは優しくしっかりとヒカルを洗った。
そして新たに手に少量のボディーシャンプーをとりヒカルの髪を泡立てに
かかった。ヒカルの家ではお目にかかれない高級ブランドメーカーの香りが
漂った。髪の1本1本までアキラの指にすき通され、ヒカルは夢心地になる。
…そんなに心配することじゃないさ。
そう自分に言い聞かせていた。


(4)
翌日、ヒカルが基院会館の入り口を入るとすぐ正面のカウンターのところに
伊角が立っていた。その沈痛な表情にヒカルは事態の深刻さを感じた。
伊角はヒカルを見るなり駆け寄ってきた。
「進藤、和谷と会ったか?」
ヒカルは首を横に振った。
「そうか…。本当にどうしちまったんだろうな、あいつ…。」
伊角は信頼できる相手だ。だけど自分と和谷との事を話すわけにはいかない。
自分とアキラとの事に勘付いた和谷の口を封じるために和谷とSEXした。
そんな話が出来る訳が無い。
そんな二人の横をアキラが通り過ぎて行った。
ヒカル達がラフな服装に比べてこの後の予定のためダークスーツでやって来た
アキラは、完全にプロ棋士・塔矢アキラの面持ちになっていた。
一瞬目が合うが、特に互いに何も言わなかった。
アキラの持つムードに圧倒されたのか伊角がゴクリと息を飲む音が聞こえた。
「今は和谷より対局の事を考えないとな…。…くそっ」
伊角も会場に入った。ヒカルはギリギリまでそこで待った。
かつて和谷がそうやって自分を待った事があるのだと、和谷から恩着せ
がましく言われたことがある。
「和谷…!」
人影が現れそうにない入り口をしばらく見つめて、ヒカルも会場に入った。
プロ棋士の仮面の隙間から、そんなヒカルをアキラはジッと見ていた。


(5)
昇段のための勝ち星をかけた大手合いが始まった。ヒカルは軽く息を吸うと
アキラと同様にプロ棋士・進藤ヒカルへとなり変わる。
プロとは、プライベートであった出来事を切り捨てて目前の勝負に臨める事、
それが条件のひとつである。
ヒカルが今まず第一に克服していかなければいけない課題だ。
視界の端に、対戦者が現れない和谷の相手の後ろ姿が見える。
ある一定の時間が過ぎ、その相手は席を立って行った。
ほぼ同時に、「…ありません。」と早くも負けを宣言する悲痛な声が聞こえて
何人かがそちらを注目した。声の主は塔矢アキラの相手だった。
ヒカルにはアキラが手っ取り早く相手を倒した理由が何となく分かっていた。
会場を出たアキラは、協会側の人達と軽く打ち合わせの確認を済ませ、
ロビーで待機していた。
「少し早いですが…もう空港に向かいますか?タクシーを呼びますか?」
職員がアキラに声をかける。
「あ、…いえ、もう少し待って下さい。」
しばらくして対局を終わらせたヒカルが駆け付けて来た。当然勝って、だが。
ヒカルはそのまま外へ飛び出して行きそうになり、「進藤」というアキラの
呼び掛けに急ブレーキをかけた。
ヒカルはアキラを見送る事が出来てホッとした。
基院会館の前でタクシーに乗り込むアキラと握手を交わす。人前ではそれが
精一杯だった。
昨日シャワーを浴びながら最後にアキラと深く長いキスを交わした。
それで十分だった。
走り去ったタクシーを見送って、ヒカルは会館に入ろうと思った。
そのヒカルの足がピタリと止まった。
道路の向こう側に、和谷が立っていた。



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